土佐のくじらです。
今日は、海外の歴史のミステリーに挑戦です。
とは言え、私はそれほど、世界史に詳しくはないのですが、どうしても腑に落ちない歴史的事実がございます。
というのも、平家の時代が終わり、その後鎌倉幕府の時代に訪れる元寇、蒙古襲来の相手国の元=モンゴル帝国ですが、なぜモンゴルが、当時の中国に進入できたのかが、今の私には全くわからないのです。
紀元前200年頃に中国北部では、秦の始皇帝により、有名な世界遺産でもある【万里の長城】が築かれました。
これは、度々北方から襲来する、匈奴の進入を防ぐための軍事施設です。
匈奴は、日本人は「きょうど」と呼びますが、本来は(諸説ありますが)どうやら、「フンナ」もしくは、「ヒュンナ」という呼ばれ方をしていたようです。
つまり、ローマ帝国の滅亡のきっかけとなった、「フン族」だと思われます。
今でも、ハンガリーやフィンランドという国名に、フン族の名残りがございます。
今ある長城のほとんどは、後代の明の時代に造られたということで、始皇帝の長城はもっと北にあったようです。
この長城の効果は絶大でした。
騎馬大軍による攻撃を主体とする匈奴には、とんでもなく長い城には馬の動きが止められ、兵士は弓矢で射抜かれて、中国にはどうしても侵入できなかったのです。
古代モンゴルには、「ほうき星が出たら、他の地域を侵略せよ・・・。」という言い伝えがあったようです。
このほうき星とは、76年周期で地球に接近するハレー彗星だと思われます。
巨大な彗星が現れると、度々飢饉が訪れることは、皆様もご存知のことだと思います。
彗星が撒き散らすチリが、太陽光線をさえぎるためではないかと言われています。
北方に暮らす遊牧民である匈奴は、ハレー彗星の訪れの度に、家畜に食わせる草を求めて、豊かな中国北部に攻め入っていたと思われます。
北部、高緯度地域の方が、寒冷化の影響が大きいですから、民族の生き残りを賭けた智恵とも言えますね。
ですが匈奴は、秦の始皇帝の造った万里の長城ができて以来、中国への侵略行為ができなくなりました。
それで西部へ移動せざるを得なくなり、フン族の西進となり、それに押される形で、西方に民族大移動が起こり、最終的にゲルマン民族の侵入によって、476年の(西)ローマ帝国の滅亡に至るのですね。
このように、西洋の世界史に影響を与えるほど、モンゴル周辺からの北方遊牧騎馬軍の進入に、絶大な効力を発揮した万里の長城ですが、チンギスハーンの時代のモンゴル帝国だけが、唯一この長城を超えられたのです。
後にも先にも、チンギスハーンだけです。
これは、ミステリーです。(笑)
どうして長い歴史の中で、チンギスハーンだけが長城を超え、南部の中国(当時の金帝国)に侵攻できたのでしょうか?
事実、チンギスハーンは万里の長城攻めに、何度も失敗しています。
それを、彼の軍事的才能で克服した・・・というのは、どうも解せません。
金帝国が、まともに守っていたら、絶対に進入できないからです。
この謎の答えは、私は一つしかないと思います。
金帝国の内部に、チンギスハーンのモンゴルを、手引きする者がいた・・・としか考えられないのです。
鉄壁の城も、一人の内通者がいれば無力です。
国防においては、国防インフラも重要ですが、その 【一人の内通者】 を出さないことが重要です。
とにもかくにも、チンギスハーンのモンゴル帝国は、当時の金帝国の内通者なしでは、後の元帝国にはなりえていないと、歴史のミステリーハンターである私は考えます。