里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

上下代官所跡

2010年06月15日 | 歴 史
先月、ワニグチソウを見に行った帰りに、上下代官所跡へ立ち寄った。
現在は旧府中市上下支所が建っているが、その石垣は当時のものなのだそうだ。

建物に向かって左側旧府中市上下支所建物に向かって右側

そういえば以前、この建屋に上下町を紹介する看板が掲げられていたような気がする。
「日本の背骨…」と書かれていて、家内から「日本の“ハイコツ”って何の事?」と尋ね
られた記憶がある。
そうなんです。 上下町は中国山地の一角にあり、上下町に降る雨は北は山陰の江の川
に流れ、南は山陽の芦田川に流れるという、正に日本の“ハイコツ”のような地形なので
あります! 

ここ上下宿は古くから山陰と山陽を結ぶ要衝の地で、江戸時代には福山藩から5万石を
取り上げて天領とし、代官所を置いて、石見銀山から大阪へ向けて銀を運び出す重要な
中継基地として管理させていたらしい。

〔銀山街道上下宿〕…“夢街道ルネサンス”から引用

町の南東にある翁山へ登ってみると、南北に“くの字”に曲がった国道432号線と平行に
昔の銀山街道が見え、その街道沿いには嘗ての豪商達のお屋敷が並んでいる。

この翁山(比高:160m)も、戦国時代には長谷部大蔵左衛門慰元信の居城があったそ
うだが、関ヶ原の合戦で敗れた毛利氏が萩へ移転するのに伴い、長谷部氏も萩へ移住し
たので廃城となったという。

それにしても山城というのは、なかなか良い所へ造ってある。 この翁山城(護国山城)
も山陰と山陽を結ぶ要衝に築かれ、東側の東城からの人の動きも一目で監視出来る!

銀山街道(石州街道)
石見銀山(現在の島根県太田市)から、府中を通って陸路で大阪へ銀を運んだ街道。
石見銀山は大森銀山とも呼ばれ、戦国時代後期から江戸時代前期にかけての最盛期に
は世界の銀の3割を産出した。 H19年に世界遺産として登録されている。

上下代官所
福山藩10万石は、5代目水野勝岑が元禄11年(1698年)に2歳で亡くなった為に断絶し、
それに伴い一時天領となった。
その後、岡山藩が担当して検地をした結果15万石と査定され、領地を10万石に減らされ
た上で松平忠雅が元禄13年(1699年)に入封したが、宝永7年(1710年)には転封。
以後、阿部氏が入封し、幕末まで10代161年間続いた。

残りの備中・備後71ヶ村約5万石については、それを管轄する為に当初上下代官所が設
けられたが、享保2年(1717年)に2万石が豊前中津藩(藩主は家康の娘婿の奥平氏)
に編入されたのに伴い、石見大森代官所の出張陣屋の扱いとなった。

上下代官所は石見銀山の産出量が右肩下がりになってくると、その補填の為に産出した
銀を有力商人に委託して、貸付金融政策を行った。
これが「上下銀」と呼ばれるもので、やがて貸付対象は周辺農民だけでなく、広島の
福島藩領の農民、更に各藩の藩庁にまで拡大して諸藩との間で問題を起こした。

しかし、ここ上下宿は、石見銀山から積み出される銀の輸送中継地として重要視された
だけでなく、山陰と山陽を結ぶ銀山街道の宿場町としても栄え、更に幕府直轄の天領と
してこの地方の政治・経済の中心地として発展しただけあって、
現在でも上下町の旧銀山街道沿いには白壁にナマコ壁の街並みが続いていて、黒漆喰の
重厚な商家も堂々とした存在感を示し、この町が生み出した豪商達の歴史を感じさせる。


坂本竜馬所縁の地

2010年05月13日 | 歴 史
今年、福山市は竜馬一色で商魂逞しい!

その第一番目が“平成いろは丸”だ。
鞆町から対岸の仙酔島へ渡る航路に、今年の1月9日から就航した市営渡船だが、
言わずと知れた坂本竜馬ゆかりの船名のパクリだ。
定員99人、全長20m、高さ約10mの3本マストの小さな船を約8千万円で建造し、
大河ドラマに便乗して観光客を呼び込もうと言うさもしい考えだが、どうせ1年限りの
効果しかないだろう?

