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知識人

2021-11-26 05:35:32 | 日記

 

エドワード・W・サイード [著]

『知識人とは何か』

大橋洋一 [訳]

平凡社ライブラリー

 

読者レビュー

 

1.

国意識を越えて社会意識を。

サイードは、「知識人」を独自の見解で定義します。

サイードの言う知識人は

「亡命者にして周辺的存在であり、

またアマチュアであり、

さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」です(p.20)。

権力の犬ではなく、

逆に反骨精神溢れる知識人像が描かれています。

サイードは、本文中で神を厳しく否定しています。神の存在は権威であるとされ、神への転向や崇拝が斥けられています。

「いつも失敗する神々」に服従するのではなく、最善を尽くして真実を積極的に表現することが勧められています。

 

サイードが提示する知識人像とは別に、

知識人とは

「安全な場所に閉じこもり、

ときに上から目線で小難しいことを話している人達」というイメージが世間では流布している気がします。

サイードはこうした風潮も承知の上で、

彼独自の知識人像を新しく打ち立てようとしているのだと思います。

サイードが理想とする知識人になるのはそう簡単なことではないと思いますが、

サイードの知識人像を

「目指すべき理念」の一つとして知っておくのは有益なことかと思いました。

インターネットが発達したこの世界で真実を主張するのにはリスクが伴いますが、

「サイードの言う通り、

リスクを背負うのが知識人(笑)ってもんだろう!」

と自分に言い聞かせて前進する勇気が持てる一冊です。

 

2.

これぞ知識人の定義だと思います。

BBCの伝統ある講義放送で、

パレスチナ人である著者が

知識人について淡々と、

そしてしっかりと語った記録。

読者が吸い込まれそうな感じのする不思議な名著だと思います。

 

小生にとって印象深かったのは以下の点です。

 

・知識人は、

大勢に順応するのではなく、常に自分の感性でモノを見て、

集団を超える普遍性を探し、

それを公に話す。

 

・よって、(知識人は)権力者からは常に疎まれ、

大衆からも往々にして嫌われる。

 

・知識人であるためには、

公に話す能力と

リスクへの覚悟が要る。

 

・宗教の原理主義が

知識人と相容れないのは、

イスラムだけではなく、

キリスト教/ユダヤ教も含めたすべての宗教について言える。

「なぜ」と問うことを止め、神々を崇拝した時点でもはや知識人ではない。

 

・権力、スポンサー、顧客、大衆にすり寄り、

御用学者となる「知識人」も多い。

ジョン・スチュアート・ミルや

A・ド・トクヴィルも

自国の暴虐には、口を閉ざした。

 

・共同体(サル山)と

モラルに挟まれて、

知識人が大変苦しめられた最悪の例は、

戦前の日本。

 

・専門家とは、

権力側に都合のよい御用学者制度。

知識人はお金/集団に懐柔されない「アマチュア」である必要がある。

 

・米国は、政府/団体補助金によって知識人をほぼ壊滅させて「われわれ」の戦争を行っている。

「われわれ」という言葉には注意要。

 

・知識人は、マルコ・ポーロのような旅人。

アウトサイダー/

亡命者/

故郷喪失者として、

集団に巻き込まれず、

最大の価値を提供する。

 

・読者もこの本を読んでいる以上、

「知識人」となるか

本物の知識人となるかを

選択することになる。

 

丸山眞男の名も出てきました。

サイードの言う知識人は、

文章や言論に秀でている必要があるのでなかなか大変ですが、

「権力のみならず

大衆から往々にして嫌われる」とか

「マルコ・ポーロのような旅人。

故郷喪失者」

というのはなるほどと思いました。

 

3.

1993年にBBCで放送された

全6回の連続講演の収録。

講演がベースになっているせいかわかりやすかった。

 

この本は知識人はどうあるべきかを説いたものだが、

知識人を自認しない人間にも

サイードの言葉は迫ってくる。

サイードは

「知識人にはどんな場合にも、

ふたつの選択しかない。

すなわち、

弱者の側、

満足に代弁=表象されていない側、

忘れ去られたり黙殺された側につくか、

あるいは、

大きな権力をもつ側につくか。」という。

 

