私がはじめて小川哲の作品に接したのは2019年の夏『短編ベストコレクション2019』(徳間文庫)に収載されていた「魔術師」を読んだ時でした。名だたる書き手の作品が、綺羅星のように並ぶ中で、「魔術師」の文字だけが太字に浮き上がって見えるような、そんな錯覚を覚えるほどの衝撃を受けました。ストーリーだけではなく、全体に漂う名状しがたい喪失感や悲劇の予兆に打ちのめされ、鳥肌が立ち、「この人、一体何もの?」と、過去作品を取り寄せて読み耽りました。当時は今ほど知られた存在ではなく、知る人ぞ知るSF作家さんだったかと思います。
その後、短編集『嘘と正典』が発売され、興奮して夜が明けるまで読み耽った記憶があります。特に表題作「嘘と正典」の着想が素晴らしく、「この人、やはり天才だったんだ!」とあらためて感嘆しました。
短編集ですから多少は作品の出来不出来があると感じましたが、何といっても表題作に魅了されました。『嘘と正典』は第162回直木賞候補作となり、選評を楽しみにしていましたが、複数の選考委員が「よくわからない」という感想を漏らしたと知り、驚きました。
その後の小川氏のご活躍は皆さんご存知の通りで、『地図と拳』で第13回山田風太郎賞と第168回直木賞受賞、『君のクイズ』で第76回日本推理作家協会賞長編及び連作短編賞を受賞して、今や押しも押されもせぬ人気若手作家となりました。
「魔術師」は中国銀河賞の銀賞を受賞したそうです。
今回『嘘と正典』を再読すると、「魔術師」に初読の時のような感動は覚えませんでしたが、「時間」のずらし方がさすがに上手で、文章にも何とも言えない味わいがあり、やはり小川哲は不世出の作家だと確信しました。無冠に終わった「嘘と正典」の評価がずっと気になっていて、今回課題作に推させて頂きました。
小川氏は理一に入学後に文転して教養学部に移り、修論のテーマにエニグマの暗号解読で知られる数学者アラン・チューリングを選んだと聞き、いつの日かアラン・チューリングの数奇な一生を、小説として描いてくれるのではないかと期待しています。
ただ彼は私の娘と同年代で、こんな若い作家推しになったのは初めてで、彼の晩年の作品を読むことが叶わないと思うと非常に淋しく、それこそタイムマシンに乗って彼の円熟期の作品を読みに行きたいとすら願ってしまいます。一読者として今後の小川作品を、今か今かと待ち焦がれています。(文責・橘 かがり)
菊池先生 色々な歴史改変作品を少し俯瞰して見ている印象を受ける。若い作家が出てくるだけで大変な時代に、どういう作品を書くかが大切。どっしりとした人間を、あえて書こうとしない作風が面白い。満洲の架空都市を舞台にした『地図と拳』は必読。
参加者のおもなご意見
*嘘と正典」のマルクスとエンゲルスが出会わなければ……という発想がすごい。理系の人らしい作品だと感じた。
*面白いが中途半端なのか、全体にぼんやりした印象が拭えない。「ムジカ・ムンダーナ」が良かった。文庫の解説が良かった。
*参考文献も半端なく、物語を構築する力がすごい。ただ全体に若いなぁと感じて、深い味わいは感じなかった。歴史上の物語の中に、現代風の会話が入り込んでいて違和感を覚えた。
*SFは沢山読んできた。時と絡めた作品が面白い。ただ時間をずらす、止めるという設定自体は、SFにはよくあるパターン。「魔術師」が一番良かった。
*史実をあまり知らないせいか、電車の中で読んでいてなかなか入り込めなかった。「ムジカ・ムンダーナ」が面白かった。「嘘と正典」はフィクションとノンフィクションの絡め方が絶妙だと感じた。主人公は一体誰だったのか、クラインかエメラルドかホワイトか。
*この人の文章は読みやすい。頭の良い人だが、独りよがりになっていないのが良い。陳腐なところもあるが、作品として面白い。父親の存在を非常に重視しているように感じた。心の葛藤、深い部分で人間を描こうとしている。今後の活躍が楽しみ。
*SFが苦手で「嘘と正典」は種明かしされて最後に収斂していくが、よくわからないままに終わった。「一筋の光」が面白かった。
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