40年ほど前の現役大学生の頃
全国的に学生運動なるものが“流行って”いました。
正直な話、今でもそれが何であったのか、ほとんど理解できていません。
60年の安保闘争の頃は勉学に明け暮れていましたし
60年代後半に起こった全共闘運動や大学紛争は、実際に目にしたどころか
大学占拠により半年間、休校になったのですから
大騒ぎの原因となった理論や主張をちょっとは学んだのですが
実際に活動に参加するほどの強い共感は持てず
結局、“対岸の火事”として長期休暇を楽しんだに過ぎません。
私を含めた多くの学生は当時、「日和見(ひよりみ)主義」と呼ばれ
もっぱら過激な活動をする彼らから批判されていました。
原発について学び始めた今
なんとなくその頃の心のあり様に近いものを感じてしまいます。
ちなみに、日和見主義(ひよりみしゅぎ)とは
ある定まった考えによるものではなく、形勢を見て有利な方に付こうという考え方のことで
日和、つまり天気を観て行動を決めるかのようであるのでこの名が付きましたが
一般には政治的な右翼(保守)的立場を批判するのに用いられる言葉であるとされています。
“原発反対”を声高に叫ぶ方々は、少なくても現状維持ではないことは確かで
過激ではないにしても反体制的ポジションなのですから
学べば学ぶほど「さてどうしたものか」とどっちつかずの立場なって
とりあえず今のままでコトの成り行きを見守ろう、という私などは
まさに原発における日和見主義的立場と見られてしまうに違いありません。
と言うのも、原発“反対派”とか“推進派”とかに分けられても
元になるエネルギー問題自体があまりに大き過ぎて、かつ複雑で
なによりも“今”と“将来”がごちゃ混ぜに語られる傾向があるのですから
自分の立ち位置をどちらに置くかの判断ができないのです。
たとえ、反対・どちらかと言えば反対・どちらかと言えば推進・推進にしても
そこには時間の観念がないのですから。
医療においても、放っておくと余命いくばくもない患者に
他の病を患っている内臓をあえて移植、延命治療して
今後の医学の進歩を待つ治療があります。
未曾有の経験によって入手できた多くのデータによって
どの程度の安全対策が原発に施せるのか
自然エネルギーが本当に原子力、さらには化石エネルギーの代替になり得るのか
そしてそれはいつ実現できるのか
などなど、時間軸が重要な要素に思えてなりません。
日和見主義の説明の中に
「長期的な趨勢を踏まえた上で有利な側に付けば時には望ましい結果を得る事ができる一方で
短期的な利益のために立ち位置を変え続ければ信用を失うリスクを抱えるという見方もある」とあります。
政治家等と違い、信用を失うリスクなど何もない一般庶民にとって
この“世の中の長期的な動きを見ながら”が一番現実的であって
「原発反対」が念仏のように蔓延している中では口を閉ざしているにしても
人数の上では圧倒的多数であるに違いないのです。
より具体的に言えば、「出来得る限りの安全対策を施した上で
経過を見ながら止むを得ずそのまま使用しましょう」という私のように…。
(後記)
雑学としてエネルギーと脱原発について学び始めましたが
あまりにテーマが壮大、かつ複雑過ぎました。
そして、根本的・究極的解決は、日本では時代を150年ほど後戻りして
たかが5Wのロウソクでさえ贅沢品であった頃の社会だと思い至りましたので
この話題をこれ以上続けることは止めにしたいと思います。
今では「循環型社会」という概念としてのみ、世界がその方向を目指しています。
循環型社会
人間を含めた全ての動物は、植物による光合成なくしては
大気中の二酸化炭素を無害なものに変換できず、生命をつなぐことができません。
食糧ばかりでなくエネルギーでも
また、地球上の様々な循環の仕組みを維持する上でも同様なことが言え
このバランスが成り立っている世界を「循環型社会」と呼びます。
今では、資源の枯渇による破局を回避し
永続性の有る社会を実現するための概念の一つとされ
省資源、省エネルギー、リデュース・りユース・リサイクルなど
個々の意識的な活動を背景として
経済活動におけるこれからの方向性を示す考え方だと言えます。
生態系の立場に立てば、物質は元来循環しているものですが
これまでの人間社会では、この点について配慮されたことがなく
不要物は単純に廃棄され、それは自然の循環システム
あるいは自然の浄化作用に任されていました。
人間の活動量がさほど大きくないあいだは、これでなんとかなったのですが
現在ではそれが大きく環境を圧迫するようになってしまいました。
これを、改めて視野に収め、物質の循環を助ける事を
考えようというのが「循環型社会」の概念です。