二番目は、“いろは丸事件”の交渉場所や沈没したいろは丸から引き揚げられた物だが、
建造物の価値は兎も角、竜馬絡みの話としてはこれらもあまりパッとしない!
竜馬宿泊跡(廻船問屋・桝屋清右衛門宅)紀州藩士宿舎跡(円福寺)
いろは丸展示館直談判跡(旧:魚屋萬蔵宅)

その他にも、例えばホテルなども“竜馬御膳”なるものをメニューに加えるなど、色々
な商売人が考えつく限りのアイデア商品を売り出しているが、これとても長続きしそう
にもなく、“竜馬”だけでは観光客を呼び込むほどのインパクトは無さそうだ!

聞くところによれば、シーズン中に鞆の町中で飾られる雛人形を見て回る観光客の方が
よほど多いらしい。 どうもご婦人方は歴史にはあまり関心が無いようだ。

いろは丸(160㌧)
坂本竜馬が伊予大洲藩から借りていた船で、1867年(慶応3年)鞆の浦沖で紀州藩の軍
艦明光丸(887㌧)と衝突して沈没。
竜馬は、鞆の浦の廻船問屋・桝屋清右衛門宅で大藩を相手に談判し、時には対潮楼に談
判の場を移し交渉するも決裂し、紀州船は強引に出航。
その後も粘り強く交渉して凡そ1ヶ月後に、紀州藩が8万3千両を支払う事となったが、実
際には7万両しか支払われず、しかも支払われる前に竜馬は京都の近江屋で暗殺された。


山中鹿之助の首塚

2010年05月12日 | 歴 史
鞆町には“山中鹿之助の首塚”というのがある。 
本名は山中幸盛といい、毛利元就に敗れた尼子氏を再興させる為に、
我に七難八苦を与えたまえ」と三日月に祈った逸話がある事で有名な人の首塚だ。
場所は鞆城跡の北、嘗て毛利軍総帥・毛利輝元の本陣があった静観寺の門前だ。

静観寺山中鹿之助の首塚

当時、鞆には織田信長に都を追われた足利義昭が毛利元就の庇護の下に“鞆幕府”を
置いていたが、そこへ織田信長を後ろ盾に尼子家再興を目指しながら敗れた山中鹿之助
の首が首実験の為に送られて来て葬られたという事らしい。

何しろ一時期出雲一国をほぼ取り戻したものの又もや敗れ、毛利元就の次男吉川元春
に捕らえられた後、腹痛を装って何度も厠に入り、油断した監視の目を逃れて糞まみれ
になりながら脱走したと言われているほどの忠誠心だったそうなので、その忠誠心を感
じた者が葬ったという事だろう。

ところが、こんな忠臣の首塚の直ぐ傍の橋の袂には、今から約1700年前に何とも不謹慎
な連中が出没して居たらしい。 
首塚の説明と並んで書かれている説明を読むと、
「応神天皇(在位:270~310年)の頃、百済からの使節の接待役・武内臣和多利と官妓
 江の浦は、役目を忘れ夜毎この橋で恋を語っている事が噂になり、2人は海に沈めら
 れてしまった。 以来、この橋を“蜜語の橋(ささやきの橋)”と語り継がれている」
のだそうだ。

「何時の時代にも居るもんだな」と思いながらその橋の方へ目をやると、何と僅か1歩で
 渡れるほどの“ささやか橋”だった!
何だか、“はりまや橋”を思い出して、妙に納得してしまった!

尼子氏の興亡と山中鹿之助の運命
尼子晴久の時代には、出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後などの山陰・山陽
八ヶ国の守護となるほどの隆盛を誇ったが、その子義久の代には勢力を増した毛利元就
に居城の月山富田城を攻撃されて1566年に降伏した。

一方降伏に反対した家臣の山中鹿之助等は、織田信長を後ろ盾に尼子一族の尼子勝久
を立てて各地で戦ったが、播磨上月城で遂に敗北して勝久は自害し、尼子氏は滅亡した。
山中鹿之助は、当時織田信長に都を追われた室町幕府最後の将軍・足利義昭が鞆幕府
を置いていた、(現在の福山市鞆町の)毛利軍総師・毛利輝元の本陣へ護送される途中に
備中国・阿井の渡し(岡山県高梁市)で1578年に斬殺された。


平家の女官達の行く末

2010年05月11日 | 歴 史
嘗て、交易や潮待ちの為に多くの船が鞆港に出入りし、大可島の北側の麓には乗組員を
相手にする多くの遊女達が住んでいたのだそうだ。

