エドワード・W・サイード [著]
『知識人とは何か』
大橋洋一 [訳]
平凡社ライブラリー
読者レビュー
1.
国意識を越えて社会意識を。
サイードは、「知識人」を独自の見解で定義します。
サイードの言う知識人は
「亡命者にして周辺的存在であり、
またアマチュアであり、
さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」です(p.20)。
権力の犬ではなく、
逆に反骨精神溢れる知識人像が描かれています。
サイードは、本文中で神を厳しく否定しています。神の存在は権威であるとされ、神への転向や崇拝が斥けられています。
「いつも失敗する神々」に服従するのではなく、最善を尽くして真実を積極的に表現することが勧められています。
サイードが提示する知識人像とは別に、
知識人とは
「安全な場所に閉じこもり、
ときに上から目線で小難しいことを話している人達」というイメージが世間では流布している気がします。
サイードはこうした風潮も承知の上で、
彼独自の知識人像を新しく打ち立てようとしているのだと思います。
サイードが理想とする知識人になるのはそう簡単なことではないと思いますが、
サイードの知識人像を
「目指すべき理念」の一つとして知っておくのは有益なことかと思いました。
インターネットが発達したこの世界で真実を主張するのにはリスクが伴いますが、
「サイードの言う通り、
リスクを背負うのが知識人(笑)ってもんだろう!」
と自分に言い聞かせて前進する勇気が持てる一冊です。
2.
これぞ知識人の定義だと思います。
BBCの伝統ある講義放送で、
パレスチナ人である著者が
知識人について淡々と、
そしてしっかりと語った記録。
読者が吸い込まれそうな感じのする不思議な名著だと思います。
小生にとって印象深かったのは以下の点です。
・知識人は、
大勢に順応するのではなく、常に自分の感性でモノを見て、
集団を超える普遍性を探し、
それを公に話す。
・よって、(知識人は)権力者からは常に疎まれ、
大衆からも往々にして嫌われる。
・知識人であるためには、
公に話す能力と
リスクへの覚悟が要る。
・宗教の原理主義が
知識人と相容れないのは、
イスラムだけではなく、
キリスト教/ユダヤ教も含めたすべての宗教について言える。
「なぜ」と問うことを止め、神々を崇拝した時点でもはや知識人ではない。
・権力、スポンサー、顧客、大衆にすり寄り、
御用学者となる「知識人」も多い。
ジョン・スチュアート・ミルや
A・ド・トクヴィルも
自国の暴虐には、口を閉ざした。
・共同体(サル山)と
モラルに挟まれて、
知識人が大変苦しめられた最悪の例は、
戦前の日本。
・専門家とは、
権力側に都合のよい御用学者制度。
知識人はお金/集団に懐柔されない「アマチュア」である必要がある。
・米国は、政府/団体補助金によって知識人をほぼ壊滅させて「われわれ」の戦争を行っている。
「われわれ」という言葉には注意要。
・知識人は、マルコ・ポーロのような旅人。
アウトサイダー/
亡命者/
故郷喪失者として、
集団に巻き込まれず、
最大の価値を提供する。
・読者もこの本を読んでいる以上、
「知識人」となるか
本物の知識人となるかを
選択することになる。
丸山眞男の名も出てきました。
サイードの言う知識人は、
文章や言論に秀でている必要があるのでなかなか大変ですが、
「権力のみならず
大衆から往々にして嫌われる」とか
「マルコ・ポーロのような旅人。
故郷喪失者」
というのはなるほどと思いました。
3.
1993年にBBCで放送された
全6回の連続講演の収録。
講演がベースになっているせいかわかりやすかった。
この本は知識人はどうあるべきかを説いたものだが、
知識人を自認しない人間にも
サイードの言葉は迫ってくる。
サイードは
「知識人にはどんな場合にも、
ふたつの選択しかない。
すなわち、
弱者の側、
満足に代弁=表象されていない側、
忘れ去られたり黙殺された側につくか、
あるいは、
大きな権力をもつ側につくか。」という。
多くの知識人が
後者の側にさまざまな形で取り込まれてしまう現状を指摘し、
サイードは
前者こそが知識人の採るべき道だと説く。
しかしこれは、
何も知識人についてだけの話ではないだろう。
自分なりに世の中というものを理解し、
世の中のあり方に対して何かしら意見を述べようとする者は、
誰しもサイードの示す選択肢の
どちらかを選ばざるを得ないはずだ。
権力に抗(あらが)う知識人のあり方を、
サイードは
「アマチュアリズム」
と呼ぶ。
それは
「利益とか利害に、
もしくは
狭量な専門的観点にしばられることなく、
憂慮とか愛着によって
動機づけられる活動」
と定義される。
知識人というと、
大学の先生などを思い浮かべてしまうが、
こういうくだりを読むとどうだろう。
「政府や大企業につかえる場合、
モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、
またもっぱら
専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、
とにかく意見統一を優先させ、
懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、
あまりに強力で、
それにうちかつのはむつかしい。」
―(ということは)―社会人ならば誰しも思い当たる経験があるのではないだろうか。
そこで大切になるのが、
アマチュアリズムの精神というわけだ。
知識人ではない自分にも、
読んでよかったと思える本だった。
4.
私とこの本の出会いのきっかけは、
数年前にとある大学教授が
退官にともなう記念に実施された最終講義にさかのぼる。
その教授は、
その最後の姿を見届けようと集まった教授や生徒を前にして、
ご自身の生い立ちや研究とその成果を語り、
講義の最後にこの本に触れ、この内容にいかに触発されたのか、
そして退官後はこの本を基準として
「周辺的知識人」になるために
日本を飛び出して生活するつもりだと、
具体的な人生設計までをも語っておられた。
そして
「是非みなさんも読んでいただきたい」
と勧められ、
講義は閉じられた。
その教授を知識人とするなら、
私なんかはもちろん
「知識人」と呼称されるに
到底及ばない存在である。
しかし、
この本が投げかける数々の問いは、
鋭く自分につきささったのも事実であるし、
「知識人」と自認しなくても、
これを通読した多くの人も
そのような感覚を得たのではと思う。
そして悩む。
知識人はいかに存在し、
誰をどのように表象するべきなのか、
誰に向かって主張を訴え続けるべきなのか。
特に、
自国の犯罪行為には目をつぶって、
他国の犯罪行為に対しては糾弾し断罪するというある意味「国際的な習慣」には、
疑問をぶつけずに納得してしまっていいのか、
「どこの国でもそれをしてるし、
それが世界のやり方ではないのか、
それが現実だ」
として簡単に結論づけてしまっていいのか、
との問いは
「知識人」であるかあるまいかに関わらず
非常に重くのしかかる。
そしてそれは
何も国際関係にこだわらなくても、
普段の生活、
社会、
メディアといった
マスのあり方にも
限りなくリンクしているはずである。
そして最終的に
自己のあり方として
直に問われることはいうまでもない。
大著「オリエンタリズム」を読み終えたときは、
その迫力に圧倒され、
歴史の積み重ねがもたらして突きつけた難題に
ある種の「絶望感」を抱いてしまった。
それに比べてこの本は
ページ数も少なく読みやすいので、
まずサイード入門編として手に取ることを
万人にお勧めできる。
それと同時に、
自身の思考がどこかに迷いこんだときに、
何か「原点」を照らしだしてくれるような書ではないかと思う。