中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪…“中央線カルチャー”のど真ん中を流れる「桃園川」の暗渠には何がある
JR中央線の23区内の区間には、中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪と、いわゆる中央線カルチャーを象徴するようなそれぞれ個性的な街を擁する駅が続いている。それらの街を中央線と絡むように西から東へと流れていたのが「桃園川」だ。
神田川の支流であり1967年に暗渠化されたこの川の大半は、現在は緑道となっていて、散歩道や抜け道、ジョギングコースとして地域で親しまれている。
桃園川の暗渠はこの緑道の区間も含め、全区間を通して辿ることができるが、その雰囲気・表情はエリアによってずいぶんと異なっている。上流の荻窪地区では静かな住宅地の中、古びた緑道がゆったりと曲がって続く
\中野、高円寺、阿佐ヶ谷、荻窪…/
“中央線カルチャー”のど真ん中を流れる「桃園川」の暗渠を写真で一気に見る
その先、阿佐ヶ谷に出ると暗渠はいく筋にも分かれた路地となり、さながら迷宮のようになる。中流の高円寺に入るときれいに整備された緑の色濃い緑道となって真っ直ぐに続き、脇にそれれば支流の暗渠も点在する。
そして下流の中野では、同じく緑道ではあるけれど、高円寺とは意匠も雰囲気も異なりいくつか橋跡も残る暗渠となって、神田川に至る。
このエリアごとの違いには実は、かつての地域ごとの水利用の違いや、その後の都市化の過程の違いが深く影響している。この違いの背景をひもときながら、上流から順に辿っていくこととしよう。
荻窪・阿佐ヶ谷地区から歩いて行く
桃園川の暗渠は、荻窪駅北口から青梅街道を少し西に向かった地点から始まる。車止めの先にいかにも暗渠な路地がカーブを描くが、正確に言えばここは桃園川の始まりではなく、青梅街道沿いを流れていた千川上水の分流から桃園川に繋がれていた用水路の跡だ。
桃園川の流域にはかつて、天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺、中野の各村の水田が連なっていたが、川の水量は十分ではなかった。このため1710年頃から1920年代まで、水の安定確保のために千川上水から六ヶ村分水を経由して水が引き入れられていた。
このことから、桃園川の上流部は「千川用水」と呼ばれることとなった。実は「桃園川」は1930年代後半以降付けられた呼び名だ。
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青梅街道から300メートルほど進むと桃園川「本来の源流」へ青梅街道から300メートルほど進むと桃園川「本来の源流」へ
青梅街道から300メートルほど進むと、暗渠は本来の桃園川の源流だった、天沼弁天池跡からの暗渠と合流する。阿佐ヶ谷までの桃園川流域はかつての天沼村。その地名は雨水が溜まってできた沼を指すといい、大雨が降り続くと一帯は沼のように水浸しになったという。
その原因は一帯の地下に「井荻・天沼地下水堆(すいたい)」が分布していたことによるものだった。
「地下水堆」は地上の地形に関係なく、地下水の水面がドーム状に盛り上がって分布する様子を指す。その頂上はちょうど天沼弁天池の付近にあった。
池は窪地でこの地下水面が地上に露出することにより成り立っていた。そして大雨が降ると地下水面が上がり溢れ出て沼のようになっていたようだ。
池は1955年頃には湧水が枯渇。2007年に天沼弁天池公園になった。
現在の池は本来の位置より北寄りに、地下水を汲み上げて復元されたものだ。かつて池の中島に祀られていた弁財天は公園の片隅に今でも祀られている。
桃園川の暗渠は道路の歩道となったり、細い緑道となったりしながら、静かな住宅地の中を東へと続いていく。天沼地区では1931年から1939年にかけ区画整理が実施され、水田は埋め立てられて住宅となり、何本かに分かれて浅い谷の水田を巡っていた桃園川の流路は1本にまとめられた。現在辿れる暗渠はこの区画整理後の姿だ。それは灌漑用水から排水路へと川が姿を変えた記憶でもある。