多くの知識人が

後者の側にさまざまな形で取り込まれてしまう現状を指摘し、

サイードは

前者こそが知識人の採るべき道だと説く。

しかしこれは、

何も知識人についてだけの話ではないだろう。

自分なりに世の中というものを理解し、

世の中のあり方に対して何かしら意見を述べようとする者は、

誰しもサイードの示す選択肢の

どちらかを選ばざるを得ないはずだ。

 

権力に抗(あらが)う知識人のあり方を、

サイードは

「アマチュアリズム」

と呼ぶ。

それは

「利益とか利害に、

もしくは

狭量な専門的観点にしばられることなく、

憂慮とか愛着によって

動機づけられる活動」

と定義される。

 

知識人というと、

大学の先生などを思い浮かべてしまうが、

こういうくだりを読むとどうだろう。

「政府や大企業につかえる場合、

モラルの感覚をひとまず脇におくようにという誘惑の声、

またもっぱら

専門分野の枠のなかだけで考えるようにし、

とにかく意見統一を優先させ、

懐疑を棚上げにせよという誘惑の声は、

あまりに強力で、

それにうちかつのはむつかしい。」

―(ということは)―社会人ならば誰しも思い当たる経験があるのではないだろうか。

 

そこで大切になるのが、

アマチュアリズムの精神というわけだ。

知識人ではない自分にも、

読んでよかったと思える本だった。

 

4.

私とこの本の出会いのきっかけは、

数年前にとある大学教授が

退官にともなう記念に実施された最終講義にさかのぼる。

 

その教授は、

その最後の姿を見届けようと集まった教授や生徒を前にして、

ご自身の生い立ちや研究とその成果を語り、

講義の最後にこの本に触れ、この内容にいかに触発されたのか、

そして退官後はこの本を基準として

「周辺的知識人」になるために

日本を飛び出して生活するつもりだと、

具体的な人生設計までをも語っておられた。

 

そして

「是非みなさんも読んでいただきたい」

と勧められ、

講義は閉じられた。

 

その教授を知識人とするなら、

私なんかはもちろん

「知識人」と呼称されるに

到底及ばない存在である。

しかし、

この本が投げかける数々の問いは、

鋭く自分につきささったのも事実であるし、

「知識人」と自認しなくても、

これを通読した多くの人も

そのような感覚を得たのではと思う。

そして悩む。

知識人はいかに存在し、

誰をどのように表象するべきなのか、

誰に向かって主張を訴え続けるべきなのか。

特に、

自国の犯罪行為には目をつぶって、

他国の犯罪行為に対しては糾弾し断罪するというある意味「国際的な習慣」には、

疑問をぶつけずに納得してしまっていいのか、

「どこの国でもそれをしてるし、

それが世界のやり方ではないのか、

それが現実だ」

として簡単に結論づけてしまっていいのか、

との問いは

「知識人」であるかあるまいかに関わらず

非常に重くのしかかる。

そしてそれは

何も国際関係にこだわらなくても、

普段の生活、

社会、

メディアといった

マスのあり方にも

限りなくリンクしているはずである。

そして最終的に

自己のあり方として

直に問われることはいうまでもない。

 

大著「オリエンタリズム」を読み終えたときは、

その迫力に圧倒され、

 歴史の積み重ねがもたらして突きつけた難題に

ある種の「絶望感」を抱いてしまった。

それに比べてこの本は

ページ数も少なく読みやすいので、

まずサイード入門編として手に取ることを

万人にお勧めできる。

それと同時に、

自身の思考がどこかに迷いこんだときに、

何か「原点」を照らしだしてくれるような書ではないかと思う。

 

 


岩波現代文庫

2021-11-25 05:30:03 | 日記

新しい世紀が目前に迫っている。

しかし20世紀は、

戦争、

貧困、

差別と抑圧、

民族間の憎悪等に対して

本質的な解決策を

見いだすことが

できなかったばかりか、

文明の名による自然破壊は

人類の存続を脅かすまでに

拡大した。

 

 

一方、

第二次世界大戦後より半世紀余の間、

ひたすら追い求めてきた物質的豊かさが

必ずしも幸福に直結せず、

むしろ社会のありかたを歪(ゆが)め、

人間精神の荒廃をもたらす

という逆説を、

われわれは人類史上はじめて

痛切に体験した。

 

それゆえ先人たちが

第二次世界大戦後の諸問題と

いかに取り組み、

思考し、

解決を模索したかの

軌跡を読みとくことは、

今日の緊急の課題であるにとどまらず、

将来にわたって必須の

知的営為(ちてきえいい)となるはずである。

 

