Blade Runner(1982)
SF映画マイベスト3を上げよ、と言われたら、間違い無く入る、エイリアンのリドリー・スコット監督、フィリップ・K・ディック原作の近未来SF。常に酸性雨の降る暗い近未来のロサンゼルス、脱走した4体のアンドロイド(レプリカント)と、それを追うブレードランナー(レプリカント専門の賞金稼ぎ)の対決に、主役のブレードランナーであるハリソン・フォードのレプリカントとの恋や、人工生物であるレプリカントの「自我」「存在理由」といった哲学的要素を交えたアクション系SFです。コンセプト、ストーリー、ビジュアル、キャスティングどれをとっても正にマスターピース、SFアクション映画であるにも関わらず、芸術性、精神性の高い作品。(ちなみにマイベストSF他の2つは、ハイランダーとマトリックスです・・・)
この当時近未来といえは、清潔な室内に清潔なユニフォーム、サプリメントみたいな食料、といった見た目明るいイメージが主流だったのですが、この映画では徹底して暗く、じめじめし、世紀末のようなイメージで表現されます。この映画を今見ても違和感が無いのは、現在ではこちらのイメージの方が主流となっているからでしょう。
この映画のコンセプトは、人造であるレプリカントの精神性であると思います。高度なバイオテクノロジーによって人間の代用として作られ、危険な作業を行うレプリカントは、人間以上の知能と、人間と同じような感情が備わっていると設定されています。感情は意図して与えられた機能ではない設定ですが、作り出された人工知能に感情は有るのか?という疑問。
より人間に近い機能を持たせる上で「人間としての身体機能」と、「意志、あるいは感情」は不可欠であると私は思います。「人間としての身体機能」が必要なのは、人間が知能を発達させて行く上で、身体の器官から来る刺激によって学び、成長して行く過程を切り離して考えることが出来ないため、人工知能を機能させる上で人間により近付けるには同じく身体器官が必要と考えられるからです。また、「意志、あるいは感情」とは、簡単に言えば、1つの事柄に関して「さけるべき事柄」「好ましい事柄」「どちらでも無い事柄」に分け、それによって行動を変えることが必要となり、すなわちそれは意志であり、すでに好き嫌いの感情ではないでしょうか?人間に近い思考能力を持たせるには、より柔軟な、1と0のみにこだわらない状況判断能力を持つことも必要でしょう。それらが複雑に影響しあい、人工知能としての機能を果たすのなら、感情や思考と呼んでも差し支えない機能を合わせ持っているはず。そして感情があるのなら、心や精神と呼べる機能は存在するのかどうか。それはまず何を持って「心」と呼ぶのかを定義する必要があるのではないでしょうか。
レプリカントの「感情」は、元来自己保存の為の機能(死にたく無いと思う感情)や、任務を遂行する為に必要な協調性として備わった機能(仲間を大切に思う感情)であったかも知れません。しかし、彼等は「自分達は何のために存在するのか」という疑問、「自我」を持ち始めます。その問いに、正しい回答など無いのですが。
P.K.ディックのSFのコンセプトに言えることは、私達が普通と思っていることは、本当なのか?という疑問提起です。この映画では、自分を人間だと思っていたレプリカントのレイチェル、自分の記憶は全て与えられ、自分は人間では無く人工的に作られたレプリカントであると知った彼女のエピソードは、とてもディックらしいと思います。(原作にこのエピソードは無かったような記憶がありますが・・・この映画がそれだけディックの作品のコンセプトを理解しているということでしょうか。)しかし、人間と同じ身体構造をもち、心があり、しかも自分を人間だと思っているのなら、人間と呼んでもいいのではないか?という疑問も投げかけています。
