:平和の党と自民党政府・・・軍閥復活危険性増大!三菱自動車燃費改ざん詐欺事件・・・兵器輸出懸念!
:復活!軍法会議(軍人が軍人裁く)再開傷痍軍人会(現在新人傷病兵70年間不入会の為)・・・老齢化解散
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS04.html
4 日米開戦に反対した人はいたのか “日米開戦不可ナリ”
作家・保阪正康氏の主宰する『昭和史を語り継ぐ会』に機関誌があり、ある号に「なぜ皆さんは戦争に反対しなかったのですか」との女子大生の文章が掲載された。(文藝春秋特別版・平成17年08月増刊号P40)これは“戦争批判”を展開したのではなく素朴な疑問だったらしいが、戦争を知らない世代の率直な吐露であろう。定年を過ぎて少しは太平洋・大東亜戦争の内実を知りつつある私でさえ瞑目して考えることがある。この頁では当時の日米対立の観点から当時の潮流に逆らって明確に日米戦争に反対した人に注目、取り上げる。いずれも昭和16年(1941)時点の人物である。陸軍情報将校・小野寺信、陸軍主計将校・新庄健吉、海軍将校・山本五十六、駐日アメリカ大使・ジョセフ・グルーの4人。
◇★小野寺信(おのでらまこと・陸軍少将)明治30年(1897)―昭和62年(1987)
(画像は番組タイトルと昭和60年時の小野寺信
私が小野寺信の名を知ったのは、NHK特集「日米開戦不可ナリ」なる特集番組である。昭和から平成に移行した2月の建国の日から12本の「NHK特集」が再放送された。「昭和万葉集」などと一緒に12日間、深夜の再放送だった。「日米開戦不可ナリ」は「ストックホルム―小野寺大佐発至急電」とのサブタイトルが付いている。当時のストックホルム駐在武官である小野寺は、同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、そのドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況にあることの正しい情報を得て、日本の英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。(正論「昭和天皇と激動の時代」P278)小野寺は、その情報を匿っていたポーランド愛国主義者、ミハール・リビコフスキー(白系ロシア人を装い「ぺーター・イワノフ」なる名でもあった)などから得ていた。両者とも北欧を拠点に置くスパイ、つまりは情報収集武官である。小野寺は、ルビコフスキーからの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、日本本国へドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると何度も警告した。しかし日本の大本営は小野寺情報を信用せず、ヒトラー一辺倒の大島浩ドイツ大使のベルリン発情報だけを採用し、ついに日米開戦に踏み切る。(なお小野寺、リビコフスキーは昭和60年時、存命だった)リビコフスキーは、大戦中、祖国のために心骨を砕いて働いたのに、ポーランドの共産化のためについに祖国に帰れず、戦後アメリカに帰化、後にカナダに移住した。
特集番組の中でリビコフスキーは「今日私が生きているのは小野寺のおかげ」と言わしめている。昭和45年の「大阪万博」で劇的に再会し、その後交流が続いた。自分が協力した記録がポーランドの軍事博物館にも現在の防衛庁にも残るのを素直に喜び、小野寺が当時の日本の同盟国のドイツ国防司令部から終始庇い通した恩は、一生忘れるものではないと小野寺夫人に伝えている。(「バルト海のほとりにて」P163)(左記画像・リビコフスキー)
その『バルト海のほとりにて』は、昭和60年の発行だが、名著ゆえに再版され、このほどインターネットで購入した。この内容によれば著者・小野寺百合子は、武官とはどのような仕事をするのか、そしてその妻の役割はどのようなものなのか、詳細に語っている。武官の責任のうち一番重要なのは暗号書や重要文書の保管。保管してある金庫の管理、外出するときは夫と妻が分けて持ち歩くことや、暗号文書の作成、解読など第三者に任せることのできない難しい仕事を妻が担っていたと、NHK特集番組で、今は亡き小野寺百合子自身が語っている。(画像は小野寺百合子・下)
