ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

観光事業への挑戦

2010-04-23 11:35:43 | Vision East
先日の高知新聞に出ておりましたね。
「奈半利でマリンレジャーを」
 マリンレジャー体験観光施設「海浜センター」が完成したとの記事です。シーカヤックやシュノーケリングを中心としたマリンレジャーの体験施設なのです。
 場所としては、ここですね。離岸提の内側です。
 この奈半利の離岸提は、特別な存在なのです。



 今、奈半利海岸の離岸提にサンゴの群生が着床していることから、グラスボートが稼動しております。私も何度か乗せていただきましたが、ちょっと驚きでした。
 コンクリート構造物にサンゴが着床しております。テトラポットを沈めた年度が確定しておりますから、時系列でサンゴの研究が出来るところとして、最近有名になっているのです。
 観光事業の新たな魅力を提案できることになったのです。
 頑張って欲しいところです。

 建物は行政が負担して建築されました。あと産業として事業展開をするこの施設が、運営事業体として採算が取れるかどうかなのです。頑張って欲しいところです。

 観光事業が定着するかどうか、未知数ですが期待したいですねえ。
 室戸市のジオパーク事業ともリンクできるますからね。
 これから、これからです。

寄席の詳細

2010-04-22 12:59:13 | 日記
  先日書かせていただいた、寄席の詳細です。
  古今亭菊六さんの落語です。

      日 時:5月29日(土) 午後5時半開場 午後6時開演
          終わるのは、だいたい7時過ぎ位かな。

      会 場:藤村製絲株式会社
          車でおみえになっても、駐車場はありますよ。

      木戸銭:大人1,000円 子供(小学生以下)500円
          これは安いと思います。

      主 催:なはり浦の会

      5月の下旬ですから、異常気象も多分大丈夫でしょう。
      お気軽にお出かけください。

久しぶりです。

2010-04-22 02:16:23 | 日記
 久しぶりに、高知県知事尾崎正直氏をテレビで拝見しました。高速道路の料金改定について、話をしていましたね。
 知事が現政権に対しはっきりとNOというのは、久方ぶりだっただけに、新鮮でした。
 改定によって、通行料金が高くなるといった意見だったのです。

 しかし、私としてはもっと言って欲しかったですねえ。

 社会実験というなら、基盤整備も、経済基盤も脆弱な四国全域を期間限定でいいですから「完全無料化して欲しい」ぐらいは、言って欲しかったですねえ。

 流通経費が高すぎることは、製造業の成長には阻害要因にしかなりませんからね。
 彼が今進めている地産外商にとって、高速道路の問題は命綱だと思いますから、しっかりやっていただかないと困ります。
 そういえば中国・四国の橋の通行料金も、高いねえ。
 これも運動をして、無料にしてもらいましょう。中途半端にちょっと安いとか、高いとかといった程度では、社会実験にもならないでしょう。小手先でごまかしてはいけません。

 結果として、高速道路無料化によって四国全体の活力が増せば、社会実験は大成功となるわけですから、いいのです。
 国土交通省の大臣室でも、どこかの政党の幹事長室ででも、座り込みですね。

 エールを送ります。田舎の生活者をなめてはいけません。

なはりC 地点

2010-04-21 22:40:44 | 手前かってな推論。
 かつての片町商店街と野根山街道の交差点です。
野根山街道を高札場のほうに向かって撮影した写真です。西に向かって、奈半利川まで500Mぐらいかな。そんな場所です。道路上に+印まであります。



野根山街道は、奈良時代に開かれた街道。交差する道は北川に向かう郡道、明治37年(1904)に整備されたのです。それも幅は野根山街道より少し広くて、9尺といいますから、2.7M。 野根山街道のほうは、町中でも6尺程なのです。
 多分その当時、奈半利で最も賑やかな場所だったはずです。
 
 ただ、物流の主役の地位は大正14年(1925)に、上長田から天神までの道が整備されることで交替することになるのです。明治の道から東へ100Mほどのところを北から南へ向かって、海に向かって建設されました。海岸から気帆船で主として畿内に運んでいたのです。狭い道を拡幅する容で、造られたそうな。
 
