眺める空に描くもの

高齢者女子のおひとりさま暮らしノート

お世話になった老舗病院と祖父と父と

2024-11-11 18:53:31 | わたし記
今日の空。
雨はすっかり上がって、晴れました。
予報の豪雨ははずれましたが、晴天は予報通り。
今日はカンジヤ先生(仮・内科医)の検査と受診日だったので、
晴れてひと安心。そして、暑い~。
やはり、鹿児島は簡単に冬にはならなかった(笑)
着て行った上着も暑くて脱いで、車のエアコンは冷房に。



がん治療の病院は繁華街の方にあるので、いつも暮らしているエリアとは
全く違う方向に行くため、昔、お世話になったA病院前を通ります。
A病院は、親子三代でお世話になった「かかりつけ医」。

特に両親の通い詰めた病院だったのですが、さすがに古くなって、
このほど、病院前の敷地に新築。とてもきれいな病院になって
外観の植栽も工夫されているので、思わず、信号で停止しているときに
見ていたのですが、ちょっと気になることが。

この病院の1階は総ガラス張りになっているのですが、そこにベッドが
並んでいて、外からよく見えてしまうのです。「あら?」と気になる。
リハビリ用のベッドで、着替えをすることもなく、横になるだけなので、
何か恥ずかしいという姿でもないのですが、道行く人に足を向けて寝ると
いう状態になるから、「患者さんは気にならないのかしら?」と、前を
通りがかかる度に気になっていたのですが、今日はついにブラインドが!
新病院がオープンしてから半年にして、やはり、問題になったのか(笑)

内側から外は見えるけれど、外からは見えないというガラスだったら
よかったんでしょうけどね。何かチョイスミスだったのか。
せっかくの総ガラス張りの気持ちよさはなくなってしまい、ちょっと
もったいないと思いましたが、新築って思わぬところに落とし穴があって
使うようになると、不便と思うところがある気がします。

A病院は昭和21年の開院。戦後すぐに開院された老舗の病院で、父と母、
そして祖父母がお世話になりました。もともと消化器外科の病院だったので、
祖父と父が入院、手術したり、祖母が入院したりして、お見舞いに通いました。
祖父母が住む田舎にはあまり大きな病院がなかったので、必要なときに、
こちらに母が連れて来て、長年にわたってA病院に通わせて世話していました。

母はとても献身的に世話をしていましたが、後年、祖父が私たちの家で長くいる
ことになると、突如、失踪。家に帰って来なくなってしまったのです。
いえ。言い訳としては「仕事」でしたが、そんなに毎日、しかも長時間に
渡って、自宅にいないということはない仕事であることはわかっていました
から、「逃げたんだな」と私は思いましたが、もちろん、そんなことは口に
できないので、祖父と父の世話は私の手にゆだねられてしまいました。

その当時の私はフリーで編集者とライター業をしていましたので、とにかく
締切に追われて。ものすごく忙しかった。どうしても、時間ぎりぎりになって
しまって、必死で原稿を書いていたら、父が私の部屋に来て、「昼飯を作れ」と
言います。うわー。そんなことをしたら間に合わないんだけどと、「ちょっと
待って欲しい」と言いましたが、聞き入れてはもらえず。本当にあたふたでした。

父と祖父の世話を私に丸投げしていた母もなんだかなと思いましたが、自分の
父親で、自分は時間があるのに、何もしない父にもなんだかなと思い。

祖父の入院中も母の代わりによくA病院に通って世話もしていた私。
祖父は長男教の信者なので、私のことはいつも邪険にして、小さいころは、
兄とふたり並んで座っていると、兄にだけお年玉をあげて、私のことは無視。
兄には何でもないときでも贈り物もあげていましたが、私はもらったことはありません。

小さいころから盆暮れ正月、法事と必死になって働いていたのは兄ではなく
私でしたが、ねぎらわれたことはないし、父の妹(叔母たち)の子供たちにはお年玉や
プレゼントもしっかり渡していて、なんだか理不尽だなと思っていました。
嫁が産んだ男の子(兄)はかわいかったようですが、女の子(私)なんて孫でもなんでもなく、
使用人と同然だったのでしょう。
いとこたちは、私のように朝から晩まで働くことなく上げ膳据え膳で何もしないで
遊んでいましたから、30人近い泊り客のご飯からお風呂や掃除など、母とふたりで
やりこなすのは本当に大変だったのですけれど。

入院していた祖父の世話に通っていたときは、下の世話から清拭までやっていました。
祖父の手術のあと、療養のため、家で長く世話することになったとき、うちには急な
外階段が15段ほどあるのですが、術後の祖父は自力では上がれません。
当然、息子である父が祖父をおぶって上ってくれると思ったのに「おまえがおぶえっ」と
私に怒鳴って、自分は知らん顔をしてひとりでさっさと家の中に入ったのはさすがに
唖然としてしまいました。まだ、若かりし女子だった私にそんなことをさせるなんて。

というわけで、私の男性に対する不信を立派に育てた父と祖父。
そういう時代だったのだと思いながらも、母方の祖父母は本当にやさしくて、母に
とっては、父方の親戚との付き合いは、大変だっただろうとは思います。
なので、「失踪」は仕方なかったかもしれませんが、嫁にはいかなかったのに、
嫁の大変さを40年以上も味わった私は「もう、結婚は結構」という気持ちになって
しまったのは当然だったと思います。

母方の祖父はいつもにこやかで楽しい人でした。
母方の祖父が危篤と聞いて東京から駆け付けたとき、私が祖父の手を握っていると、
うっすらと目を開けて、「(私)ちゃん、ありがとう。(私)ちゃんはきれいだねえ。
観音さまのようだよ」と笑ってくれました。

父方の祖父母のことも、かわいがってはもらえなくても大切にしましたが、
嫌な意地の悪いことをされた思い出よりも、やはり、笑顔を残してもらえることの方が、
人としてはすてきではないのかと思うのです。

小さいころ、私はひとりで母方の祖父母に預けられることがありましたが、
本当にやさしくしてもらっていて懐いていたと思います。あまりにも長く、
預けられていたせいで、母が迎えに来たとき、「だれ?」と一瞬、わからなかった
こともよく覚えています。おそらく、2、3歳のころ。

母方の祖母が亡くなったのは小学校2年生のとき。母が祖母の顔にかけていた
白い布を取って、「おばあちゃんはきれいでしょう? よく覚えておきなさい」と
言ったシーンも祖母の黒髪と美しい鼻筋の通った横顔も鮮明に覚えています。
しばらくあと、川のほとりで夕焼け空を見上げて、「おばあちゃんは見ていて
くれるのかな?」と、ひとり、思ったことも。

A病院のおかげで、懐かしいことを思い出しながらの通院タイムでした。

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