次女の大鷹節子氏によれば、小野寺信の情報収集能力が際立っていたのは、ドイツ語・ロシア語・スウェーデン語に堪能だったことによるヨーロッパの情報網だった。この時期、小野寺は北欧の中立国から見たヨーロッパの動向を日本の参謀本部に忠実に報告しているが、殆ど中央には無視されている。ルビコフスキーからは、更に太平洋・大東亜戦争末期の昭和20年02月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三首脳によるヤルタ会談の情報を得る。ソ連の対日参戦が密約されていた情報を得た小野寺は、ただちに「戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返す。なお単独でスウェーデン国王を介しての和平工作も試みている。この選択は戦後正しかったことが証明されるが、またしても大本営はこの情報を無視。この結果、ソ連は易々と満州へ攻め入り、シベリアに60万人もの日本兵が送られ、大陸に居た100万人もの民間人が、帰国時期に“阿鼻叫喚”とも云える苦しみを味わい、中国残留孤児のような悲劇は今も続いている。
小野寺情報を握り潰したのは大本営・参謀本部の一握りの「奥の院」の参謀だったと大鷹節子氏は言う。(正論「昭和天皇と激動の時代」P279)その参謀とは今もっても解らないらしい。その一つの答えとして、小野寺自身関係なくとも二・二六事件を起こした「皇道派」に属したから見向きもされなかったのだと分析するのは、昭和史に詳しい半藤一利氏である。(「文藝春秋平成17年11月号・日本敗れたり」P288)ことの内容は精査されず、軍の派閥でしかないレッテルを貼って聞く耳を持たないのは、昔も今も変らない日本の国民性なのか。これは今の官僚の世界にも脈々と引き継がれている気がする。大本営の公文書などは、終戦の日に、その多くが焼却されたので確かな証拠はない。それを現在、現代史家が英米などの公文書館で発掘しているのは更に悲しい。しかし“小野寺情報”を握りつぶしたのは誰か、は傍証から判断できる。参謀本部で「中佐」ながら6年間も重用された瀬島龍三、上司の梅津美治郎、陸軍大学卒業の序列から、これは忖度・斟酌した結果である。
小野寺百合子は、著書のあとがきで「滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗しきれるものではない。一片の木片は水に流され消え去る。だがその木片の行動の軌跡は当時認められなかったとは云え、正確に記録に止めてほしい」と謙虚だが(「バルト海のほとりにて」P250)無念さがにじみ出ている。(下記はスウエーデン駐在武官時代の小野寺信)
小野寺が逸速くキャッチした「ヤルタ会談」とは、連合国3カ国の首脳の会談。1945年(昭和20年)02月行われ、第二次世界大戦後の処理について協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。日本に関してはルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄すなわちソ連の対日参戦を促した。ドイツ降伏の2~3カ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。小野寺情報の通り、ヤルタ協定に従ってドイツ降伏3カ月後にソ連は日本に宣戦布告。易々と満州へ押し入り無抵抗の日本人に残虐の限りを尽くした。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連軍参戦の翌日に、ここでやっとポツダム宣言受諾を決めた。小野寺情報はなぜ無視されたのか、残念などと言うものではない。私は小野寺信のような優秀で憂国の士が当時の参謀本部に存在していたことが驚きであり、それを生かさないばかりか邪魔者扱いしたドイツ大使館と参謀本部に怒りを覚える。いずれにしても詳しい経緯は「戦争はなぜ早められなかったのか」の章で考察してみたい。
この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談で中国や朝鮮の帰趨を決定していた。しかし米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。この会談以降アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が始まった。
この項の参考書
◇正論・平成17年9月特別号『昭和天皇と激動の時代』産経新聞社
◇『バルト海のほとりにて』小野寺百合子 共同通信社
◇『昭和天皇独白録』文春文庫
◇文藝春秋・平成15年12月号『真珠湾騙し討ちの新事実』
◇プレジデント・平成6年3月号『日本人論の傑作を読む』
平成23年復刊
◇『滞日十年』ジョセフ・グルー ちくま文芸文庫
