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間が開きましたが、上州行きの続きです。
平井城を訪ねました。
平井城は山内上杉家の居城です。
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この遺構は平時の城、いわば邸。有事の際は背景(?)の山にある城が詰め城となるらしい。
室町幕府の関東統治機構は、鎌倉府に置く鎌倉公方をトップに関東管領が補佐するというものです。
現代風に言い換えて、幕府は自らを室町株式会社の本社、鎌倉府を関東支社と見ます。
しかし、公方側は関東本社であり、本来自分こそ全国本社だとの思いがあります。
関東管領は自身の秘書室長であるものの必ずしも人事権が及ばないところがあり、本社のスパイという意識も強めてきます。
管領が実権を握ってくる中、管領にも一族別家とそれぞれの家に秘書役として家宰があります。
これらの力関係が地方勢力を含めて複雑に絡みあい、激しく、長期に渡る動乱が繰り返されます。
まさに人間関係ドロドロ・・
ただ、史跡・遺構を訪ねてみようと思っても期間が長いため、登場人物が多く、しかも〇氏、△氏・・憲〇、憲△・・など似た名前でチンプンカンプンになってしまいます。事件も多く先後さえも??になりがちです。
そのため、暇にまかせ動乱のしおりとばかりに簡単なまとめをしてみました。
専門の研究者でもないんで正確さは”?”ですが、趣味のレベルでは大きな間違いはないのではと思います。
これをもとに史跡でも見るか・・という算段です。
因みに、今回の平井城は永享の乱の前夜、公方との関係が険悪になり身の危険を感じた管領が鎌倉から退避するときのため急遽築いたと言われる城です。
関東動乱 | しおり | |
1349 | 観応の擾乱 | 初代将軍足利尊氏、弟直義、尊氏執事高師直が激しく対立、武力衝突に発展 |
1349 | 鎌倉公方発足 | 擾乱に関連し、将軍の留守居役として鎌倉府に置いていた尊氏嫡男義詮を京に呼ぶ。 |
空席となった鎌倉府の長官関東管領に尊氏実子基氏を、補佐役に執事上杉氏を充てる。 | ||
後、管領が公方(通称)、執事が管領と名称が変わる。 | ||
1416 | 上杉禅秀の乱 | 上杉氏に一族別家あり。 |
管領となっていた禅秀(氏憲、犬懸家)は公方持氏の若年故に発言力を強めたとされ、持氏と反目。 | ||
持氏が禅秀を解任し、後任に山内上杉家の憲基を充てると激しく反発、大がかりな計画を持って武力蜂起。 | ||
持氏と憲基を討ち取れなかったものの一時的に禅秀のクーデター成功。 | ||
幕府は持氏を快く見ていなかったが、禅秀と幕府一族が結び倒幕の意があることが発覚し持氏を支持する。 | ||
幕府による追討令により禅秀敗北、反乱勢力は自刃。→犬懸家滅亡(血脈は存続) | ||
公方持氏はその後幕府方大掾氏、小栗氏、宇都宮氏など幕府方を攻撃し、滅亡させる。 | ||
上杉禅秀の乱の掃討戦としての暴走。幕府と公方の反目。 | ||
1423 | 応永の乱 |
西日本で大内氏が挙兵、倒幕の動き(応永の乱)、公方持氏もこれに同調するため兵を動かすが、管領憲実に諌止され中止。 |
1438 | 永享の乱 | 公方持氏、管領憲実と幕府の結託を疑い関係険悪化、周辺勢力を巻き込み武力衝突に及ぶ。 |
幕府は持氏追討令を出す。 | ||
追討軍に攻められ持氏自刃、鎌倉公方断絶。 | ||
1440 | 結城合戦 | 六代将軍義教が鎌倉公方に実子政知を据えようとしたことに持氏残党結城氏らが反発、持氏遺児を奉じて蜂起。 |
幕府側が平定、遺児3人中2人は護送中謀殺、幼少の1人は処断待ち。 | ||
ただし、政知は鎌倉に入ることができずに伊豆堀越に留まり、堀越公方となる。 | ||
1441 | 嘉吉の変 | 幕府重臣赤松満祐が将軍義教を謀殺。 |
”万人恐怖”と恐れられた義教の目が自身に向くのを警戒して先手を打ったとも。 | ||
鴨の子ができたのでこれを見ながら結城合戦の祝賀の宴をと油断を誘った。 | ||
変の結果、持氏遺児赦され鎌倉公方再興。(←成氏)) | ||
1450 | 江ノ島合戦 | 上杉憲実の子憲忠、父の反対を押切り管領に就任、成氏を補佐するが成氏は持氏派を重用。 |
持氏派の進出を抑えるため合戦に至る。和議となるが容易に解消しない対立をさらに深める。 | ||
1455 | 享徳の乱 | 持氏、不仲となっていた管領憲忠を呼びつけその場で殺害。 |
手の者により管領重臣も殺害。乱の勃発。諸勢力を巻き込み大混乱、長期化。 | ||
戦乱の中、出撃中に鎌倉を奪われ古河に退避、以降古河公方となる。 | ||
1467 | 応仁の乱 | 八代将軍義政、嫡子がないことから僧籍にあった実弟を還俗させ将軍職を継がせることとする。 |
”兄上はまだ子を生せる齢”との懸念に、仮にそうなった場合でも将軍職は譲ると約束。 | ||
義政に嫡子誕生、継承を巡る争乱勃発。 | ||
同様の家督事情を抱える武家もあり、その他の要因も含め争乱は全国に波及。 | ||
享徳の乱を収拾できない幕府の求心力、統率力の低下も原因とされる。 | ||
1476 | 長尾景春の乱 | 山内上杉家宰長尾家にも一族別家あり。 |
家宰の死に際し自身が家宰を継げず他家に渡ったことに反発、長尾氏内訌。 | ||
各勢力が加担錯綜し、古河公方も加わって大乱。収束に向け扇谷上杉家家宰太田道灌大活躍。 | ||
享徳の乱の終盤とされる。 | ||
1486 | 太田道灌謀殺 | 道灌の活躍に主家筋の山内上杉がお家の一大事の恐れと教唆、これをまともに受けた扇谷上杉謀殺に及ぶ。このとき道灌”我方全滅”を叫ぶ。道灌不在により扇谷家万事に振るわなくなる。 |
1487 | 長享の乱 | 長尾景春の乱の終息への寄与で、絶対的であった 山内家>扇谷家 の関係が微妙となり対立、抗争。 |
1505年まで続くこの乱の結果、両上杉相互に衰退。 | ||
北条侵寇 | 間隙を縫った後北条氏の侵寇を許す。 | |
扇谷上杉本拠河越城をも奪取される。 | ||
1546 | 河越夜戦 | 共通の敵の出現に対立関係の両上杉と公方が連合、河越城奪還に出る。 |
長期攻囲の後、連合側散々に打ち破られる。扇谷上杉滅亡、山内上杉越後に逃亡。 | ||
(上杉謙信関東管領を譲られる。) | ||