現在でもそういった元遊郭の建物が何軒か残っており、その内の一つは明治時代末頃に
建てられ、その後旅館(旧対山館)に改造されたが、外観はほぼ当時のまま残っている
そうだ。

新対山館(画像後方が南の大可島)新対山館の西側の露地
露地奥の旧対山館(側面)露地奥の旧対山館(正面)

ところで、瀬戸内海を舞台に源平合戦が繰り広げられていた時代、
 ・1184年2月に“一の谷の合戦”で敗れた平氏は、屋島に逃れたものの、
 ・1185年2月には“屋島の合戦”でも敗れ、
 ・1185年3月に、遂に“壇ノ浦の合戦”で滅亡してしまったのだが、

この最後の、屋島(香川県)から壇の浦(山口県)に逃れる道中は実に悲惨で、足手ま
といになる女官達は鞆の浦で棄てて行かれてしまったという。
生きる手段のない女官達は、最も身分の高い上臈と呼ばれた者すら自ら身体を売って
生きるしかなく、この事から“上臈部屋”が転じて“女郎部屋”という言葉が出来たのだ
そうだ。

嘗て瀬戸内海の各地で栄えた遊郭も、やがて船が強力なエンジンを持つようになると、
潮待ちをする必要が無くなり廃れてしまった。
鞆の“旧対山館”も多分それで旅館業に転進したのであろうが、その後“新対山館”を
建設したものの昨年秋に至って破産してしまい、競売で同じ鞆町のホテル業者に買い
取られてしまう結果となってしまった。

何時の世も、時代に取り残されると悲惨な目に遭わされてしまう。
昨今の日本も、大企業は次々と外国へ進出して国内の産業は空洞化し、それに伴って
政治の世界も混迷を深めている。 時代の波に乗れない我々のような貧乏人は先行き
が心配でならない!


朝鮮通信士が絶賛した “対潮楼”

2010年05月09日 | 歴 史
昨日は、福山市教委主催の地学講座に参加した。 場所は、福山市鞆町の仙酔島だ。

先ずは、講座が始まる前の僅かな時間を利用して、駆け足で対潮楼の見学だ。
対潮楼というのは福禅寺の客殿で、江戸時代に朝鮮通信士の幹部達の宿所として利用さ
れたが、通信士達は「江戸より凄い、日本で最高!」と喜び、嘗て足元まで潮が押し寄せ
ていた事から“対潮楼”と命名して書を残したのが、名前の由来らしい。

南側の県道から見上げた対潮楼対潮楼

さて、その風景だが江戸時代から今も変わっていないそうで、東側には弁天島とその先に
仙酔島が見え、仙酔島へ渡る渡船“いろは丸”も見える。
写真はヘタクソだが、日本一かどうかは別にして、美しい事は間違いない!

対潮楼の南には、大可島(たいがしま)と呼ばれる離れ島に嘗て大可島城が建てられて
いたそうだが、地続きとなった今ではその跡地の北半分に尖った屋根の円福寺が見える
だけで、対潮楼との間には建物が並びお世辞にも“景色が美しい”とは言えない。
しかし、通信士達が見た当時はもっと美しい景色だったに違いない!

〔以下、福山市観光キャンペーン実行委員会作成資料より引用〕
朝鮮通信使
通信士の船は5艘、500人ほどの船団で、迎える我が国では対馬藩が500人ほどで先導
役を務め、福山藩は料理人や給仕人などを1,000人も動員して出迎えたので、狭い鞆の津
に2,000人がひしめき賑わったと言われています。

通信士の宿舎は数多くの寺院ですが、三役などの上官は対潮楼が常宿でした。
鞆港の船着場からの道筋には毛氈やむしろを敷き、5歩毎に竿に大提灯をかけて出迎え
たそうです。

対潮楼
海岸山千手院福禅寺〔平安時代の天暦年間(950年頃)創建〕の本堂に隣接する、江戸
時代の元禄年間(1690年頃)に創建された客殿で書院つくりとなっていて、
「朝鮮通信士遺跡鞆福禅寺境内」として、国の史跡に指定されています。

座敷からの海の眺めは素晴しく、特に1711年の朝鮮通信士・李邦彦は「日東第一形勝
の書を残し、1748年の通信士・洪啓禧は「対潮楼」と名づけました。


バーチャル “三原城”

2010年04月10日 | 歴 史
4月8日の朝日新聞に、
三原観光協会のHPに、3次元CGによる動画“浮城バーチャルウォークスルー”が公開
 されていて、人間の目線で在りし日の三原城内の仮想空間を一周出来る』
『観光振興や歴史教育に役立てる為の産官学連携の企画で、広島県立大学の吉田教授
 が幕末に描かれた絵図を元に作成した』
と紹介していた。

三原城といえば、一昨年の11月に“浮城まつり”を見に行った時に城跡を見て回った事が
あるが、CGで見ると当時の壮大なスケールが実感でき、改めて感動した!