SF映画マイベスト3を上げよ、と言われたら、間違い無く入る、エイリアンのリドリー・スコット監督、フィリップ・K・ディック原作の近未来SF。常に酸性雨の降る暗い近未来のロサンゼルス、脱走した4体のアンドロイド(レプリカント)と、それを追うブレードランナー(レプリカント専門の賞金稼ぎ)の対決に、主役のブレードランナーであるハリソン・フォードのレプリカントとの恋や、人工生物であるレプリカントの「自我」「存在理由」といった哲学的要素を交えたアクション系SFです。コンセプト、ストーリー、ビジュアル、キャスティングどれをとっても正にマスターピース、SFアクション映画であるにも関わらず、芸術性、精神性の高い作品。(ちなみにマイベストSF他の2つは、ハイランダーとマトリックスです・・・)
この当時近未来といえは、清潔な室内に清潔なユニフォーム、サプリメントみたいな食料、といった見た目明るいイメージが主流だったのですが、この映画では徹底して暗く、じめじめし、世紀末のようなイメージで表現されます。この映画を今見ても違和感が無いのは、現在ではこちらのイメージの方が主流となっているからでしょう。
この映画のコンセプトは、人造であるレプリカントの精神性であると思います。高度なバイオテクノロジーによって人間の代用として作られ、危険な作業を行うレプリカントは、人間以上の知能と、人間と同じような感情が備わっていると設定されています。感情は意図して与えられた機能ではない設定ですが、作り出された人工知能に感情は有るのか?という疑問。
より人間に近い機能を持たせる上で「人間としての身体機能」と、「意志、あるいは感情」は不可欠であると私は思います。「人間としての身体機能」が必要なのは、人間が知能を発達させて行く上で、身体の器官から来る刺激によって学び、成長して行く過程を切り離して考えることが出来ないため、人工知能を機能させる上で人間により近付けるには同じく身体器官が必要と考えられるからです。また、「意志、あるいは感情」とは、簡単に言えば、1つの事柄に関して「さけるべき事柄」「好ましい事柄」「どちらでも無い事柄」に分け、それによって行動を変えることが必要となり、すなわちそれは意志であり、すでに好き嫌いの感情ではないでしょうか?人間に近い思考能力を持たせるには、より柔軟な、1と0のみにこだわらない状況判断能力を持つことも必要でしょう。それらが複雑に影響しあい、人工知能としての機能を果たすのなら、感情や思考と呼んでも差し支えない機能を合わせ持っているはず。そして感情があるのなら、心や精神と呼べる機能は存在するのかどうか。それはまず何を持って「心」と呼ぶのかを定義する必要があるのではないでしょうか。
レプリカントの「感情」は、元来自己保存の為の機能(死にたく無いと思う感情)や、任務を遂行する為に必要な協調性として備わった機能(仲間を大切に思う感情)であったかも知れません。しかし、彼等は「自分達は何のために存在するのか」という疑問、「自我」を持ち始めます。その問いに、正しい回答など無いのですが。
P.K.ディックのSFのコンセプトに言えることは、私達が普通と思っていることは、本当なのか?という疑問提起です。この映画では、自分を人間だと思っていたレプリカントのレイチェル、自分の記憶は全て与えられ、自分は人間では無く人工的に作られたレプリカントであると知った彼女のエピソードは、とてもディックらしいと思います。(原作にこのエピソードは無かったような記憶がありますが・・・この映画がそれだけディックの作品のコンセプトを理解しているということでしょうか。)しかし、人間と同じ身体構造をもち、心があり、しかも自分を人間だと思っているのなら、人間と呼んでもいいのではないか?という疑問も投げかけています。
あなたの記事を読んでいて、理系の人の書く文章だなあ、という感じがしました。ちなみにぼくは文系です。(笑)また、この映画の<世紀末イメージ>って本当にいいですよね。さらに、レプリカントが<何のために存在するのか><その問いに、正しい回答などない>というのは全くその通りだと思います。
暗く、渾沌とした近未来イメージは、この映画がはしりだと思うのですが。酸性雨などは残念ながらより現実に近いイメージですよね・・・
本当に、見終わった後もいろいろ考えさせられる映画です。面白かった!で終わる映画もいいけれど、数日その映画の事ばかり考えてしまうようなインパクトのある映画が好きです。
また、機会が有りましたらお寄りください。