 この時期、地域の経済環境に大きな変化が起きています。製材業や酒造業、樟脳製造業が盛んになり、さらには大正6年には藤村製糸株式会社が創業されて、地域の生産量が一挙に増大して、物流量が増えているのです。そうすると、橋のなかった奈半利川に橋が架かるのです。大正3年には木製の橋。ただ残念ながらこの橋は、雨が降って水位が増すと渡れなかったり、通行する車両の重量に耐えられず、人間が橋を渡る間、車を降りたといった話があるくらいですから、産業の発展に基盤整備が追いつくのは大正13年の奈半利橋(鉄橋)の完成まで待たなければなりませんでした。

 必要性があっての建設事業であったわけです。 


 この写真は、明治に整備された郡道の西に位置する、路地なのですが、かつては、野根山街道以外の道はこの程度の路地がほとんどの道だったのではないかと考えているのです。幅1M程度です。歩くのには問題はないとしても、すれ違うのには互いに譲り合わないといけない程なのです。大きい荷駄は難しいですね。
 9尺にこだわってみました。多分9尺の道が完成したときには、凄い道が出来たと誇らしい思いを抱いたと思うからです。1000年以上もの長きにわたって、利用された街道より広い立派な道が出来たのですからね。幅9尺、2M70が荷駄が楽に行き違うサイズなのです。

 そう、この年、はじめて自転車が奈半利に入ってきたとの記録があります。明治37年。
 自動車ではありません。自転車なのです。
 明治から大正、昭和の初期にかけて、奈半利が最も活力に満ちていたときの証拠の場所です。ただ、大正14年に新道が出来たわけですから、流通の主役の座は20年ほどだったことになります。地域産業の成長が早すぎたといったところでしょう。
 
 この交差点を、奈半利C 地点として、書かせていただきました。
 ここから、奈半利の街路が出来上がってきたように思うのです。

 もう100年以上前の話です。今は行きかう人もそれほど多くありません。車もたまに通るかな。

なはりB 地点

2010-04-20 16:28:54 | 昔話
 軍事戦略上の理由からでしょうか、また大きな木材を上流から流していたことから、橋脚を作っても安全が保たれないとしたのでしょうか、奈半利川には橋が架かっていなかったことから、色々な物語が伝わっています。

 上流から水に乗せて木材を流す以外に海岸まで木材を運搬をする方法がなかったのですから、このあたりで回収をしていたはずなのです。
 さらに、野根山街道を通ってきた方々が高知に向かうため、渡し場を通過したのです。
 そしてこのあたりには、奈半利川の川湊・奈半の泊まりがあったそうで、荷物を船舶に積み込んだり、おろしたりと、大層な賑わいがあったところなのです。

 このあたりなのです。



 昔々、この渡しに、大変欲の深い「渡し守」がいて、旅人を小船で対岸へ渡していたそうな。
 ある年の夏、一人の老遍路が渡し場へたどり着き、「一文無しの遍路でございます。どうか善根で渡していただけないでしょうか」といったそうな。

 欲の深い渡し守は即座に、「駄目だ、ただで渡しよったら、こっちの口が干上がるワ。」

 と渡してくれない。困り果てた老遍路は川原に座って、往復する船を眺めていたそうな。

 やがて日も暮れて、渡し守は船を岸につないで帰ろうとしたが、川原に座って遍路を見つけて声をかけたそうな。
 「おい。遍路、お前の生国はどこぞ?」
 「はい、国は丹波の国でございます。」
 
 「そうか。丹波の国には大江山という山があって、鬼がおるそうなが、今でもおるか」
 と聞いたそうな。
 そしたら、遍路は「いいえ、今はおりません。」
 「そしたらその鬼は何処へ行ったぞ。」
 「はい。その鬼は土佐へ追放になって、奈半利川の渡し守をしておるそうでございます。」

 お遍路の精一杯の皮肉を聞いて、渡し守も思うところがあったとみえて、遍路を向こう岸へ渡してやったと。

 
 こんな話が残っています。
 お遍路さんの一生懸命さが伝わってきます。奈半利川の渡し守と遍路さんの話です。
 いかにもといったところです。

 ただ奈半利川の渡し守については、1601年山内一豊が土佐初入国の際、危険を顧みず、川田某が川渡しに尽力をしたことから、末代までの渡し守を許されていたのです。
 話は話。真偽の程は分かりません。

