里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

夜釣り

2005年09月28日 | 釣 り
又、夜釣りを再開しようと言う事になり、数年ぶりに若い友人とメバル夜釣りのリ
ハーサルに出かける事になった。
何しろ日中でも針を結ぶのが億劫になってからは、専ら昼の船釣り専門だったので
メバルの本格的なシーズン入りを前にリハーサルと言う段取りになったのだ。
日取りは決まったものの、釣り道具を探し出したり、買い足したり大慌てで準備し
たが、結構久し振りに少し胸が踊った。

さて、その当日せっかちな友人がかなり逸っているらしく、約束の時間より30分
も早く迎えに来てくれた。
餌を買うのもそこそこに道中で昔話に興じたが、良かったのはそこまででいざ始め
て見ると、案の定仕掛けはもつれるやら針を結ぼうとしても難儀するやらの大苦戦
であった。
おまけに予定通りとは言え、時期が早い上に潮も小さく、唐揚げ級が10匹程度の
貧果とあっては帰りの車中も湿りがちであった。

次回の本番を約束して別れたが、さて2人共リターンマッチの元気ありや…?


23号台風の後始末

2005年09月24日 | 天変地異
昨年の23号台風で山の頂上の松はほぼ全滅し、東北斜面の桧もかなり倒れてし
まった。
止むを得ず、舅、その友人で森林組合のOB、私、家内の4人で後始末をした。

松は1.9mの長さに玉切して麓に運び出し、桧は3メートルの長さに玉切してそ
のまま山に積んで置く事にした。
なにしろ出荷しても運賃も出ないと言うのだ。
残念ながら松はパルプ用に引き取って貰い、桧は柱用(自家用)に使える物だけ
残す事にした。

作業は4人で6日かかり、収入はパルプ材の約7万円だけ。
殆ど家族だけでやってもこれだけである。
私は、残った木が山小屋に倒れないようにする為と、将来松茸を生やす為に採算
を度外視してやったので、余り苦にならなかったけれど、大部分の人達は倒れた
ままで放ったらかしにしているそうだ。

TVで放送していたが、「折角育てた桧がもったいない」と、一人で1日十数本ず
つ切り出しているが、柱用の3m材で1本460円程度にしかならず、
「大根より安い」と嘆いていた。
30年近くかかって育てた木が、一夜にして大根に変わるとは悲劇である。

温暖化のせいで大型台風が日本に接近しているのであれば、これから日本の森
林は壊滅的な打撃を受ける事になるが、そうならないように祈るしかない。
私も松茸が生えて来るまで、後30年程長生きせねばなるまい。

NHK山野草講座「魚切渓谷のボタンズル」

2005年09月18日 | 野外講座
今月の例会は、旧豊松村の魚切り渓谷。

稲刈りをしている人達の怪訝な視線を背に、少し後ろめたさを感じながら渓谷に
入ると早速お目当てのボタンズルに出会った。
クレマチスの仲間だと言うのに白花は注意しなければ見逃す程の大きさ(約2㎝)
で、派手なカワラナデシコに比べるといかにも地味であったが、初めて見るだけ
に珍しく感じた。

 

更に進むと、ツルニンジン、アキノキリンソウ、アキチョウジ、ヤマハッカ、キバナ
アキギリ、ミヤコグサ、ツリフネソウ、ナンテンハギ、ヌスビトハギ、マツカゼソウ…
等予想以上に多くの山野草が自生しており、皆を楽しませてくれた。

山野草は、どこへ行っても下刈りをしている道路脇だけででかろうじて生き延びて
いる状態だが、それでもこれだけ多くの人が感動するのである。
せめて私の山だけでも、昔のように山裾の雑木を下刈りして、もう少し生活できる
領域を広くし、多くの山野草を残して行こうと改めて強く感じた。




吉備真備

2005年09月11日 | 歴 史
矢掛町の東の端に「吉備大臣宮」と言う看板があり、かねてから気にかかっていた
ので今日初めて寄って見た。

すると、手が届くほど小さな鳥居にこじんまりとした社があり、その傍に不釣合い
な大きさの巨人の銅像が立っていた。
家にも入れず外でしょんぼり立っている6mを超す巨人は吉備真備で、社は彼を
祭っている神社だったのだ。

 

碑文には、
この地で695年に下道国勝(しもつみちと読むらしい)の長男として生まれ、
唐へ最初は留学生として、次は遣唐使副使として2度にわたり渡航。
才能を買われ時の玄宗皇帝から引き止められたが、735年に帰国。
その後、新暦や律令を定めたり、カタカナの制定をするなど数々の業績により、
正2位右大臣まで昇進し、帝から備中国下道郡の領地と吉備姓を貰ったと書かれて
いた。

当時の中国は世界の最先端を走っており、日本としては学ぶ事が多く、それを持ち
帰っただけで出世したのではないかと下種の勘繰りをしたくなるが、やはり2度に
わたり選ばれたからには相当な才能があったのであろう。
それにしても40歳になる迄海外出張とは!
その間妻子はどうしていたのかは分からないが、現代なら即離婚ものだし、幾ら中
央のキャリアー官僚として出世できるとは言え、海路命がけで渡航するからには家
族の反対も相当大きかったと思われるが、真相はどうであったのだろう。
国家の命令で嫌々ながら仕方なく行ったのか、それとも国家建設の礎にと使命感に
燃えて行ったのか、彼に聞いて見たい気がする。

もう一つ意外な物があった。「囲碁発祥の地」と書かれた大きな石碑と石の碁盤で
ある。 囲碁を彼が中国から伝えたとは全く知らなかった。
先人達が苦労の末に残した多くの物のほんの一部を垣間見た気がした。