当初の細菌性肺炎が間質性肺炎に進行し
わずか42日間の入院の後に義母が息を引き取ってから
早いものでもう1年が経ちました。
一周忌は葬儀、四十九日、新盆の施餓鬼法要、暮れの因脈会に次いでの仏事になります。
遠方に住む方は何かと大変ですし、高齢の方は極寒のこの時期
ストーブ2つでは全く役に立たない本堂内での30分に渡る読経にご参列いただくのは忍びなく
女房方の近い親戚数名だけの法要にしました。
ところで、お寺たるもの、亡くなってからこれだけの関わりを持つのであれば
元気に生きているうちにもっと日常生活の中に溶け込んでいるべきだと思うのです。
もちろん、私自身の不信心を指摘されたら返す言葉はありません。
ただ、難しい理屈は不勉強なので分かりませんが
哲学に属するであろう宗教とは、キリスト教やイスラム教の信者達を見ても分かるように
そもそも人が死んでからだけしか関わり合いを持つものではないと思うのですが…。
その上、当家の菩提寺だけかもしれませんが
法要やお経にしたところで、何のために行ない唱えるお経にはどんな意味があるのか
せめてそこら辺の説明だけでもあって然るべきと思えてなりません。
気の利いた法話の一つも聞いたことがないですし…。
これでは将来、仏教は葬儀の時だけ付き合う
“葬式仏教”の形にどんどんなって行ってしまうに違いありません。
なにはともあれ、お布施だけで数十万円の出費になる
初めて経験する仏教儀式が次から次に続いた1年間が一区切りついたことになります。