晩節を汚す芸能人が多いなあと思いきや、考えてみれば「死ぬまで現役」を標榜し出して、無様さも見せる、と息巻く御仁が増え出してから、本当にその全うを図る気風が蔓延もし出して、芸能界が「テレビやラジオ」の創成期以降に世相を引っ張ってこられたタレントの存在は、当人は恭順の気概かもしれないけれど、以前見かけた「潔さ」なるものはずいぶん廃れ、ついぞ見かけなくなった。
後続の後輩たちにもパイを分けず、現役続行の際におこぼれ頂戴を図れぬ手合いの者たちは、メディア自体の多彩の方へ舵を切り、結果テレビはずいぶんと「同時代」性を損なって、昨今ではタマの活躍を見せたりすれば「オールドメディアの面目躍如」などと皮肉めいた賞賛を繰り出されてしまう。
どの芸能にしても、古典でもない限りは隆盛を誇れる旬さが肝であり、最盛期を抜け出た存在がロングテイルに細々とでも食い繋ぐ業界は、どうしたって新鮮味を損なっていく。
つまり、テレビはかつての映画よろしく「棲み分けの一端」側に位置し直したのであって、その業界自体の再活性化は多分図られない。
なぜなら「新規のメディア」の方が既出の路線を淘汰しにかかってくる方が速達で広範、が時代のありようだから。
乗っかったメディアの最盛期に恩恵を賜った存在たちは、その旧態に遷移するにも伴い、新機軸はもう「そこではないところ」を目指して向こうのほうで発展し、旧態然とした「かつての繁栄の担い者」は老朽化していくメディアのお役御免に最後まで付き合う。
それはひとつの礼節のようでもあり、つきあいきったからといって一概に幸多き景色ともならない。落ちぶれていく趨勢を見るのだから。
第一に「生涯を全投入しての全う」を決心しようにも、この「ライフシフト」時代には概ね「人生の半分の頃合いには、次世代のメディアへの転換」がくるので、つまり人生の初期にメディア繁栄に寄与し、身を投じた者らは、壮年を迎える頃に「乗り換える器量がある」か「リタイア」が筋となる。
そしてそこで培ってしまった「そこの業界の商習慣」とか「表沙汰にはできない因習」ゆえの発散が、暗黙のうちに「許される」ことで「非日常の維持」というバーターをかなえていた。
残念ながら上の変遷のように「世相のルールの方がごっそりメディアごと規範も入れ替わる」を把握できなくなってるロートルは、スキャンダル化されて、まぁ追放が行われる。
公開処刑のようなそれは、追い出される側の顔つきに常に「まさか、これで?」が最初の顔つきで、「自分が何に慣れちゃって、狂ってたか」を誰も周囲が教えないできた弊害を一挙につけ払いする羽目になる。
上にも言ったが「因習」は「お目こぼし」で釣り合いをとった業界全体のはからいだから、ある意味タレントは被害者でもあるし、共犯の業界は「最後の尻切れ時に、いかにうまく逃れるか」の腐心だけで済むんだから、恩恵十分の期間のうちに十二分に「元がとれる」という狡猾卑怯前提の食い扶持とも言える。
今回のフジテレビと中居さんのいきさつには、ただそれが人身御供のような象徴として、露見されただけってことで、たぶん業界の因習が「ここだけ」ってことはないでしょう。
おなじようにしてきた連中に同じ鉄槌があれば、それは相応とも思うけれど、そうはならない小狡さが、世界にはちゃんと備わっている。
そもそも凝視できたところで心地よいものでもないので、「ほとぼりがさめる」などという期間を経て、大衆心理の方でも「見てたくもない」という捨て鉢が起こるのでしょう。
新しいメディアに心移すまでの期間、「世相の基幹を」果たしてきた」メディアは「競合する新参に身をやつしなおす」か、うちひしがれて、清算する」かしかない。
おおむねの勘違いの元は「現状維持にすがる」という無謀に種がある。
残念でしょうが、そんな産業は古今東西どこにもなかった。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます