いまどこ ―冒頭表示2
キーボードの2段めと3段目はなぜ互い違いになっていないの - 教えて!goo:
に答えてってな形で部分統合しようかナとも思う。
http://blog.goo.ne.jp/raycy/e/c11db5b33d4a1d67900e568ab0dc6273ではちょっとスレ違うと思う。
http://www6.atpages.jp/~raycy/Q/ を http://www6.atpages.jp/raycy/blog2btron/door やらの作業経過を取り入れつつ、ふくらませるようなかんじで、、
http://www6.atpages.jp/~raycy/Q/ を http://www6.atpages.jp/raycy/blog2btron/door やらの作業経過を取り入れつつ、ふくらませるようなかんじで、、
しかし、ためし打ちをしているうちに、次第に自分の体が分裂状態になってくるような気がした。慣れないからだと言ってしまえばそれまでだが、はたして、この感覚は、もっと本質的なことを示唆してはいないだろうか? アメリカの大学や研究室には必ずそなえつけのタイプライターがあり、その多くは電動式で、わたしもそれをよく利用したが、コンピューター化された電子式よりは激しくないとはいえ、やはり電動式の場合にも、ある種の身体的疎外を感じた。
それは、自分の身体運動が機械に直接反映されず、機械が勝手にそれを翻訳しているという疎外感なのだが、それでは、手動式のタイプライターのときに、そうした疎外が全くないかというと決してそうではない。すでに、そこでも指の運動は五〇あまりのキーのメカニズムとコードのなかに閉鎖されている。たとえば、指の左右の運動は、ほとんど殺されてしまう。そして、はじめて手助式のタイプに触れた人は、おそらく、手書きにおける身体運動の"自由さ"をなっかしんだにちがいない、とも言える。
しかし、手書きが手動タイプになったときに失われたものと、手動タイプが電子タイプになったときに失われるものとでは、比較にならないのではないか? わたしは、いまこの原稿を手書きで書いているのだが、ペソとわたしの手によって記された文字は、つねにわたしの思念の予測するものとなるとはかぎらない。むしろ、書くということは、思念の運動と身体11手運動とのメディア的な相互作用であり、一方を他方に還元しっくすことはできない。だから、手が思考の速度についてゆけないというのは実はうそで、それはこの往復運動の一つの高揚した状態を言っているにすぎないのである。むしろ、手が"遅い"からこそ、頭が"早く"働けたのかもしれないのだ。
ところが、電子タイプライターの場合、頭はつねに手より早く働かなければならない。π動タイプライダーも、その点では同じで、だからこそこれらは、テープの話を文字におこすというような場合には、手動とは比較になら・ないくらいすぐれた機能を発抑する。蝋にどんどんうかんできたことを打ち出すのにも、地動や電子式のタイプライターはより効果的だろう。つまり、地動/電子タイフの理念は、思念の運動に対して手の運動を無化することにあるのであり、思念の運動が一切の偶然性、つまりはパフォーマンスやハップニソグをもたずに無媒介に-メディアなしに1そのまま対象化されることなのである。
これは、デカルトが人間機械論を構想したときに考えたことであり、「われ思う、ゆえにわれあり」という彼のテーゼの一つの意味であるが、この点に関して、最近ちょっと奇妙な発言を読んだ。それは、柄谷行人の発言(週刊読蕃人二九八三年六月二〇H号)なのだが、彼はかって「我思う、故に我無し」というテーゼを思いついたという。そしてこの「デカルトとまったく反対側のような考え方」に「マルクスなり精神分析なりみんな入ってくるのではないか」と帯、口づている。
奇妙だと思うのは、「われ思う、ゆえにわれなし」というのは、実は、人間機械論者としてのデカルトがまさに"言わんとしたこと"であって、デカルト向身はそうは一一、、口わなかったが、「われ」を「思うわれ」つまりは純粋な思念運醐としてとらえられるかぎり、「われあり」はむしろ「われなし」と言わなけれぱならなかったはずなのである。
にもかかわらず、デカルトがそうはヰ・〕わなかったところに彼のテーゼを単なるコンピューターの形而上学にとどめることができない部分があるわけで、だからこそ、たとえばフッサールは、その『デカルト的省察』のなかで、「われ思う」の「われ」と「われあり」の「われ」とを、思念的な自我(「超越論的自我」)と身体的自我(「相互主体的自我」)とに読みわけ(つまりは「ゆえに」を単なる岡一性としてではなく、動的・時問的な差異性uメディアとして読みとることによって)このテーゼが支持するかにみえる近代的二分法をのりこえるものを見出し、さらにはデカルトをメディアの現象学者としてとらえなおす方向をきりひらいたのである。まあ、その意味では柄谷行人の方はフッサールなどとは反対に骨のスイまで近代主義的であるわけだ。
解題
ためし打ち 次第に自分の体が分裂状態に 慣れないからだと言ってしまえばそれまでだが、はたして、
この感覚は、もっと本質的なことを示唆
アメリカの大学や研究室には必ずそなえつけのタイプライターがあり、その多くは電動式で、わたしもそれをよく利用したが、コンピューター化された電子式よりは激しくないとはいえ、やはり電動式の場合にも、ある種の身体的疎外を感じた。
自分の身体運動が機械に直接反映されず、機械が勝手にそれを翻訳しているという疎外感なのだが、
動式のタイプライターのときに、疎外
すでに、そこでも指の運動は五〇あまりのキーのメカニズムとコードのなかに閉鎖されている。
たとえば、指の左右の運動は、ほとんど殺されてしまう。そして、はじめて手助式のタイプに触れた人は、おそらく、手書きにおける身体運動の"自由さ"をなっかしんだにちがいない、とも言える。
しかし、手書きが手動タイプになったときに失われたものと、手動タイプが電子タイプになったときに失われるものとでは、比較にならないのではないか?