幸いわれわれの前には、

この時代の様ざまな葛藤(かっとう)から生まれた、

人文、

社会、

自然諸科学をはじめ、

文学作品、

ヒューマンドキュメントにいたる

広範な分野の

すぐれた成果の

蓄積が存在する。

 

岩波現代文庫は、

これらの学問的、

文芸的な達成を、

日本人の思索に切実な影響をあたえた諸外国の著作とともに、

厳選して収録し、

次代に手渡していこうという

目的をもって発刊される。

いまや、次々に生起する(起きる)大小の悲喜劇に対して

われわれは傍観者であることは許されない。

一人ひとりが生活と思想を再構築すべき時である。

 

👩👧私はこういうことのために

本を読んでいるのですね❇️

 

👨聴きましたか❔中ごく。

自国の国民に、

社会主義の書籍以外

読ませないという法律は、

国内から自然に国が滅びることと

同じではないだろうか。)

 

岩波現代文庫は、

戦後日本人の知的自叙伝ともいうべき書物群であり、

現状に甘んずることなく困難な事態に正対して、

持続的に思考し、

未来を拓(ひら)こうとする同時代人の糧(かて・エネルギー)となるであろう。

(2000年1月)

岩波現代文庫の発足に際して

 

 

(👧岩波現代文庫も素晴らしい考え方の上で発刊されているのですね❤️

👨そうだね✨

👧ちなみに、たとえば、何ていうタイトルの本❔

👩岩波現代文庫 社会117

エドワード・W・サイード

島弘之[訳] ジャンモア[写真]

📖『パレスチナとは何か』

岩波書店

 

 

 

 


心配なこと

2021-11-23 07:52:21 | 日記

 

YouTube

2021.11.21[誰でもわかる]

🇯🇵外国人参政権とは?

何が問題なのか?

【及川幸久-BREAKING-】

及川幸久 THE WISDOM CHANNEL

2021年11月22日

 

武蔵野市長の松下玲子さんという人が、

それを法律にしたいと、

外国人が投票できる住民投票条例案を

市議会に提出した。

 

武蔵野市に住んでいる(住民登録している)

外国人留学生とかが、

住民投票に参加できるという条例。

 

(👩「外国人留学生」と聞いて

日本企業の成果を盗んで帰る中ごく人留学生たちの行いを思い出して背筋がぞっとした。)

 

日本の各政党は、

外国人参政権についてどういう立場、考えを持っているのか?

 

及川(幸久さん自身)としては、

外国人が参政権を持つことに反対です。

 

この番組では、

中立の立場でまとめてみます。

 

(日本で外国人が投票できる)外国人参政権には以下のものが含まれる。

・国政参政権

・地方参政権

・住民投票(ex.武蔵野市)

 

日本で、外国人にも『住民投票』を認めている地方自治体は、

全国で43もある。

そこに武蔵野市も新たに加わろうとしている。

 

『住民投票』の条件は、

日本に居る在留期間にある程度の長さが必要、

なのだけれども、

 

在留期間に関係なく、

外国人が住民投票できるのは、

今のところ43のうち2市。

1.神奈川県逗子市

2.大阪府豊中市

今回、武蔵野市が3番目として名乗りをあげている。在留期間に関係なく外国人が住民投票できる市になろうと名乗りをあげている。

 

住民投票もひっくるめて

外国人参政権の何が問題なのか?

問題を実例で。

沖縄県の与那国(島)。

与那国町のケース。

地図を読むと

台湾がすぐそこです。

石垣島と台湾の中間に位置する与那国島。

日本の南の端にあるのが与那国島。

 

台湾は今、

中ごくに取られてしまうかもしれない

ということで

話題になっている台湾です。

 

沖縄県与那国町長選挙が

2021年8月8日に投票があった。

・有権者1327人

・(当選者の)第1位   628票

・・・・・ 第2位   -) 506票

・(1位と2位は、)・・   122票しか違わない。

そもそも

(与那国島は)有権者数が1327人と非常に少ない。

これくらい人が少ないと

「村」といってもいいくらいな与那国。

 

……ということは、

もし沖縄県の与那国町に、

永住権を持つ中ごく人が

大量に移住してきたとしたら⁉️

 

そして、

『外国人参政権』が

もし認められたとしたら⁉️

町長は、

中ごく人に(が)なる

可能性がある‼️

(👨👩👧ぎゃーっ💀

日本は

少しずつ

少しずつ

ウイグルの

二の舞に‼️)

