![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/03/f9/4664b742d4461c2f31f526d537dffa83.jpg)
夜来の雨は嵐のようで、風が大きくうなり、雨が屋根に叩きつけられて激しい音を出し、
少し不安な気持ちになりましたが(家が古いので壊れがち)、夕方には10月18日以来、
はじめてのすがすがしい青空に。とはいえ、まだ、重い雲も残っていて、雨も続き。
不安定なお天気はまだ落ち着いていない様子です。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/16/a5/0792ae9ce66bb123e036632dabe4147d.jpg)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/87/26e72b42489f3fad9a746a3b4b708304.jpg)
リアルタイムでテレビを見なくなったきっかけのひとつは母の介護だったと思います。
24時間、休みなく母の様子を看ていなくてはならず、自力では寝返りひとつ
打てない母の体位交換、おむつ替え、痰の吸引、胃ろう管理などなど、ゆっくりと
長時間眠ることができなくなってしまい、母の具合が落ち着いたころに2時間くらい
寝るのだけど、すぐに起きて、母の様子を見るといった状態。
会話ができなくなっていて、自分で自分のことが全くできなくなっているいて。
機能全廃の母になにかがあっても、自分で私に訴えることはできないわけですから、
365日少しも気が抜けない日々でした。
母の介護ベッドの横の隙間に布団を無理やり敷いて、ちょっとだけ仮眠する
スタイルで、テレビを見ることができない暮しだったのと、テレビが故障したと
いったというタイミングもあって、見なくなったという状況だったと思います。
そのうち、どんな時間帯でも見ることができるネットの見逃し配信で、テレビを
見ることができるようになったのは、本当に助かりました。
母の容態が落ち着いた夜中から朝方にかけてテレビを見ることが多くありました。
その時間帯はリアルタイムではテレビの放送はないので、その時間帯にしか
テレビを見る余裕がない暮らしは何か世の中から置き去りにされているような
気持ちになっていたので、ネット配信がありがたく魅力的に思えたものです。
母の介護を終えて、テレビもリアルタイムで見ることができるようになったわけ
ですが、今度は60歳で新たな仕事に就き、となりの市までの車通勤。早朝に家を
出て一日、仕事をして帰って来ると、そこでエネルギー切れ。
とにかく疲れ果てているので、とりあえず仮眠を取り、また起きて、家のことや
ごはんの用意や入浴などをして、また、寝るのは午前2時3時。そして、4時5時には
起きて、会社に向かう。という暮らしでは、また、リアルタイムではテレビを
見ることはできなくなって行き。ネット配信だのみとなったのです。
「あの番組を見よう」と思っても眠けには勝てず。録画をすることもできず。
ネット配信のない番組の場合は、本当に残念で。毎日、NHKの「映像散歩」ばかり
見ていた、なんてこともありました(笑)
テレビが暮らしの中にあった日を思い出すと、私が最初のがんになって、家に戻って
来てからやはり、両親ともに元気でいてくれた短い間だったと思います。
退職した父がテレビの健康番組ばかり見ていて、メモを取るなどしていましたが、
何ひとつ自分では実行したり努力しないことに、こっそりため息をついていましたが、
実際にがんになって「ステージ4」の末期宣告されたとき「自業自得だな」と、
父がつぶやき、何の努力もしなくても、テレビをのんびり見て過ごせた日々が父の
大切な時間だったことを思い出します。
テレビを見ている父に、いつもボールを持って行って「投げて」と催促していたわんこ、
父が嫌がらずに、何度も何度も投げていた姿も、テレビがそこにあった日々の
「変わらない暮し」があったことを思い出します。
父は母が認知症の前哨戦に入っていたことを見ていて、「バカがっ」と母のことを
ののしっていたものの、母の認知症がひどくなって来たときに、父がいてくれて
いたら、私は仕事をもっと続けられたのになとは思ったものでした。
父も母も飼い犬のMのことは、あんなにかわいがっていたのに、どうして互いを
尊重して、やさしく労わり合うことができなかったのか。
懸命にふたりの関係修復に努力した日々のことも思い出します。
父の肺がんの看病に一切、関わり合わなかった母でしたが、それは認知症の症状の
前哨戦もあったのだと思います。ただ、車で片道1時間もかかる父の入院する病院に、
私が仕事の調整ができなくて、どうしても行けないという日に、母はすでに車の
運転はおぼつかなかったので、JRを乗り継いで遠い病院にまで行ってくれ。
