『青春とは、』姫野カオルコ 文芸春秋
2月27日(土)20時~22時 ※Zoomにてリモート開催
まず推薦者から
「作者と同年生まれ(正確に言うと僕のほうが学年では1つ上)、かつ、僕も共学で公立だったということでちょっと読んでみようかと。予想とは少し違ったけど面白く読めた。スマホもネットもSNSもない。学級崩壊もなくスクールカーストはその萌芽があったくらいか。家庭や地域社会の有り様は違うが、現在と比較してかなり自由というか、ユルい高校生活は、滋賀でも東京の東のはずれでも同じようなものだったようだ。思い返してもそんなに大したことはなかったあの頃の日々が現在の自分をどのくらい支えてくれているのか僕にはよくわからない。主人公乾明子にとっての3年7組のようなものがあなたにはあるだろうか?」
以下は出席者の皆さんの感想です。
・同年代の自分は高校時代は男子校だったが、自分もよく似た過去があったことを思い出す。昭和のあの頃の「あるある」が書かれているが、主題として一体何を言いたかったのだろうと思うところはあった。ぼそぼそとした独特の文体で途中まで入り込めず、シェアハウスの現代と高校時代の2つの時代を行き来しながら、未来に発展する部分がないようにも思えた。しかし最後の数ページで味わいが出てきた。借りた本を返せずにいることは過去と決別できないことを意味しているのか。「名簿」は過去から持ってきたもので、「have+過去分詞」のように還暦を過ぎた今の自分へのつながりを表している?
・自分は中高時代のことをここまで詳しく覚えていない。当時の友人には昔のことをよく覚えている人もいるが。作者の高校時代へのこだわりが感じられる。ミッシェル・ポルナレフにもあまり馴染みはない。私は女子校だったので、共学よりもさらにどうということのない青春だったように思う。
・作者の初期の作品が好きだったが、同じトーンにだんだん飽きが来て遠ざかっており、今回久々に読んだ。いろんな文学賞を獲ってから吹っ切れた感じがあって昔の良さを取り戻した感がある。私は中高共学で都会で高校時代を過ごしたのでシチュエーションは異なるが、時代はリンクしており、青春の恥ずかしさには共感を覚える。脚注の入れ方は田中康夫の『なんクリ』が思い浮かぶが、あれを揶揄する意図もあるのだろうか。
・読後、胸に刺さるものはあまりなかった。高校時代は女子校、中学は共学だったが越境通学で部活後はすぐ帰宅していて、今はもっといろいろな活動をしておけばよかったなと思う。でもやっぱり自分は今と同じ道を歩むであろうとも。何年かしたらリセットした気分で過去を振り返る準備をしたい。
・作者と同年生まれで大学も同じなのでキャンパス内ですれ違っていたのかも。同じ世代なら「あるある」と共感を呼び、もっと若い世代には「年上の世代はそうだったんだ」と考えさせる作品だと思う。私は親の転勤で仙台の女子高に行くことになったが地域の一番校で、余所者の自分と異なり、今でいう「自己肯定」力の高い地元の女子が集まっていた。女子校には差別感がなく、男子がいるといないとでは全く環境が違う。作品で気になったのは時代の象徴としてミッシェル・ポルナレフなどが使われていること。当時であれば「ベルばら」とか「ハイカラさん」とか、もっと代表的なものが他にあったのでは。
・著者の作品を読むのは初めて。40年も前の話を非常に細かいディテールで描き、リアル感に満ちている。元は「オール読物」に連載していた短編を集めたもののようなので、エッセイ的な要素があったのかと思う。実体験がなければ書けない話。「プロポーズ大作戦」など関西のテレビ番組の話が出てくるが、滋賀は関西圏では存在感が薄い。主人公の父はシベリア帰りで甲斐性なし、母が稼ぎに出ているが父は娘に料理を作らせて「不味い」と文句を言う。家より学校の方が楽しい。恥ずかしさが詰まり、思い悩んだ時代はあんなに時間があったのに、60を過ぎた今となっては人生の残り時間が少なく、その切なさが描かれている。
・初期の作品は読んだことがある。作者より7歳下の私には、この作品に出てくる「重信房子」のことはよくわからないが、ありありと高校時代が蘇ってきて面白かった。自分は共学校だったが、元は女子校だったので女子クラスがあり、3年のときはそこにいたので、先生に辛子を仕込んだバレンタインチョコを食べさせるとか、女子ならではの悪ふざけやいろいろな思い出がある。俳優や有名人と同姓同名、一字違いの先生や友人もいたなと懐かしく思い出せて楽しかった。
・途中までしか読んでいないが、少し年代が違うので重信房子さんもピンと来ず、わかりにくい感じがしているが、皆さんの感想を聞いて最後まで読むのを楽しみにしている。
・課題本ではなく「オール讀物」2016年7月号に掲載された「共学における体育と男子」を読んでの感想。同世代でもあるが、もっと共感を覚えたのは地方の共学高である点。今のようなネットもない時代、地方の高校から東京に進学した若者にとっての「青春時代」は、閉塞感に満ちた日々があり、世の中を知らず未熟だった羞恥がある。朝井リョウの「桐嶋、部活やめるってよ」の岐阜の共学校にも狭い地域社会のスクールカーストがあり、思い出すだけで顔を覆いたくなるような青春の恥ずかしさがあふれていた。ストーリーがどうこうという作品ではなく、これは「あの時代のあの場所の青春」を象徴する塊みたいなものだと思う(読んでもいないのに)。
というわけで読後感というより、ひとしきり自分の高校時代を語る読書会となりましたが、
それについて講師の総括がこちらです。
◆青春小説には2つの特性がある。
①風俗小説であるということ
②読み手が自分をスライドすること
皆さんが自分の高校時代がどうだったかを語ったように、青春小説は読者が共感しやすい。青春小説とは羞恥をさらけ出すものであり、そこに作者の自己顕示欲があるかないかで好悪が分かれるが、それは作品の出来とはまた別物である。
書き手は、同世代以外の読者にもその時代性や空気を伝えなくてはいけないので、その道具として当時流行していた音楽や映画、本などが使われる。そのために風俗小説にならざるを得ない。しかしこれは時が経てば古くなるというリスクもある。長く生き残る作品になるには、その時代にある「芯(真?)」の小説かどうかで評価が分かれる。
姫野カオルコは「青春物=風俗小説」であることを逆手にとり、同世代以外の人にも読まれるために脚注を付け、大人になってから振り返る視点を持つという方法論で自分の時代、歴史を作り上げている。
この作品では70年代の象徴として「重信房子」が登場する。60年の安保の時代と違い、どういう時代を生きていけばいいのか、行きはぐれた人はどう生活していくのか。学生活動をしていた人はサラリーマンになり、小説家になった人もいる。
また、舞台が地方にあることにも意味がある。地方には都会に対する劣等感がある。しかしそれがパワーともなり、地方出身の感覚を持つ作家の方が大成することが多い。
なお、他に青春小説の代表作品として
三田誠広『僕って何』『Mの世界』
佐藤正午『童貞物語』
福本武久『湖(うみ)の子たちの夏』
さらに青春小説の原点にあたるものとして秋元書房のジュニアシリーズ
川上宗薫『心配ないよ』
をご紹介いただきました。機会があれば読んでね。
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