(人は)600票くらいに慣れてしまうから

それを始めっから(中ごくが)

計画的にねらって

この与那国町に

大量の中ごく人が移住したら

そうなります。

(町長・市長が中ごく人になります)。

 

 

 

(👨沖縄県与那国町の町民と、

町役場の方々の精神的・科学的進化の度合い、

民度の高さは大丈夫ですか❔

ウイグル人の皆さんが

「初めは優しい言葉を掛けてくる中ごくに決して

漬け込まれるな❗」

と言っています。)

 

重々の10乗、100乗くらい気をつけないと

すぐそこでそういうことが

起き得るということを

今現在の時点で

与那国島の方々は、

わかっているのだろうか❔

与那国町図書室には、

ウイグル、チベット、モンゴル、

そして香港などについての

書籍はありますか❔)

 

 

同じようなケース

長崎県対馬市。

場所は、

韓国と九州のちょうど真ん中にあるわけです。

 

(対馬市、)こちらは市ですから、

先ほどの与那国よりもっと大きいです。

対馬の市議会議員選挙が、

今年(2021年)5月16日にあったわけです。

対馬市は有権者が2万4千人。

市議会議員は約20人ほどです。

 

(対馬市で)

最下位で当選した場合の得票が554票。

つまり、

(たった)500票以上取ったら

(外国人が日本の)

市議会議員になれちゃうわけです❗

 

もし(日本の)永住権を持つ韓国人が、

大量に対馬市に移住して、

「対馬は

韓国領だ‼️」

というふうに言ったら、

そういう風に主張する市議会議員数名を

この市議会に、

誕生させることが

できてしまうわけです。

もし、『外国人参政権』が

認められたら………。

 

小さな所、国境沿いの所は

特に狙われやすい。

 

 

(👩「抜き足差し足戦争」。

💀💀💀💀💀💀💀💀💀

👣👣👣👣👣👣👣👣👣

👨ママッ、ふざけてる場合じゃない‼️

特に中ごくは、長いスパンで物事を見るんだ。

そして、長いスパンでじわじわと計画をすすめる。

一般市民が気付いたときには

あとのまつりだ‼️

 

👩だから、今はそれがこわいから

武蔵野市、やめたほうがいい。

中ごく以外の外国人留学生の皆さんには

まことにご迷惑をかけるけれど、

今は尖閣諸島・台湾のことがあるから

やめておいていただきたいです。

外国人が投票できる住民投票条例案を可決してはなりません。法律を制定してはなりません。

👨こういう大切なことを

地上にあげていくべきだと思います。

人間が増えて、

自分の党への投票数は

増えるかもしれないけれど、

それは一時的なもので、

将来的に

日本が他国に占領されても良いのですか❔

それとも、これは、

世界的に起こっていることで

仕方ないことなの❔

歴史の流れで、

防ぐ・とめることはできないの❔

今ならまだ食い止められるでしょう。

EU、イギリス連邦の国々とは違うのだから。

 

 

 

 

👧おかあさん、

ウイグルのこと(新疆綿工場でのウイグル人への強制労働などについて)、

心配していたでしょう。

以下のニュースが出ていたわよ❗

 

世界の企業が従業員の労働環境やサプライチェーン(供給網)の見直しに着手した。アパレルではワークマンが工場の労働環境の監査を第三者と自社で実施する。米ティファニーは世界でダイヤモンドの生産履歴を開示した。多くの企業や消費者、機関投資家は購入や投資の際に従業員の人権保護や労働環境が公正になされているか注目し始めた。企業は選ばれるため、こうした取り組みを徹底し、外部に示すことが重要になる。

 

👨「企業は消費者に選ばれるために、

従業員の人権保護や労働環境が公正になされているかに注目し始めた」

👧「消費者に選ばれるためではなく、

ほんとうは人権・倫理・道徳的に注目すべき」だけれど……。

👩消費者がいちばん賢い。

「士農工商」の「商」だから何でも算盤勘定。お金が先で。

👨ママッ❗言い過ぎ❗

全部が全部、そんな企業ではないよ。

👩もっと、「卑怯な方法は使わない」という考えが前にくるといいなと思います。

👧ユニクロとパナソニックはいかに❔

当事者の中ごく自体はいかに❔

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


「講談社現代新書」の刊行にあたって  野間省一

2021-11-23 03:49:39 | 日記

 

(👩📖『戦争の日本近現代史

東大式レッスン!

