土佐のくじら

土佐の高知から、日本と世界の歴史と未来を語ろう。

復興増税は、なぜ行われたか。

2013-09-15 17:58:57 | 増税亡国論

土佐のくじらです。

当ブログオーナーである私は、歴史好きですから、歴史に関するウンチク記事(笑)が主流なのですが、消費増税導入に関する役人の腹黒さが目につきすぎて、どうにもこうにもいたたまれません。

また現状認識と、未来への教訓に生かしてこその歴史だと、私は信じております。

ですから時事問題に関しても、意見が言える部分に関しては言ってみたいと思っております。

ということで今、歴史記事に紛れて、税金に関しての公憤を聞いていただき、読者の皆様の正しい見解の一助になればと思います。

さて、3年前に起こった東日本大震災の復興事業への財源捻出目的で、いわゆる復興増税がなされることになっております。
まず言わなければならないことは、これほどの大災害の復興を、財源の目処を、増税によってまかなう異常さです。

増税の詳細は、東日本大震災からの復興に当てる財源の確保を目的として所得税、住民税、法人税に上乗せするという形で徴収されます。
所得税は2013年1月1日からの25年間、税額に2.1%を上乗せするという形で徴収され、法人税は2012年4月1日以降から始まる事業年度からの3年間、減税をいったん実施した上で、税額の10%を追加徴収します。
住民税は2014年6月からの10年間、年1000円引き上げの予定です。

税の使途は被災地に限定しており、政府はこれらの増税で約10兆円を捻出する予定とのことです。

皆様、これらが東日本復興税の概要ですが、もっともだと思いますか?

まず第一に、捻出する予算が、10兆円規模というのは、少なすぎる金額です。
日本の東半分が、壊滅的被害を受けたのです。

10兆円という捻出額を、どれだけの期間で使うかは、私も定かには知りません。
半年で使うならまだしも、トータル10兆円では、ケチケチ予算と言って良いでしょう。

そして、その財源を、増税によって捻出しておりますが、これは言い方を変えれば、
「復興したいなら、増税が条件だ。」と、言っているのと同じですよね。

日本の半分が壊滅したのですから、100兆円くらい特別に国債を発行するなり、政府紙幣を発行するなりして一気にやらないと、10兆円くらいじゃ、いつまでたっても東北は生き返りませんぜョ。

私は、この復興増税に関しても、好景気が来ると困るという役人の、差し金の一つだと思っております。

それは普通であれば、大災害の後には、必ず好景気が来るからです。
なぜなら、大災害の後は、仕事が激増するからです。

使える予算が潤沢であれば、必ず復興景気になるのです。

バブル崩壊後、日本の平均株価は下落したままでしたが、1999年の8月に、一時期2万円に乗るほどの回復を見せました。
そしてその後の、ITバブルや小泉景気と言われる、緩やかながら長い景気回復の時期になります。
この日本経済の回復のきっかけとなったのが、阪神大震災の復興事業だったのですね。

好景気が来たら困る官僚は、阪神大震災の復興事業で学んだはずなのです。

財務官僚は賢いですから、大災害の後には好景気が来ることは、絶対に知っているはずです。
なぜなら、その程度のことなら、私でも知っているからです。(笑)

私より賢い彼らが、知らないはずはありません。

ですから、好景気が来ると困る官僚は、あらかじめ少ない復興予算の計画を立て、しかもその財源を、増税によって行うという鬼のような仕打ちを、彼らは編み出したに違いありません。

増税すれば、絶対に景気が良くなることはないからです。

経済に精通する彼らは、このことは重々承知しているはずです。

何が言いたいかと言うと、やはり官僚は、好景気が来ると困る!ということです。

どうかそのことを、知ってください。

そしてどうか、お知り合いの方に教えて差し上げて下さい。

そして財務官僚の皆さん。
どうか、日本に対して、何もしないで下さい。

あなた方は賢いのですから、ご自分たちの給料を、景気連動性にすれば良いではありませんか。
退職後の生活がご心配なら、退職金を10倍にする法律でも作れば良いではないですか。

自分たちの生活という小さな経済観念で、日本国民にこれ以上の迷惑をかけてはいけません。

ガマン強くおとなしい日本人でも、そろそろ堪忍袋の緒は切れますよ。

その時は、中国より早いかも知れませんぜョ。

そして政治家の皆さん。
いつまでたっても、官僚が言ってくれないと、答弁一つできないような、そんな見識の低いことでは困ります。

どうかもう少し、勉強してくださいませ。


武士の世の確立 と、日本を救った一人の女性。

2013-09-15 11:26:18 | 歴史の読み方

土佐のくじらです。

源頼朝没後、鎌倉幕府を支えたのは北条氏です。
いわゆる、執権政治ですね。

2代3代の将軍が短命に終わったので、北条氏による暗殺説もありますね。
そうかも知れませんね。

ただ、征夷大将軍がいなければ、鎌倉幕府の権力基盤である、全国の武士への人事権と、頼朝が確立した徴税権を失いますので、そう易々と将軍暗殺に踏み切るかは・・・、う~ん、わからないところがありますね。

