土佐のくじらです。
私としてはあまり興味の薄い室町時代ですが、足利将軍家の政治的リーダーシップが弱かったので、それなりに治安の落ち着いたころからは、商業などが盛んになり、また能や茶道などの、日本独自の芸術もたくさん生まれております。
それなりに自由で、豊かさを味わえるところが、もしかしたらあったのやも知れませんね。
国内はと言えば、各地に源氏系の守護大名が置かれ、緩やかな地方分権スタイルでした。
ただ後の徳川幕府のような、他の藩を圧倒する経済力・軍事力も室町幕府にはなかったので、ほぼ分裂国家状態だったとも思います。
ですから応仁の乱以降、戦国時代へと向かいますが、地方による守護大名の治世にバラつきがあり、ひどいところはとてもひどかったのですね。
京都での将軍後継者門だが発端の応仁の乱が、その後の戦国時代が100年にも及ぶまでこじれた要因は、それだけ国内の政治が無力であったし、下克上と呼ばれる、一種の民主主義的な行動を伴ったのも、その時代に置ける、秩序形式に対する不満が根底になければ説明ができないですね。
つまり誰しもが、「昔は良かった。」とか、「あの頃に帰りたい。」と願わなかった・・・ということです。
そしてその発端が、伊豆(現静岡県東部)と相模(現神奈川県西部)で起こった、北条早雲によるお国乗っ取りであったはずです。
当時は、室町幕府が任命した守護大名が各地の国主でしたが、早雲はまず伊豆を占拠した後、相模を奪い、勝手に国主を名乗ります。
もちろんそれぞれに国主はいたので、主殺しであるとか、梟雄(きょうゆう)とも呼ばれ、イメージもどことなく悪いですね。
梟雄とは「残忍で強く荒々しい、悪者などの首領」という意味ですね。
しかし、早雲の生涯を眺めてみれば、殺伐とした血の匂いは余りしません。
早雲はまず、伊豆国の経営に当たって税負担を、五公五民から四公六民に改めます。
つまり、大幅減税を行ったのです。
現代風に言うならば、50%所得税を40%に減税しただけでなく、その他雑税や公役(行政事業への領民のただ働き)も廃止しました。
また、農作不良の年は低利で穀類や資金を貸し出し、風土病対策に投薬を施しました。
さらに、「不義不正を働く地頭(徴税役人)がいれば訴え出よ、その者を追放する。」という分国法まで定めています。
戦国の梟雄と呼ばれる北条早雲の施策は、現代にも通じるほど民主主義的です。
また早雲は、伊豆守や相模守といった、官位を希望しませんでした。
「朝廷公家や幕府政治は崩壊する。」と、早雲は時代の流れ読んでいたはずであり、無意味な官位は邪魔なだけだということでしょう。
官位や権威を欲しなかった、早雲にとっての富国強兵策は、減税という「民を豊かにすること」から始まったのです。
北条氏はその後、関東のほぼ全域を版図に、豊臣秀吉による戦国時代の終焉まで、関東の雄として存続します。
税金の高い国は滅び、豊かな国民の暮らす国は栄える・・・。これは歴史の必然であり、法則なのです。
北条早雲、戦国乱世の一大転換期に、先ず民生を安定させることで覇権の道を拓いた「最初の戦国大名」でした。
戦国乱世では、武力と器量と、人心を掌握できる者のみに、覇権の道が拓かれます。
しかしその発端は、税金でした。
かつての鎌倉幕府も室町幕府も、発端の動機は税金だったはずです。
フランス革命も、アメリカの独立運動も同様です。
税金問題は時に、社会に革命をもたらすのです。
国民不在の消費増税論議の止まない、今の日本の姿は、私には革命前夜に見えて仕方がないのです。
(続く)