征韓論から太平洋戦争まで』

加藤陽子さん著、

講談社現代新書1599

という本を見つけて、

本を開いたら、

いちばん最後のページにも

光輝く文章が載っていた。

その文章はほんとうに光っていた。

その文章とは以下だ。

講談社現代新書として選ばれた文章は、

わたしたちのために

たいへんよく吟味してくれているものだと感じた。)

 

 

「講談社現代新書」の刊行にあたって

 

教養は

万人が身をもって養い

創造すべきものであって、

一部の専門家の占有物として、

ただ一方的に

人々の手元に配達され

伝達されうるものではない。

 

しかし、不幸にして

わが国の現状では、

教養の重要な養いとなるべき書物は、

ほとんど講壇からの天下りや

単なる解説に始終し、

知識技術を真剣に希求する青少年・

学生・一般民衆の根本的な疑問や興味は、

けっして十分に答えられ、

解きほぐされ、

手引きされることがない。

万人の内奥から発した、

真正の教養への芽ばえが、

こうして放置され、

むなしく滅びさる運命に

ゆだねられている。

 

このことは、

中・高校だけで教育をおわる人々の

成長をはばんでいるだけでなく、

大学にすすんだり、

インテリと目されたりする人々の

精神力の健康さえもむしばみ、

わが国の文化の実質を

まことに脆弱な

(もろくよわい)ものに

している。

 

単なる博識以上の根強い思索力・

判断力、および

確かな技術に支えられた教養を

必要とする日本の将来にとって、

これは真剣に

憂慮(心配)されなければならない事態であると

いわなければならない。

 

わたしたちの「講談社現代新書」は、

この事態の克服(解決)を意図して計画された。

これによってわたしたちは、

講壇からの天下りでもなく、

単なる解説書でもない、

もっぱら万人の魂(たましい)に生ずる、

初発的かつ根本的な問題をとらえ、

掘り起こし、

手引きし、

しかも最新の知識への展望を

万人に確立させる書物を、

新しく世の中に

送り出したいと念願している。

わたしたちは、創業以来

民衆を対象とする、

啓蒙の仕事に専念してきた講談社にとって、

これこそもっともふさわしい課題であり、

伝統ある出版社としての

義務でもあると考えている。

野間省一

 

(👨講談社の第4代目社長さんだ。

 

野間 省一(のま しょういち、1911年4月9日 - 1984年8月10日)は、日本の出版人、実業家。講談社第4代社長。日本書籍出版協会会長。出版文化国際交流会会長。日本雑誌広告協会会長。

 

社長在任は、1945年 - 1981年で、36年間という長期政権だった。以下、戦後の講談社を牽引した野間省一が創刊した主な雑誌、シリーズ。

 

「ぼくら」(1954年)「なかよし」(1954年)「若い女性」(1955年)「たのしい幼稚園」(1956年)「週刊現代」(1959年)「週刊少年マガジン」(1959年)「週刊少女フレンド」(1962年)「小説現代」(1962年)「ヤングレディ」(1963年)ブルーバックス(1963年)講談社現代新書(1964年)「月刊現代」(1966年)「週刊ぼくらマガジン」(1969年)「テレビマガジン」(1971年)講談社文庫(1971年)日刊ゲンダイ(1976年)

 

野間は1976年の講談社学術文庫の刊行にあたっては「文庫と言う小さい形と、学術という壮大な城」の構築という目標を宣言している。

 

1964年の講談社現代新書の創刊の辞では「教養とは万人が身をもって養い創造すべきものであって、一部の専門家の占有物として、ただ一方的に人々の手もとに配布され伝達されうるものではありません」と問題を明らかにしている。そして冒頭の言葉は最後に結んだ言葉である。

 

最新知識を万人が理解できるようにやさしく解説するという文庫や新書の創刊は、志の高い事業であり、かつ難事業である。一部の専門家の専有物を公開しようとする知識の民主化は庶民の知識向上を創業の理念とする講談社にふさわしい企画だった。今もその恩恵に多くの人があずかっている。出版はまさに教育事業である。

 

👴講談社は戦時中は軍部と懇意であったし、

その後は「日中友好」と考えていたが、

今はわからない。

しかし、野間省一さんのこの言葉だけ真摯に受けとめてみると

非常に素晴らしいと感じる。

 