案外本当に、短命だっただけなのかも知れません。
ただ、源氏の嫡流が途絶えたことで、にわかに活気付いたのは朝廷です。

何せ、平家のように朝廷の政治には口を出さなかった鎌倉殿(頼朝)でしたが、おいしいところは、みんな持っていってしまいました。(笑)

頼朝の死後、後鳥羽上皇は朝廷政治の復活を目指して、鎌倉幕府に戦いを挑むのですね。
これが、承久の乱(じょうきゅうのらん・1221年)です。

これはいわゆる、明治維新のような王政復古運動ですね。
征夷大将軍という肩書きを与えているのは朝廷ですから、その朝廷が、倒幕を命じれば諸侯は従う・・・はず・・・だったんですが・・・。

平安時代なら、きっとそうだったんでしょう。
しかしなんと、北条執権鎌倉幕府は、上皇軍をたった2ヶ月で蹴散らしてしまいました。

まぁ、幕府軍が圧倒的に強かった・・・と言われればそれまでですが、この時に多くの武士が、上皇軍側に付かなかったのです。

頼朝は、御家人たちの要望で、随分と武士の待遇改善を行いました。
もう昔の、公家たちにこき使われるだけの時代には、武士たちは、戻りたくなかったのではないでしょうか?

武士と言っても、当時は農民です。
はっきり言って、国民全員が「俺は武士だ。」と言えば、武士になれる時代ですからね。
当時は、武士には誰でもなれました。
武具を持てば、もう立派な武士だったのです。

ですから、初期の武士の世・・・というのは、案外民主的な国家なのです。
そして、公家という特権階級のみが、豊かに偉そうに暮らす世の中は、もう誰も望まなかった・・・というのが真相でしょうね。

兎にも角にも、朝廷の権威は地に落ちました。
主謀者である後鳥羽上皇は隠岐島、順徳上皇は佐渡島にそれぞれ配流、つまり島流しにされます。
先の天皇である上皇と、現職の天皇が、共に島流しにあったのは、恐らくこれが最初で最後でありましょう。

それ自体は、右翼系の方が聞けば、怒り狂う内容かも知れませんが、鎌倉以降の、権威より実を採る精神が完全に定着し、平安時代が完全に終わったのはこの時でしょうね。

そして、朝廷という政治的仕組みが完全に過去の遺物、権威的象徴となった日本は、鎌倉幕府という新たな武家政権を中心とする国家へと変貌したのです。

鎌倉幕府(北条執権)はこの後も、京に六波羅探題という、御所や公家たちを見張る役所を作ったり、天皇後継問題に口を出したり、公家の領地を没収したり、どんどんと権限を強めて行きます。

そして鎌倉幕府の旗頭は、もう執権北条氏で決まりました。
(一応、源氏系の将軍職は存在します。)
日本の盟主=北条氏の国内での定着こそ、実は武士の世の中の、本当の意味での始まりだと思います。

承久の乱で、朝廷が無様に負けて下さったことに、今の日本人は、心から感謝しなくてはなりません。
日本が北条氏の下、一致団結して戦える仕組みが出来あがっていたからこそ、その後の2度の元寇に対して、団結した国家としての戦いができたのですから。

2度の元寇に対峙したのは、8代執権時宗(ときむね)ですが、この時には北条家の治世は確固たるものでした。
ですから承久の乱なくば、元寇に対峙できなかったのです。

承久の乱で、当時の権威の象徴である朝廷に戦いを挑まれて、ひるむ鎌倉幕府の御家人衆を鼓舞したのは、源頼朝の妻、北条政子です。
北条政子は尼将軍とも呼ばれ、何かと評判が悪いのですが、それは、武士の子・・・つまり、当時の農民=一般ピープル出身ですから、貴族である頼朝が持つ当たり前の発想が、今一つ理解できなかったからだと思います。

日本の大きなビジョンを指し示したのが聖徳太子であって、それを具現化したのが天智天皇であったように、
平清盛がまず、武士政治の前例を創り、源義経が貴族政治の流れを絶ち、頼朝が武士統治機構としての幕府を創りました。

そういった大きな日本の歴史の流れの中で、北条政子が実質的な武士社会の、体制を仕上げるために果たした役割は、とてもとても大きかったと私は考えます。

そしてそれはひいては、元寇から日本を守ったのです。

                                                 (続く)