 この辺りが、人の交通や物資の流通基地として賑わっていたことは、間違いのないことでしょう。
 雨が降って水かさが増すと、川止めとなり、奈半利の旅館や飲食店が賑やかになったそうな。
 奈半利B地点としました。今昔物語といったところです。

今度は寄席です。

2010-04-20 09:34:06 | 日記
「なはり浦の会」では、5月29日(土)、
古今亭菊六さんの落語を楽しむ「浦の寄席」を開催する事になりました。

 菊六さんは平成21年、NHK新人演芸大賞に輝いた噺家で、新進気鋭の落語家さんです。



 いままで、音楽会などはやってきたんですが、落語をやるのは初めてです。
 きっと楽しい会になるでしょう。
 詳細は追ってお知らせしますから、ぜひ聴きに来てください。 

MAPの表紙

2010-04-19 13:59:09 | Vision East
 このきり絵を今作っているMAPの表紙にしようと思います。
 奈半利の特徴はやはり石塀ですからねえ。
 なはり浦の会の会員、前田集氏の切り絵の作品です。



 新しいMAPは白と黒。モノトーンで落ち着いた印象のものにしたいですね。
 学校の特に高校生ぐらいに研究課題として提供できればいいと思っています。

 彼らが、ボランティアでガイドなどに来てくれると、うれしいなあ。
 テーマを決めて、人に話す。いい勉強になるでしょう。地域理解を深めるのにはGOODです。
 あるものの説明ではなく、何で出来たのか考えてくれるといいな。
 そんなことを考えておりました。

なはりA地点

2010-04-19 11:57:10 | 昔話
なはりA地点。ご紹介します。野根山街道の入り口です。A地点として、思いつくままを書いてみたいと思います。



 町中を走る野根山街道が山懐に入るところです。この場所から、野根山山系に入り尾根道を通って安芸郡東洋町野根にむかうのです。
 このあたりは、古代の奈半利にとっても重要な場所だったのです。

 この場所から南側に弥生時代には、すでに人が住んでいたらしいのです。石斧や石包丁が出土しているからです。四手井山の南斜面とされています。多分、水の調達が楽で、かつ奈半利川が東西に流路を変えていたそうですから、その危険から身を守れる場所。安全と快適性を考えて、この場所だったのでしょう。石包丁は稲穂を刈る道具でしょうから、稲作をやっていたそうな。西暦で言うと紀元前100年とか200年といった頃でしょうか。
 
 奈良時代の中期頃でしょうか、コゴロク廃寺が建立された場所だといわれております。
 南国の国分寺が建立された頃だとされています。8世紀中頃のことですね。
 この場所は、古代における高知の安芸郡のある意味、中心地だったことになりますから、県史など読んでいても、納得なのです。今は何もありませんがね。田畑が広がっているのです。

 幕末に「なはり焼」という窯が築かれたのもこのあたり。利用可能な粘土を産して、窯を作る傾斜があって、燃料としての木材が調達しやすい場所なのです。

 そして長曾我部元親の軍が野根の城を落として、土佐全域をまとめたとき、野根からこの場所に下りてきて、多気・坂本神社に参拝をしたのです。ここからその神社まで1KMちょっとかな。戦勝お礼に手を合わせて、それから軍を岡豊城に帰したのだそうな。

 もちろん、8世紀初頭、官道としての野根山街道が開かれたときから、明治33年(1900)に廃止されるまで、1200年近く、どのくらいの人々がこの場所を行き交ったのか想像も出来ないのですが、多くの物語を今に伝えているのです。この場所を「なはりA 地点」としてご紹介しました。
 私は、この辺りが「奈半利が始まった場所」だと考えているのです。
 そしてこうした里山は、人が住み始めた頃から、食料や燃料を調達していた場所なのです。養い親のような場所です。


