39県緊急事態宣言解除、大阪モデル達成と一応第一戦勝利と言ってもいいんですかね?
「収束」という流れに乗れたと思います。後は「終息」できるかというところですが・・素直には行かないのかもしれません。
少し気分が晴れた気がしますが・・“油断禁物”でしょうね。
ところで発祥の武漢、知らないのに馴染みのある地です。
そう、日本人の好きな三国志の舞台だったということですね。
物語として語られる前半のヤマにして全編のクライマックス、赤壁の戦い。
その地名があったということではなく、蜀呉同盟軍が曹操の魏軍を火攻めで散々に撃破、その火が岸壁に映えて赤く見えたということから赤壁と呼ばれるようになったということです。
ただ、縮尺を大きく見ると“ここらへん”というのは分かるんですが、“ここ”と特定するのはできてなくて候補地がたくさんあるそうです。
現在の戦蹟表示は、正しいかもしれないし、先に言ったもん勝ちというところかもしれません。
何分にも古いことなんでよっぽどの記録・特徴がない限り無理ですね。日本も含めいずこも・・
そして後半のヤマ、街亭の戦い。
蜀が山越えして魏の心臓部を衝くと見せかけて、今後魏を完全討伐する出撃路および兵站基地の確保のため渭水盆地の後背部を制圧する作戦を立てます。
それは蜀に対する備えのない魏にとって国運を左右する非常に大きな脅威となるため魏陣営の奪還、蜀の排除に即応します。
さて、魏はどのように進行してくるのか?
[通説]:魏の司令官に司馬懿仲達が出てきた以上、必ずや迂回して蜀軍の背後を衝いてくるに違いない。その地は街亭、実戦経験はないものの有能な馬謖を守将に置いて防ごう。
[極論]:魏も緊急の一大事として出て来るんだ、迂回などせず直行路で来るよ。
ただ、街亭にも道が開いてはいるから念のため守りを置いておくか。将は実戦経験のない馬謖に経験を積ませるつもりにしといていいだろう。
果たして・・魏軍は街亭にやってきます。
守将馬謖の戦いぶりは通説的に机上論者の大馬鹿者として描かれますが、真相は分かりません。後の世の脚色が大きいでしょう。
結論として蜀は街亭を失陥したため、包囲される危惧が現実化し、大急ぎで撤退のやむなきに至ります。
この後も蜀は数次にわたり長安攻略の軍を出しますが、ついぞ念願を果たすことはできませんでした。
蜀が魏を討つというのはこの時をおいてなかったのかもしれません・・
赤壁が祇園祭の山鉾巡行なら、以降は”後の祭り”で地味な戦いとなっていきますが、大きな流れに向けて重要になっていくものです。
コロナへの戦いも今後もう数度重要な局面ありですかね・・武漢三国志なだけに・・・
https://6628.mitemin.net/i66055/ さんの地図画像をお借りしています。
漢中(漢は地図上サンズイに又)が蜀の策源地(出撃拠点)
趙雲軍の進軍路である褒斜道は険阻(蜀の桟道)、諸葛(孔明)軍の進軍路は大きく迂回するが比較的なだらからしい。
天水を挟んで反対側岐山(祁山?)は交通の要衝で魏の拠点。蜀の進軍により天水付近の三郡は蜀になびいた。
用意周到な孔明に対し、魏延は虚を衝いて自分が子午道経由で直に長安を攻撃する案を示すが、孔明は却下、このことが以降の確執になったとする説がある。
魏側も大挙して西に向かえば虚を衝いて長安が攻撃される恐れがあるとの懸念が出たものの”孔明はそんなことせん!“として対応策は取らなかった模様。魏延案は意外と成功したかも・・
”街亭の戦い”の現場は碑あるも本当にそこかは不明、現代の航空写真で見てもなにかわからないです・・