👩わたしは、書籍を

売れそうだからと言って、

続々とあまりにもたくさん書店に並べてはならないと思います。

膨大なそれらの本は簡単なゆえにただ面白く、

ただ面白い本があるために、書店では、

「講談社現代新書」のような人生において重要で、

読んだ人と読まない人の精神に差ができてしまうような

意味のある本がそこにあることに気付くまで時間がかかり、

若者たちの目にとまりにくく、手に取りにくくなっていると感じています。

 

👨でもさ、ママ、読まない人は

たとえそこにこれ1冊しか本が置いてなくても

素通りしてしまうよ。

急に読んでも無理なんだよ。

何だか本には、

読み進める段階(ステップ)があるような気がするな。)

 


📖『君が戦争を欲しないなら』 高畑勲 (岩波ブックレットNo.942)

2021-11-21 09:02:30 | ライブ

 

戦争末期に日本は追い詰められ、

戦中から戦後にかけて

すでにも挙げましたような

まことに悲惨な事態になりました。

そういった(戦争の)悲惨な体験というものは、

もちろんしっかりと語り継ぎ、

記録し、伝承していくべきものです。

『火垂るの墓』という映画も、

戦争がもたらした惨禍と悲劇を

描いています。

しかし、

そういった体験を

いくら語ってみても

将来の戦争を防ぐためには

大して役に立たないだろう、

というのが私の考えです。

 

その理由は、

端的に言いますと、

戦争を始めたがる人も、

こういう悲惨な状態に

なってもよいと

絶対に言いません。

いやむしろ、必ず、

「あんな悲惨なことに

ならないためにこそ、

戦争をしなければならないのだ」

と言います。

 

そういう点から考えると、

どんな悲惨な経験があったかを

話したとしても、

いや、話さなくても、

いまでも世界のあちこちで

悲惨な戦争が続いていますから、

それをテレビやなんかで見れば、

戦争がどんなに悲惨な状況を

生み出すか、

はっきりとわかるはずです。

しかし、にもかかわらず、

戦争は起きる、

国は戦争を始めるんです。

 

アメリカなどは

何回も何回も戦争をしますよね。

そのたびに、

戦場になった国の人々はもちろん、

(アメリカの)自分たちの国民も

悲惨な目にあわせているのに、

しかも、どれひとつ成功していないのに、

それでも(戦争を)やるんです(アメリカは)。

 

 

本当に戦争を防止するものとは

 

日本は、自分が始めた戦争の末期(まつご)に

追い詰められてひどい目にあったわけですが、

それはアメリカのせいでひどい目にあったのです。

(たとえば)岡山の空襲も完全に、

一般人に対する無差別攻撃です。

しかし、そういったひどいことを対米戦争の結果

アメリカから受けたのだという恨(うら)みとしては、

日本人はあまり意識しなかったんですね。

天災のように受けとめてしまう。

 

広島の慰霊碑でさえ、

「あやまちは繰り返しませぬから」と、

主語がひどくあいまいです。

そしてそういう心理は、逆に、

自分たちが他国に攻め込んだ結果もたらした災厄や、

現地の人々の苦しみ、

恨みに対する鈍感さを

生むのではないか❔

どうも私たちは、

加害者としての日本を

しっかりと意識することが

なかなかできません。

(中略)

もう一度言いますが、

戦場末期の負け戦の果てに、

自分たちが受けた悲惨な体験を語っても、

これから突入していくかもしれない戦争を

防止することにはならないだろう、

と私は思います。

 

🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️🌕️

やはり、

もっと学ばなければならないのは、

そうなる(戦争末期の負け戦の果てになる)前のこと、

どうして戦争を始めてしまったのか、

であり、

いったいどう振る舞ったのか、

ではないでしょうか。

 

 

 

正しい情報を国民に伝えない政府

 

ここでお話しておきますと、

日本の国がいかにひどいかということです。

これは当時のことですが、

じつはいまでも同じです。

東日本大震災の福島第一原発事故のときも、

政府から正確な情報を知らされなかったことによって、

福島県飯舘村(いいたてむら)などの人々の

避難が遅れたりしたのは

ご存知の通りです。

国民に知らせるべきことを

知らせない。

戦争中、たとえばこういう

焼夷弾空襲(しょういだんくうしゅう)に対して

どう対処すればよいか、

もう十分わかっていたのに

それを教えなかった。

だから、爆弾を避けるつもりで

防空壕に入って亡くなった人が

たくさんいるのです。

私たちが教わった、

爆弾が降ってきたら目と鼻を押さえて伏せろというのは、

爆発や爆風による被害を避けるためであって、

そういうことは

焼夷弾には何の役にも立ちません。

 