区画整理されなかった阿佐ヶ谷
天沼から阿佐ヶ谷に入ると、この暗渠の様相は変化を見せる。辿ってきた緑道の北側に並行してやや放置気味の緑道が、そして南側には細い路地の暗渠が現れる。
そして中杉通りを渡ると、メインの流路は車道になっているものの、最大で3本に分かれた並行する暗渠が、細い路地や蓋掛けの暗渠として並行しながら家々の隙間を迷路のように続いている。
阿佐ヶ谷暗渠ラビリンスとも言うべきこの暗渠網は、阿佐ヶ谷では全面的な区画整理が実施されなかったことによるものだ。
阿佐ヶ谷地区では、桃園川流域では最も遅い1928(昭和3)年まで稲作が続いた。そしてその頃までには川のすぐそばまで宅地化が進んでいたため、川沿いの水田に沿っていく筋にも分かれて流れていた水路は、区画整理などで統廃合されることなく、ほぼそのまま残された。
こうして天沼地区とは逆に、排水路になる前の灌漑用水としての川の輪郭が市街地に刻まれることになったのだ。
なお、阿佐ヶ谷駅の南側には、阿佐ヶ谷川とも呼ばれる桃園川の支流が流れていた。こちらにも六ヶ村分水から水が引かれ、川沿いの水田を潤していた。阿佐ヶ谷駅前の釣り堀はかつての水田の跡地だ。
高円寺の手前にはかつて小さな村が…高円寺の手前にはかつて小さな村が…
高円寺の手前にはかつて馬橋という小さな村があった。桃園川の上流部の呼び名「千川用水」はこの付近までを指していた。千川上水から引いた水を利用する権利は天沼と阿佐ヶ谷のみにしかなかったからだ。
下流の馬橋・高円寺・中野では、上流で余った水と、途中で流れ込んでくる支流の水、そして雨水を利用するしかなく、水は不足しがちだった。
この解消のため、1840(天保11)年に善福寺川の水を引き入れるべく「天保新堀用水」が開削される。桃園川と善福寺川は丘で隔てられていたが、隧道を掘ってそれを越え、桃園川の支流弁天川の源流部に接続するという大胆な手段が取られた。
関東大震災以後、急速に変わった中央線沿線の景観
関東大震災後になると、中央線沿線の市街地化が急激に進み、桃園川の水は汚れて稲作には適さなくなっていた。高円寺では1924(大正13)年を最後に米作りは途絶えた。
不要になった水田を宅地に変えるべく、高円寺では1923年から、馬橋では1931年から土地区画整理が始まった。
一帯では土地が平坦で水田を埋めたてる土の供給元がなかったため、桃園川を改修することで水捌けをよくして田を乾かし、宅地にする方法が取られた。
ちょうど馬橋から中野の境界にかけては、日本最初の電力会社である東京電灯の送電線が東西に2本走っており、間に細長い空き地が続いていた。桃園川の流路はこの土地を利用して真っ直ぐな水路に一本化された。
改修後の桃園川は高度経済成長期にかけ汚染や氾濫が問題となり、1967年には暗渠化され下水道に転用されてしまう。そして暗渠の上部には1969年、遊具、ボール遊び場、階段式噴水などが設けられた桃園川公園が開園する。その区間は馬橋地区より下流、つまり送電線に沿って改修された区間より下流であった。
公園はその後老朽化に伴い改修がされ、1994年に現在も親しまれる「桃園川緑道」として生まれ変わっているが、緑道の始まりは現在も区画整理された区間に重なる。緑道は川の記憶だけではなく、そこを貫いていた送電線のラインも残していることになる。
桃園川緑道は、その名の通り緑が豊富だ。整備状態もよく、カエル、カメ、カワウソ、カッパ、カモなどのかわいいモニュメントが点在している。
かつての橋は欄干が撤去されて床版だけが残り、橋名の刻まれた石柱が建てられ、杉並区独自のワニやイルカなどの動物を描いた「とまれ」のペイントが路面に描かれている。川が暗渠となっていった歴史を知らなくても、これらを探しながらの散歩が楽しめるのが桃園川の人気の理由のひとつでもあろう。
杉並区内の緑道は白基調で明るく、そして手入れのされた緑に覆われているが、中野区に入るとレンガ調のタイルや、やや薄暗く背の低い植え込みなど、馬橋・高円寺とはだいぶ雰囲気の違う緑道に変わる。