そのことが少しは私の気持ちをなごませてくれたのでした。
当時の私には母の認知症の症状の実態がつかめず、何ができて何ができないのか、
何をひとりでさせられるのかがわかりませんでしたから、JRを乗り継いで、
病院まで行けるのかどうかが不安だったのに、「行けた」ことが、驚きでした。
少し不安な気持ちになりましたが(家が古いので壊れがち)、夕方には10月18日以来、
はじめてのすがすがしい青空に。とはいえ、まだ、重い雲も残っていて、雨も続き。
不安定なお天気はまだ落ち着いていない様子です。
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リアルタイムでテレビを見なくなったきっかけのひとつは母の介護だったと思います。
24時間、休みなく母の様子を看ていなくてはならず、自力では寝返りひとつ
打てない母の体位交換、おむつ替え、痰の吸引、胃ろう管理などなど、ゆっくりと
長時間眠ることができなくなってしまい、母の具合が落ち着いたころに2時間くらい
寝るのだけど、すぐに起きて、母の様子を見るといった状態。
会話ができなくなっていて、自分で自分のことが全くできなくなっているいて。
機能全廃の母になにかがあっても、自分で私に訴えることはできないわけですから、
365日少しも気が抜けない日々でした。
母の介護ベッドの横の隙間に布団を無理やり敷いて、ちょっとだけ仮眠する
スタイルで、テレビを見ることができない暮しだったのと、テレビが故障したと
いったというタイミングもあって、見なくなったという状況だったと思います。
そのうち、どんな時間帯でも見ることができるネットの見逃し配信で、テレビを
見ることができるようになったのは、本当に助かりました。
母の容態が落ち着いた夜中から朝方にかけてテレビを見ることが多くありました。
その時間帯はリアルタイムではテレビの放送はないので、その時間帯にしか
テレビを見る余裕がない暮らしは何か世の中から置き去りにされているような
気持ちになっていたので、ネット配信がありがたく魅力的に思えたものです。
母の介護を終えて、テレビもリアルタイムで見ることができるようになったわけ
ですが、今度は60歳で新たな仕事に就き、となりの市までの車通勤。早朝に家を
出て一日、仕事をして帰って来ると、そこでエネルギー切れ。
とにかく疲れ果てているので、とりあえず仮眠を取り、また起きて、家のことや
ごはんの用意や入浴などをして、また、寝るのは午前2時3時。そして、4時5時には
起きて、会社に向かう。という暮らしでは、また、リアルタイムではテレビを
見ることはできなくなって行き。ネット配信だのみとなったのです。
「あの番組を見よう」と思っても眠けには勝てず。録画をすることもできず。
ネット配信のない番組の場合は、本当に残念で。毎日、NHKの「映像散歩」ばかり
見ていた、なんてこともありました(笑)
テレビが暮らしの中にあった日を思い出すと、私が最初のがんになって、家に戻って
来てからやはり、両親ともに元気でいてくれた短い間だったと思います。
退職した父がテレビの健康番組ばかり見ていて、メモを取るなどしていましたが、
何ひとつ自分では実行したり努力しないことに、こっそりため息をついていましたが、
実際にがんになって「ステージ4」の末期宣告されたとき「自業自得だな」と、
父がつぶやき、何の努力もしなくても、テレビをのんびり見て過ごせた日々が父の
大切な時間だったことを思い出します。
テレビを見ている父に、いつもボールを持って行って「投げて」と催促していたわんこ、
父が嫌がらずに、何度も何度も投げていた姿も、テレビがそこにあった日々の
「変わらない暮し」があったことを思い出します。
父は母が認知症の前哨戦に入っていたことを見ていて、「バカがっ」と母のことを
ののしっていたものの、母の認知症がひどくなって来たときに、父がいてくれて
いたら、私は仕事をもっと続けられたのになとは思ったものでした。
父も母も飼い犬のMのことは、あんなにかわいがっていたのに、どうして互いを
尊重して、やさしく労わり合うことができなかったのか。
懸命にふたりの関係修復に努力した日々のことも思い出します。
父の肺がんの看病に一切、関わり合わなかった母でしたが、それは認知症の症状の
前哨戦もあったのだと思います。ただ、車で片道1時間もかかる父の入院する病院に、
私が仕事の調整ができなくて、どうしても行けないという日に、母はすでに車の
運転はおぼつかなかったので、JRを乗り継いで遠い病院にまで行ってくれ。
そのことが少しは私の気持ちをなごませてくれたのでした。
当時の私には母の認知症の症状の実態がつかめず、何ができて何ができないのか、
何をひとりでさせられるのかがわかりませんでしたから、JRを乗り継いで、
病院まで行けるのかどうかが不安だったのに、「行けた」ことが、驚きでした。