ページの最後には、1人の代議士と戦後の3人の内閣戦後総理大臣を努めた人物を取り上げる。この4人は明確な反戦論者であり、紹介する書・HPも多いので簡単な略歴と反戦行為にとどめる。略歴は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。
:復活!軍法会議(軍人が軍人裁く)再開傷痍軍人会(現在新人傷病兵70年間不入会の為)・・・老齢化解散
http://www1.odn.ne.jp/~ceg94520/mumyouan/mumyouS04.html
4 日米開戦に反対した人はいたのか “日米開戦不可ナリ”
作家・保阪正康氏の主宰する『昭和史を語り継ぐ会』に機関誌があり、ある号に「なぜ皆さんは戦争に反対しなかったのですか」との女子大生の文章が掲載された。(文藝春秋特別版・平成17年08月増刊号P40)これは“戦争批判”を展開したのではなく素朴な疑問だったらしいが、戦争を知らない世代の率直な吐露であろう。定年を過ぎて少しは太平洋・大東亜戦争の内実を知りつつある私でさえ瞑目して考えることがある。この頁では当時の日米対立の観点から当時の潮流に逆らって明確に日米戦争に反対した人に注目、取り上げる。いずれも昭和16年(1941)時点の人物である。陸軍情報将校・小野寺信、陸軍主計将校・新庄健吉、海軍将校・山本五十六、駐日アメリカ大使・ジョセフ・グルーの4人。
◇★小野寺信(おのでらまこと・陸軍少将)明治30年(1897)―昭和62年(1987)
(画像は番組タイトルと昭和60年時の小野寺信
私が小野寺信の名を知ったのは、NHK特集「日米開戦不可ナリ」なる特集番組である。昭和から平成に移行した2月の建国の日から12本の「NHK特集」が再放送された。「昭和万葉集」などと一緒に12日間、深夜の再放送だった。「日米開戦不可ナリ」は「ストックホルム―小野寺大佐発至急電」とのサブタイトルが付いている。当時のストックホルム駐在武官である小野寺は、同盟国・ドイツがイギリスではなくソ連へ侵攻する意図を持っていること、そのドイツの「対ソ連戦」の戦局が不利な状況にあることの正しい情報を得て、日本の英米への「開戦不可」を30回以上も打電した。例えばその情報とは「ドイツ軍は東部へ向かい戦死者のための棺を多く輸送している」などの客観的事実である。(正論「昭和天皇と激動の時代」P278)小野寺は、その情報を匿っていたポーランド愛国主義者、ミハール・リビコフスキー(白系ロシア人を装い「ぺーター・イワノフ」なる名でもあった)などから得ていた。両者とも北欧を拠点に置くスパイ、つまりは情報収集武官である。小野寺は、ルビコフスキーからの情報によって当時の欧州の戦局を正確に掴み、日本本国へドイツ側からの情報だけに頼るのは危険であると何度も警告した。しかし日本の大本営は小野寺情報を信用せず、ヒトラー一辺倒の大島浩ドイツ大使のベルリン発情報だけを採用し、ついに日米開戦に踏み切る。(なお小野寺、リビコフスキーは昭和60年時、存命だった)リビコフスキーは、大戦中、祖国のために心骨を砕いて働いたのに、ポーランドの共産化のためについに祖国に帰れず、戦後アメリカに帰化、後にカナダに移住した。
特集番組の中でリビコフスキーは「今日私が生きているのは小野寺のおかげ」と言わしめている。昭和45年の「大阪万博」で劇的に再会し、その後交流が続いた。自分が協力した記録がポーランドの軍事博物館にも現在の防衛庁にも残るのを素直に喜び、小野寺が当時の日本の同盟国のドイツ国防司令部から終始庇い通した恩は、一生忘れるものではないと小野寺夫人に伝えている。(「バルト海のほとりにて」P163)(左記画像・リビコフスキー)
その『バルト海のほとりにて』は、昭和60年の発行だが、名著ゆえに再版され、このほどインターネットで購入した。この内容によれば著者・小野寺百合子は、武官とはどのような仕事をするのか、そしてその妻の役割はどのようなものなのか、詳細に語っている。武官の責任のうち一番重要なのは暗号書や重要文書の保管。保管してある金庫の管理、外出するときは夫と妻が分けて持ち歩くことや、暗号文書の作成、解読など第三者に任せることのできない難しい仕事を妻が担っていたと、NHK特集番組で、今は亡き小野寺百合子自身が語っている。(画像は小野寺百合子・下)