そして橋跡には欄干のモニュメントが設けられ、暗渠化前の橋もいくつか残っている。
それらの橋跡のひとつが、中野通りが川を渡る地点にあった桃園橋だ。1936年に掛け替えられた、小さいながらも立派な鉄筋コンクリート橋が、川の暗渠化後も近隣のランドマークとなっていた。
なぜ「桃園」と呼ばれるようになったのか
残念ながら橋は中野通りの拡幅工事の関係で昨年4月に撤去されてしまったが、この桃園橋の名は桃園川の名称ともなった「桃園」に由来する。
中野は徳川将軍家の鷹狩りの地になっており、1730年代には徳川吉宗の命により現在の中野駅南西の一帯に桃が植樹され、桃園と名付けられる。これにより一帯は庶民の行楽地として賑わうようになる。1770年代後半には早くも廃れていくが、桃園の名は地名に残った。
当時、桃園橋は石神井橋、石神橋と呼ばれていた。橋を通る道が当時は青梅街道と秩父往還を結ぶ石神井道であったための名称だろう。橋板は将軍の御成の度に専用のものに取り換えられたという。明治時代半ば以降、桃園橋と呼ばれるようになったようだ。
中野地区の桃園川も、高円寺地区とほぼ同時期、大正末から昭和初期の区画整理により改修されて1本に纏められた。川の北側には宮園通り(現・大久保通り)が並行するように開通し、川沿いの地名も宮園通となった。この前後、桃園川は「宮園川」や「中野川」とも呼ばれていたという。
高円寺と少し違うのは、区画整理後の川沿いの地に、製菓、綿布、印刷、製本などといった町工場がいくつもできたことだ。これらは戦後には周囲の住宅地化の進展により移転していくこととなるが、暗渠沿いの雰囲気の違いの要因の一つとなっているように思える。
「桃園川」の成立
そして、川の名が桃園川と呼ばれるようになったのは、流域各地での区画整理が進み、川の改修が終わった1930年代後半以降のことだった。
改修前の呼び名であった上流の「千川用水」や下流の「善福寺分流」は、流れる水がどこからきているのかを指した名称だ。それは川の水が稲作に必要だったからこその区別であり命名だったといえよう。
一方で改修後に名付けられた「桃園川」という名称は、水ではなく水路を指す名前だと言える。流域の市街地化により川が灌漑から排水へと役割を変え、管理の対象が灌漑のための水配分ではなく、排水・治水のための水路保全になったことで、下流の一地名をとった名称で川全体が統一されていったといえよう。
行き着く先は神田川
中野区内の桃園川の暗渠化は杉並区と同時期に実施された。暗渠上のスペースも、杉並と同じく暗渠化後当初は遊具や植栽を整備し遊び場として利用され、のちに緑道に改修されていった。
ただ、緑道化が始まったのが1980年代半ばからと少し早かった。中野区の緑道がやや古びて見えるのはそのせいだろうか。一部の区間には遊具が残っていたが、2019年に撤去されている。
緑道を進んでいくと、中流部に比べその幅は少しずつ広くなっていき、また暗渠沿いには高層の建物が増えていく。橋跡には様々な意匠の欄干が復元され、川跡らしさを増す。山手通り近くには暗渠の水位を示す電光掲示板も立っている。
そこから500mほど進むと、東に向かっていた緑道は北へと大きくカーブし、神田川にかかる末広橋へと行き着く。ここが桃園川の河口、神田川への合流地点だ。末広橋の一つ北側にかかる柏橋から神田川を眺めれば、右側の護岸に合流口が見える。
中央線沿いの街並みに隠れた“それぞれの色”
ただ、ここまでご紹介してきたようなエリアごとの違いとその背景を意識しながら辿ってみることで、暗渠の風景はより立体的に、奥行きを持って見えてくる。
水の確保に苦労した農村から、水の排除が必要となった都市への変化に想いを馳せながらの見えない川下りの散歩は、起点の青梅街道から約6.5km、ゆっくり歩いて3時間ほどの歩程となる。ぜひ今度の週末にでもいかがだろうか。
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