 

焼夷弾は町を焼き尽くすために

開発されたものです。

断面が六角形の鉄の筒で、

長さが50センチくらいでしょうか。

中に油脂が詰まっていて、

B29という爆撃機から投下されると、

親爆弾が開いてその鉄の筒、

要するに焼夷弾がバラけながら

大量に落ちてきます。

そして着地したとたんに発火、

油脂に火が着いて噴出し、

あたりに飛び散るんです。

 

(焼夷弾の)筒は縦に落ちてくるので、

屋根や地面に突き刺さったりすることもありますが、

基本は飛び跳(は)ねて転がり、

あとは油脂が燃えるだけ。

ですから、空からの直撃を避けるために

まず物陰に隠れるべきです。

そして焼夷弾が落ち切ったら、

あとはとにかく燃え上がる火を避けながら

とにかく逃げたほうがいいんです。

 

 

ところが、焼夷弾攻撃に対して出されていた

唯一の命令は、

逃げずに消化しろ、なのですから、

消化活動をした人々がたくさん亡くなりました。

 

(👨知らなかった。

👩ひどいわね。)

 

(中略)

つまり、焼夷弾攻撃というのは、

とても消し切れないほどの火種を空からのばらまいて、

木と紙でできた日本の都市を焼き尽くそうということですから、

対抗のしようがなかった。

だから、逃げるのは当然だったのに、

国は逃げさせたくなかったのです。

(👨えっ👀⁉️なぜ❔)

まあ、できる限り家屋や資材を守るには、

空襲に雄々しく立ち向かわせ、

消化活動をぎりぎりまで頑張らせるしかない

と考えたんでしょうね。

それで、どの家も、

焼夷弾による火災に備えて、

火たたきとか防火用水、

コンクリートで作られた四角い水槽に水を張ったもの、

ゆ戸口の前に置き、

砂袋なども用意していました。

どれも火を消すためのものです。

 

しかし、大量に落ちてくる焼夷弾を

どうやって消せばいいのでしょう。

当時、燃える油を消すには水ではダメだと

信じられていましたから、

おそらく、この焼夷弾を火たたきで

たたいて消せとか、

砂をかけて消せと

いうことだったのだと思います。

 

みなさんご存知でしょうか、

以前はどこの家でも石油ストーブを使っていました。

その石油ストーブが倒れて引火したときには

どうするかというと、

消防庁は、

ストーブに毛布を掛けて消せ、

水は危険だ、

と言っていたのです。

でも、

『暮らしの手帖』という雑誌が、

バケツ1杯の水を

バァーッとかけてみたら消えた、

だからそうするべきだ、

ということを実験で確かめて(雑誌に)載せました。

 

要するに、

急激に冷やせば火は消えるんです。

じつはそれを私は

空襲で目の当たりにしたのですが、

お役所というのはそんなことも確かめず、

公式に認めないまま

戦後を迎えるんですね。

📖『君が戦争を欲しないならば』

高畑勲 監督

(👧ジブリの監督さん、

👨高畑勲監督の言葉、

「戦争がもたらした惨か(さんか)と悲劇、

そういった体験をいくら語ってみても、

これから突入していくかもしれない将来の戦争を防ぐためには大して役に立たないだろう、

というのが、私の考えです。

本当に戦争を防止するものとは、

やはり、もっと学ばなければならないのは、

そうなる前のこと、

どうして戦争を始めてしまったのか、

であり、

どうしたら(戦争を)始めないで済むのか、

そしていったん始まってしまったあと、

為政者は、国民は、

いったいどう振る舞ったのか、

なのではないでしょうか。」

という意見を読んで、

関連書籍から

加藤陽子さん(東京大学文学部教授)の著書

📖『それでも、

日本人は

「戦争」を選んだ』

(新潮文庫 か77-1)

を見つけました。

 

なぜ戦争を選んでしまうのか知りたい。

 

今回は、高畑勲監督の

焼夷弾攻撃のお話にとどまりました。)