又、このCGで当時の三原城に天守閣が無かった事を初めて知ったが、それにつけても
嘗てのお城の中心を新幹線が東西に轢断している上に、殆どが市街化してしまっている
のが残念でならない。 今残っていると、格好の観光資本になったであろうに!

〔北側から見た天守台跡と三原城絵図〕



福山藩初代藩主の家紋

2010年01月26日 | 歴 史
久し振りに福山城へ登城した。


初代のお殿様は徳川家康の従弟の水野勝成だ。

銅像の顔は優しそうで、家紋はオモダカの葉と可愛い花だ。
ところがこのお殿様、若い時からの乱暴者で初陣の18歳にして首15級を挙げたという剛の者で、戦場での働きにはめざましいものがあったという。
どうも不釣合いな家紋だと思ったが、オモダカやトンボは“勝ち草”や“勝ち虫”と呼ばれ、武士に好まれて家紋に採用する者も多かったらしい。

“オモダカ”の名前の由来は、葉が人の顔に似ていて、しかも柄の高い所へつく事から
“面高”と名付けられたという説があるらしい。
一方の“勝ち草”については、葉の形が鏃に似ている事から名づけられたというが、私
の百姓の経験からは、その旺盛な繁殖力から“雑草の勝ち組”という意味で名づけられ
たように感じる。

(オモダカの葉)


(オモダカの花、左:雌花、右:雄花)



ギックリ腰の新年

2010年01月14日 | 歴 史
昨年末、米搗きに行こうとして30㎏入りの紙袋を持ち上げたところギックリ腰に
なってしまった。 8月以来色々忙しかった為にスッカリ身体が鈍っていたらしい。

今日は少し良くなったので、久し振りに昔の東城道を少し歩いた。
先ずスタートは東城分かれ。 
昔は福山から東城へ向かう幹線道路だったそうだが、それでも幅は7尺しかなく、
村内の道路に至っては幅が3尺しかなかったという。
<>
東城分かれ昔の東城道→現在の東城道

その道路脇には、亀の甲羅の形に似た大岩とお墓がある。
畳が12畳も敷かれるという大岩は“銭亀石”と呼ばれていて、その昔道路拡張の
為に石工がのみを入れたところ、赤子の泣き声がして血が流れ出た為に割るのを
止めたという言い伝えがあり、お墓の方は“相撲取りの墓”という言い伝えがある
そうだ。
銭亀石龍ヶ嶽権太夫の墓

相撲取りの話は兎も角、赤子の泣き声の方は眉唾ものだ。
どうせ私のような横着者が、もっともらしい話をでっち上げて工事をサボったに違
いない!


都賀の尼子陣所跡

2009年04月01日 | 歴 史
先日、川本町ヘイズモコバイモの見学に行く時、JR三江線の石見都賀駅の直ぐ南
から江の川を西に渡るコースを辿ったが、その途中の県道55号線沿いに思いがけ
ないものがあった。

“尼子陣所跡”といい、嘗て一帯の尾根沿いに幾段もの平地が設けられていたという。

説明文によれば、
「天文9年(1540年)6月に月山富田城(現在の安来市広瀬町)を出た尼子詮久は
 10月に入り吉田郡山城(現在の安芸高田市吉田町)の毛利元就を2万の軍で攻
 撃するも守りが堅く長期戦となり、武器食糧の補給が困難になった為に敗退する
 に至った。
 その際、追撃する毛利軍に対して、江の川を渡って退却する尼子軍を援護する為
 に設けられたのがこの尼子陣所で、厳しい冬季の渡河は困難を極め、明けて天文
 10年(1541年)1月に至りようやく渡河を終わり軍をまとめて月山富田城に引きあ
 げたが、この一連の戦いが尼子氏の後日滅亡の原因となったと言われている」
と書かれていた。

この尼子陣所跡は、現在は都賀展望台として人々に親しまれているが、嘗て江の川
を渡って退却する尼子軍を、援護する部隊が見守った場所だ。
その多くは或いは討ち死にしてしまったのかもしれず、退却部隊を見送った兵達の
哀れを感じずには居られなかった!