向こうのに田野町の大野台地が見えます。そして奈半利の町が目に飛び込んでくるところです。

近くに、石碑が建てられています。
そうですね、奈半利にはたくさんの記念碑というか、石碑が立っていますから、改めてご紹介しましょう。

なんか、変?。

2010-04-18 16:59:07 | 田舎の理屈
 一週間のご無沙汰でした。
 どっかで聞いたことがあるフレーズです。
 このブログを書き始めて、はじめてです。1週間書かなかったのです。
 ごそごそとしていて、書けませんでしたが、多くの方々が相変わらず覗きに来ていただいて、ありがとうございました。

 さて、今日の話題です。

 たちあがれ日本。自民党からの脱出組。与謝野さんたちですね。反民主です。
 
日本創新党。地方政治の首長グループ。山田さんやら、中田さんたち。彼らも反民主です。

まだ誰かがやりそうですねえ。次は反自民??。政権与党に対して発言をしないと、インパクトがないから、やはり反民主かな。
反官僚ってのも、あるかもしれないねえ。 掲げる看板は色々ですが、どんな国にしたいと具体的に語ってもらわないとね。解りません。

 あいも変わらず、豊かで楽しい街づくりですから、進歩のないことです。
 言葉はきれいですが、わからないですからね。相手をするのも、疲れます。
 

 予定どうり乱立ですねえ。

 政治不信なのでしょう。リーダーシップが取れる真のリーダーがいないことの証しなのか。国会が身近な存在になったのか。
 たぶん、いまの国会議員さんたちに、信頼が置けなくなってきたのでしょう。

 「国家は力なり」「数が多いほうが勝つのだ。」と。誰かが言ったのです。

 個々の議員としての資質はどうでもいいのだろうか。
 彼らは、国会で何をしたいのだろうか。
 選挙戦に勝つことが重要なことで、国会議員になれば、事故さえ起こさなければいいのだと、言わんばかりなのです。

 国民は、それほど愚かではない。多分。
 国民は、もうだまされはしない。多分。
 国民は、もう逃げはしない。多分。  選挙には行きましょう。
                   人本意で選びましょう。
                   誰が信用できるか。考えましょう。
 個人に権力が集中することは、良くない。
 漢字も読めない国会議員もいらない。
 
 何時からこんなことになったのだろうか。
 経済一流。政治は3流といわれて久しい。
 いい加減にしないと、国民は怒っているぞ。

 もう国会議員定数を半分以下にして、地方分権を進めることで国家公務員の定数も半分以下にする。さらに特殊法人は3割ぐらいでいいんじゃないのかな。
 もちろん天下りはなしでね。

 地方議会も首長も2期以上は出来ないようにすれば、いいと思うんですが。
 いかがでしょうね。普通8年もやれば、仕事は出来るからねえ。

 仕事をしない人や、結果を残せない人を選び続けることは、時間とお金の無駄遣いです。
 選挙に強いから、優秀な議員であるとは限らないのです。

 なんか変。です。
 

 
 

路地散歩

2010-04-18 14:48:53 | 建造物入門
 朝から歩いておりました。
 昨日物部で歩く予定が、行くことが出来なかったので、今日は朝からエンジンがかかっておりました。

 家から歩いて2分ぐらいかな。小さな路地があります。ホンの50年程前には、軒を連ねて商店が営業をしていたのですが、新しく広い道路が次々と出来たことから、いつの間にか店舗もなくなり、静かな住宅地域となっています。

 さてここからが推論なのですが、左の道と右の道。100Mほど北側で交差しています。
 左の道は狭く蛇行していますが、右の道はまっすぐで少し広いのです。2つの道の間には三日月状の土地があります。

 普通に考えると左の道が古い道で、右の道が新しい道でしょう。右の道は明治37年安芸郡道として完成しているのです。また幅9尺は野根山街道の町中の幅員より少し広いのです。奈半利川の上流、北川に向かうメインストリートでした。
 明治37年は、野根山街道が官道としての役割を終えて4年後、高知新聞が創刊し、奈半利にはじめて、自転車が入ってきた年。とされています。

 小さな道をゆっくりと歩いていたら、発見がありました。キレイな花と柿の新葉です。
 柿の葉などは光って、つやつやとしていました。
 



 春ですね。まだ少し寒いですがね。