先月、ワニグチソウを見に行った帰りに、上下代官所跡へ立ち寄った。
現在は旧府中市上下支所が建っているが、その石垣は当時のものなのだそうだ。
そういえば以前、この建屋に上下町を紹介する看板が掲げられていたような気がする。
「日本の背骨…」と書かれていて、家内から「日本の“ハイコツ”って何の事?」と尋ね
られた記憶がある。
そうなんです。 上下町は中国山地の一角にあり、上下町に降る雨は北は山陰の江の川
に流れ、南は山陽の芦田川に流れるという、正に日本の“ハイコツ”のような地形なので
あります!
ここ上下宿は古くから山陰と山陽を結ぶ要衝の地で、江戸時代には福山藩から5万石を
取り上げて天領とし、代官所を置いて、石見銀山から大阪へ向けて銀を運び出す重要な
中継基地として管理させていたらしい。
〔銀山街道上下宿〕…“夢街道ルネサンス”から引用
町の南東にある翁山へ登ってみると、南北に“くの字”に曲がった国道432号線と平行に
昔の銀山街道が見え、その街道沿いには嘗ての豪商達のお屋敷が並んでいる。
この翁山(比高:160m)も、戦国時代には長谷部大蔵左衛門慰元信の居城があったそ
うだが、関ヶ原の合戦で敗れた毛利氏が萩へ移転するのに伴い、長谷部氏も萩へ移住し
たので廃城となったという。
それにしても山城というのは、なかなか良い所へ造ってある。 この翁山城(護国山城)
も山陰と山陽を結ぶ要衝に築かれ、東側の東城からの人の動きも一目で監視出来る!
銀山街道(石州街道)
石見銀山(現在の島根県太田市)から、府中を通って陸路で大阪へ銀を運んだ街道。
石見銀山は大森銀山とも呼ばれ、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての最盛期に
は世界の銀の3割を産出した。 H19年に世界遺産として登録されている。
上下代官所
福山藩10万石は、5代目水野勝岑が元禄11年(1698年)に2歳で亡くなった為に断絶し、
それに伴い一時天領となった。
その後、岡山藩が担当して検地をした結果15万石と査定され、領地を10万石に減らされ
た上で松平忠雅が元禄13年(1699年)に入封したが、宝永7年(1710年)には転封。
以後、阿部氏が入封し、幕末まで10代161年間続いた。
残りの備中・備後71ヶ村約5万石については、それを管轄する為に当初上下代官所が設
けられたが、享保2年(1717年)に2万石が豊前中津藩(藩主は家康の娘婿の奥平氏)
に編入されたのに伴い、石見大森代官所の出張陣屋の扱いとなった。
上下代官所は石見銀山の産出量が右肩下がりになってくると、その補填の為に産出した
銀を有力商人に委託して、貸付金融政策を行った。
これが「上下銀」と呼ばれるもので、やがて貸付対象は周辺農民だけでなく、広島の
福島藩領の農民、更に各藩の藩庁にまで拡大して諸藩との間で問題を起こした。
しかし、ここ上下宿は、石見銀山から積み出される銀の輸送中継地として重要視された
だけでなく、山陰と山陽を結ぶ銀山街道の宿場町としても栄え、更に幕府直轄の天領と
してこの地方の政治・経済の中心地として発展しただけあって、
現在でも上下町の旧銀山街道沿いには白壁にナマコ壁の街並みが続いていて、黒漆喰の
重厚な商家も堂々とした存在感を示し、この町が生み出した豪商達の歴史を感じさせる。
現在は旧府中市上下支所が建っているが、その石垣は当時のものなのだそうだ。
![]() | ![]() | ![]() |
建物に向かって左側 | 旧府中市上下支所 | 建物に向かって右側 |
そういえば以前、この建屋に上下町を紹介する看板が掲げられていたような気がする。
「日本の背骨…」と書かれていて、家内から「日本の“ハイコツ”って何の事?」と尋ね
られた記憶がある。
そうなんです。 上下町は中国山地の一角にあり、上下町に降る雨は北は山陰の江の川
に流れ、南は山陽の芦田川に流れるという、正に日本の“ハイコツ”のような地形なので
あります!
ここ上下宿は古くから山陰と山陽を結ぶ要衝の地で、江戸時代には福山藩から5万石を
取り上げて天領とし、代官所を置いて、石見銀山から大阪へ向けて銀を運び出す重要な
中継基地として管理させていたらしい。
〔銀山街道上下宿〕…“夢街道ルネサンス”から引用
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町の南東にある翁山へ登ってみると、南北に“くの字”に曲がった国道432号線と平行に
昔の銀山街道が見え、その街道沿いには嘗ての豪商達のお屋敷が並んでいる。
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この翁山(比高:160m)も、戦国時代には長谷部大蔵左衛門慰元信の居城があったそ
うだが、関ヶ原の合戦で敗れた毛利氏が萩へ移転するのに伴い、長谷部氏も萩へ移住し
たので廃城となったという。
それにしても山城というのは、なかなか良い所へ造ってある。 この翁山城(護国山城)
も山陰と山陽を結ぶ要衝に築かれ、東側の東城からの人の動きも一目で監視出来る!
銀山街道(石州街道)
石見銀山(現在の島根県太田市)から、府中を通って陸路で大阪へ銀を運んだ街道。
石見銀山は大森銀山とも呼ばれ、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての最盛期に
は世界の銀の3割を産出した。 H19年に世界遺産として登録されている。
上下代官所
福山藩10万石は、5代目水野勝岑が元禄11年(1698年)に2歳で亡くなった為に断絶し、
それに伴い一時天領となった。
その後、岡山藩が担当して検地をした結果15万石と査定され、領地を10万石に減らされ
た上で松平忠雅が元禄13年(1699年)に入封したが、宝永7年(1710年)には転封。
以後、阿部氏が入封し、幕末まで10代161年間続いた。
残りの備中・備後71ヶ村約5万石については、それを管轄する為に当初上下代官所が設
けられたが、享保2年(1717年)に2万石が豊前中津藩(藩主は家康の娘婿の奥平氏)
に編入されたのに伴い、石見大森代官所の出張陣屋の扱いとなった。
上下代官所は石見銀山の産出量が右肩下がりになってくると、その補填の為に産出した
銀を有力商人に委託して、貸付金融政策を行った。
これが「上下銀」と呼ばれるもので、やがて貸付対象は周辺農民だけでなく、広島の
福島藩領の農民、更に各藩の藩庁にまで拡大して諸藩との間で問題を起こした。
しかし、ここ上下宿は、石見銀山から積み出される銀の輸送中継地として重要視された
だけでなく、山陰と山陽を結ぶ銀山街道の宿場町としても栄え、更に幕府直轄の天領と
してこの地方の政治・経済の中心地として発展しただけあって、
現在でも上下町の旧銀山街道沿いには白壁にナマコ壁の街並みが続いていて、黒漆喰の
重厚な商家も堂々とした存在感を示し、この町が生み出した豪商達の歴史を感じさせる。