わたしは、いまこの原稿を手書きで書いているのだが、ペソとわたしの手によって記された文字は、つねにわたしの思念の予測するものとなるとはかぎらない。
むしろ、書くということは、思念の運動と身体11手運動とのメディア的な相互作用であり、一方を他方に還元しっくすことはできない。
だから、手が思考の速度についてゆけないというのは実はうそで、それはこの往復運動の一つの高揚した状態を言っているにすぎないのである。むしろ、手が"遅い"からこそ、頭が"早く"働けたのかもしれないのだ。
ところが、電子タイプライターの場合、頭はつねに手より早く働かなければならない。π動タイプライダーも、その点では同じで、だからこそこれらは、テープの話を文字におこすというような場合には、手動とは比較になら・ないくらいすぐれた機能を発抑する。蝋にどんどんうかんできたことを打ち出すのにも、地動や電子式のタイプライターはより効果的だろう。つまり、地動/電子タイフの理念は、思念の運動に対して手の運動を無化することにあるのであり、思念の運動が一切の偶然性、つまりはパフォーマンスやハップニソグをもたずに無媒介に-メディアなしに1そのまま対象化されることなのである。
これは、デカルトが人間機械論を構想したときに考えたことであり、「われ思う、ゆえにわれあり」という彼のテーゼの一つの意味であるが、この点に関して、最近ちょっと奇妙な発言を読んだ。それは、柄谷行人の発言(週刊読蕃人二九八三年六月二〇H号)なのだが、彼はかって「我思う、故に我無し」というテーゼを思いついたという。そしてこの「デカルトとまったく反対側のような考え方」に「マルクスなり精神分析なりみんな入ってくるのではないか」と帯、口づている。
奇妙だと思うのは、「われ思う、ゆえにわれなし」というのは、実は、人間機械論者としてのデカルトがまさに"言わんとしたこと"であって、デカルト向身はそうは一一、、口わなかったが、「われ」を「思うわれ」つまりは純粋な思念運醐としてとらえられるかぎり、「われあり」はむしろ「われなし」と言わなけれぱならなかったはずなのである。
にもかかわらず、デカルトがそうはヰ・〕わなかったところに彼のテーゼを単なるコンピューターの形而上学にとどめることができない部分があるわけで、だからこそ、たとえばフッサールは、その『デカルト的省察』のなかで、「われ思う」の「われ」と「われあり」の「われ」とを、思念的な自我(「超越論的自我」)と身体的自我(「相互主体的自我」)とに読みわけ(つまりは「ゆえに」を単なる岡一性としてではなく、動的・時問的な差異性uメディアとして読みとることによって)このテーゼが支持するかにみえる近代的二分法をのりこえるものを見出し、さらにはデカルトをメディアの現象学者としてとらえなおす方向をきりひらいたのである。まあ、その意味では柄谷行人の方はフッサールなどとは反対に骨のスイまで近代主義的であるわけだ。
「誰にでも」シリーズ
ドメイン kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp:yasuoka カテゴリ コンピュータ 詳細 225 users 追加日 2006年12月17日
[howto][linux][reference][tips][tutorial][安岡孝一]コマンドリファレンスではなくて、ストーリーを追って覚える。人の記憶は「似たシーンでよく使うものを一緒くたに覚えると忘れにくい&応用が利く」傾向にあるから、この方法がある意味一番確実なのかもしれない。