次女の大鷹節子氏によれば、小野寺信の情報収集能力が際立っていたのは、ドイツ語・ロシア語・スウェーデン語に堪能だったことによるヨーロッパの情報網だった。この時期、小野寺は北欧の中立国から見たヨーロッパの動向を日本の参謀本部に忠実に報告しているが、殆ど中央には無視されている。ルビコフスキーからは、更に太平洋・大東亜戦争末期の昭和20年02月、ルーズベルト、チャーチル、スターリンの米英ソ三首脳によるヤルタ会談の情報を得る。ソ連の対日参戦が密約されていた情報を得た小野寺は、ただちに「戦争を終結すべし」との打電をこれも必死に繰り返す。なお単独でスウェーデン国王を介しての和平工作も試みている。この選択は戦後正しかったことが証明されるが、またしても大本営はこの情報を無視。この結果、ソ連は易々と満州へ攻め入り、シベリアに60万人もの日本兵が送られ、大陸に居た100万人もの民間人が、帰国時期に“阿鼻叫喚”とも云える苦しみを味わい、中国残留孤児のような悲劇は今も続いている。
小野寺情報を握り潰したのは大本営・参謀本部の一握りの「奥の院」の参謀だったと大鷹節子氏は言う。(正論「昭和天皇と激動の時代」P279)その参謀とは今もっても解らないらしい。その一つの答えとして、小野寺自身関係なくとも二・二六事件を起こした「皇道派」に属したから見向きもされなかったのだと分析するのは、昭和史に詳しい半藤一利氏である。(「文藝春秋平成17年11月号・日本敗れたり」P288)ことの内容は精査されず、軍の派閥でしかないレッテルを貼って聞く耳を持たないのは、昔も今も変らない日本の国民性なのか。これは今の官僚の世界にも脈々と引き継がれている気がする。大本営の公文書などは、終戦の日に、その多くが焼却されたので確かな証拠はない。それを現在、現代史家が英米などの公文書館で発掘しているのは更に悲しい。しかし“小野寺情報”を握りつぶしたのは誰か、は傍証から判断できる。参謀本部で「中佐」ながら6年間も重用された瀬島龍三、上司の梅津美治郎、陸軍大学卒業の序列から、これは忖度・斟酌した結果である。
小野寺百合子は、著書のあとがきで「滔々たる時の流れには、一個の人間はどうにも抗しきれるものではない。一片の木片は水に流され消え去る。だがその木片の行動の軌跡は当時認められなかったとは云え、正確に記録に止めてほしい」と謙虚だが(「バルト海のほとりにて」P250)無念さがにじみ出ている。(下記はスウエーデン駐在武官時代の小野寺信)
小野寺が逸速くキャッチした「ヤルタ会談」とは、連合国3カ国の首脳の会談。1945年(昭和20年)02月行われ、第二次世界大戦後の処理について協定を結び、イギリス・アメリカ・フランス・ソ連の4カ国によるドイツの戦後の分割統治やポーランドの国境策定、バルト三国の処遇などの東欧諸国の戦後処理を発表した。日本に関してはルーズベルトは、千島列島をソ連に引き渡すことを条件に、日ソ中立条約の一方的破棄すなわちソ連の対日参戦を促した。ドイツ降伏の2~3カ月後にソ連が日本との戦争に参戦すること、樺太(サハリン)南部をソ連に返還すること、千島列島をソ連に引き渡すことなどが決められた。小野寺情報の通り、ヤルタ協定に従ってドイツ降伏3カ月後にソ連は日本に宣戦布告。易々と満州へ押し入り無抵抗の日本人に残虐の限りを尽くした。広島に原爆投下されても、なおも抵抗を続けていた日本軍は、ソ連軍参戦の翌日に、ここでやっとポツダム宣言受諾を決めた。小野寺情報はなぜ無視されたのか、残念などと言うものではない。私は小野寺信のような優秀で憂国の士が当時の参謀本部に存在していたことが驚きであり、それを生かさないばかりか邪魔者扱いしたドイツ大使館と参謀本部に怒りを覚える。いずれにしても詳しい経緯は「戦争はなぜ早められなかったのか」の章で考察してみたい。
この密約の会談では、日本以外の国についても話し合われた。米ソ両国は、カイロ会談で中国や朝鮮の帰趨を決定していた。しかし米ソの対立が深まるようになると、その代理戦争が朝鮮戦争となって勃発し、朝鮮半島は今に至るまで分断されている。この会談以降アメリカを中心とする資本主義国陣営と、ソ連を中心とする共産主義国陣営の間で本格的な東西冷戦が始まった。
この項の参考書
◇正論・平成17年9月特別号『昭和天皇と激動の時代』産経新聞社
◇『バルト海のほとりにて』小野寺百合子 共同通信社
◇『昭和天皇独白録』文春文庫
◇文藝春秋・平成15年12月号『真珠湾騙し討ちの新事実』
◇プレジデント・平成6年3月号『日本人論の傑作を読む』
平成23年復刊
◇『滞日十年』ジョセフ・グルー ちくま文芸文庫
ページの最後には、1人の代議士と戦後の3人の内閣戦後総理大臣を努めた人物を取り上げる。この4人は明確な反戦論者であり、紹介する書・HPも多いので簡単な略歴と反戦行為にとどめる。略歴は、フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』参照。
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