(江の川に架かる都賀大橋、対岸が退却して行った東方)




謙信死す!

2009年02月23日 | 歴 史
昨夜のNHK大河ドラマ“天地人”、
「上杉謙信は、能登の七尾城を攻略して織田信長と通じていた長続連らを討ち取り、
 更に七尾城の支援に駆けつけていた織田側の柴田勝家が落城を知って退却しよう
 とするところを追撃してこれにも大勝。
 ところが春日山城へ一旦帰還した謙信が、翌年遠征して信長を討ち、足利義昭を
 京に戻そうという大事な段階で急死してしまう」
とマァ、ここ迄が昨夜の設定だ。

この話、遠い越後の話と思いきや、意外にも我が備後と大いにかかわりがある。
その当時、信長に京から追放された征夷大将軍足利義昭が、毛利元就の庇護を
求めて鞆城(現在の福山市鞆町)に入り、“鞆幕府”を興して返り咲きを狙っていて
謙信はその命令を受けて戦っていたのだという。


当時の戦国大名の中には将軍に忠誠を誓い、この上杉謙信の様に信長を倒した後
は足利義昭を京に戻し将軍職に復帰して貰うという考えの者も多かったらしい。
ところが、信長に敵対する最大勢力であった謙信の死だ。 武田信玄に続き強敵の
謙信までもが急死するとは、信長という男よほど運が良かったらしい。

しかし、その信長も運が尽き明智光秀に暗殺されてしまった。
一説には、それまでの時代には大名達が“自分の領地を一所懸命に守る”という考
えであったものを、それを根底から否定し、
「領地は飽くまで将軍のもので、大名はただ預かっているだけで成績が悪ければ
 没収する」
という、大名達にとっては天地がひっくり返るような構想を持っていたという。

例えば、1582年の信長の西国大名配置構想では明智光秀(近江坂本城主)などは
その構想から外されていたというほどだから西国大名達が心穏やかであった筈も無
く、義昭を立てて戦ったり、或いは光秀のように謀反を起こす者が出て来ても不思
議ではなかったらしい。

信長の考えは飽くまでも能力主義だったらしくて抵抗も激しかったが、その後の
秀吉・家康の時代にはその仕組みが定着してしまったという。
現代も能力主義とやらがあまねく行き渡り、能力の無い者はホームレスになる世の
中になってしまった。 何時の時代も特に下々の者は生きて行く事さえ難しいとい
う事か?

嘗て生死をかけて戦った戦国大名達の辞世も興味深い!
信玄:「大ていは 地に任せて 肌骨好し 紅粉を塗らず 自ら風流
謙信:「極楽も 地獄も先は 有明の 月の心に 懸かる雲なし
信長:「是非に及ばず」と最後に言い放ったのみで光秀と戦う。
秀吉:「露と落ち 露と消えにし 我が身かな 浪速のことは 夢のまた夢

足利義昭が征夷大将軍に就任した後の動き
1568年、織田信長に担がれて室町幕府第15代征夷大将軍となった足利義昭、信長の
    傀儡である事に不満を募らせ、
1571年、上杉謙信・毛利輝元・本願寺顕如・武田信玄・六角義賢・朝倉義景・浅井
    長政・松永久秀・三好義継らを糾合し信長に戦いを挑んだが、
1572年、信長打倒を目指して三方ヶ原で織田側の徳川家康を破った武田信玄は、翌年
    西上中に急死してしまい、
1573年、足利義昭は京に攻め上った信長に敗れ、朝倉・浅井氏も滅亡し、京を追放
    された義昭は各地を転々と移った後、
1576年、毛利元就に信長との開戦を求めて備後の鞆城に入り幕府再興を図った。
    しかし、
1577年、信長に敵対する最大勢力であった謙信は能登で織田方の勝家に大勝したが、
1578年、急死(享年49歳)。  更に、
1580年、本願寺顕如も降伏。
1582年、明智光秀の謀反により信長自刃。羽柴秀吉は交戦中の毛利輝元(元就の孫)
    と講和し京で光秀を討つ。義昭は津之郷(現在の福山市津之郷町)へ移る。
1583年、毛利輝元は羽柴秀吉に臣従。
1586年、羽柴秀吉が関白太政大臣となる。
1588年、薩摩の島津義弘が秀吉の軍門に下り、遂に義昭は将軍職を辞し出家。
1597年、義昭、大阪で死去(享年61歳)