里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

原発事故に伴うセシウムの蓄積

2011年11月27日 | その他
文科省はH23年11月25日に、福島第一原発事故で飛散した放射性セシウムについて、土壌への蓄積量を航空機で測定した結果を汚染マップとしてを公表した。

この結果から、
「放射性セシウムは、奥羽山脈、飯豊山脈、越後山脈、下野山地、関東山地に沿って流され、北は宮城県と岩手県の県境、西は群馬県と長野県の県境に至る広範囲に蓄積したと考えられる」
のだそうだ。


※汚染マップ等のデータは文科省のHPから引用

又、自治体の観測所にある容器に溜まったチリを測定した3月~6月(4か月分)のセシウムの積算値も公表されたが、原発事故前には殆ど検出されなかったセシウムが事故後には沖縄県を含む45都道府県で検出され、放射性セシウムが日本全国に降り注いだ事が裏付けられたので、今後西日本の汚染マップも作成するのだそうだ。
セシウム134 セシウム137 の月間降下物の積算値、単位:Bq/平方メートル〕
都道府県
測定地
積算値
都道府県
測定地
積算値
北海道札幌市
17.14
京都府京都市
15.18
青森県青森市
138.27
大阪府大阪市
18.91
岩手県盛岡市
2992.10
兵庫県神戸市
17.41
秋田県秋田市
348.48
奈良県奈良市
14.21
山形県山形市
22570.00
和歌山県和歌山市
19.88
茨城県ひたちなか市
40801.00
鳥取県東伯郡
21.07
栃木県宇都宮市
14600.00
島根県松江市
10.25
群馬県前橋市
10362.00
岡山県岡山市
9.04
埼玉県さいたま市
12515.00
広島県広島市
8.40
千葉県市原市
10141.00
山口県山口市
4.90
東京都新宿区
17354.00
徳島県名西郡
16.83
神奈川県茅ヶ崎市
7792.00
香川県高松市
11.25
新潟県新潟市
91.50
愛媛県松山市
13.49
富山県射水市
32.56
高知県高知市
73.25
石川県金沢市
26.70
福岡県太宰府市
1.69
福井県福井市
63.61
佐賀県佐賀市
1.41
山梨県甲府市
413.20
長崎県大村市
3.19
長野県長野市
2496.40
熊本県宇土市
0.38
岐阜県各務原市
29.19
大分県大分市
2.34
静岡県静岡市
1292.70
宮崎県宮崎市
10.42
愛知県名古屋市
18.08
鹿児島県鹿児島市
1.53
三重県四日市市
53.20
沖縄県うるま市
9.11
滋賀県大津市
13.68

とは言え、こんな数値を見せられてもどんな危険性があるのかサッパリわからない!
Wikipedia によれば、
「セシウム137は体内に入ると筋肉に蓄積し、体外に排出されるまでの100~200日間
 にわたって放射線を放出して体内被曝の原因になる為に大変危険である。
 経口で1万Bqを摂取した時の実効線量は0.13ミリSvとされ、1 mの距離に100万Bq
 の線源があった場合、ガンマ線によって1日に1.9マイクロSvの外部被曝を受ける」
のだそうだが、文科省は単にデータを発表するだけではなく、想定される危険性についても、もっと国民に知らせるべきだ!

被曝線量と人体に与える影響〕…Wikipedia などから引用
被曝線量、mSv
人体への影響
被曝の限度量など
7,000~10,000
死 亡
1,000
悪心・嘔吐
500
末梢血中のリンパ球の減少
100
これ以下では健康被害無し放射線業務従事者の緊急作業時の限度量(1回当たり)
50
放射線業務従事者の限度量(年間)
6.9
胸部X線CT(1回当たり)
2.4
自然に浴びる量(年間の世界平均)
1.0
一般の人の年間限度量(医療と自然由来は除く)
0.6
胃のX線集団検診(1回当たり)
0.05
胸のX線集団検診(1回当たり)



ムラサキミミカキグサの実生、開花

2011年11月19日 | 山野草の繁殖
ヤフオクでムラサキミミカキグサ の種を買い、実生を試みたがどうやら開花したらしい?
H23.4.22、種を購入。

種は非常に小さく、まるで微塵だ。
H23.4.22、播種。

6号鉢へミズゴケを入れ、鉢ごと腰水にした状態で種を振りかけた。
種が小さい為に、如雨露で水をかけると流れてしまうので、以後も腰水で管理するのだそうだ。
H23.9.21、発芽。

何時の間にか小さな葉がたくさん出ていたが、どうやら発芽したらしい?
未だ葉の長さは5~8mmしかない。
本来なら8月頃に花が咲くらしいのだが、果たして花を見る事が出来るのか、ちょっと心細い。
H23.11.19、開花?

草丈は約3cmで、小さな花らしきものをつけていたが、色は紫色ではない。
どうやら花が終わった後らしい。

よく見ると、紫色の花をつけているものがあった。
草丈は1cm足らずで、図鑑に載っていた10cmにはほど遠く、どうも成長が悪かったらしい?
花は虫眼鏡が必要なほど小さく、道理で花が咲いているのに気が付かなかった筈だ!

ムラサキミミカキグサ、紫耳掻き草(タヌキモ科、タヌキモ属)
全国の湿原に自生する多年草で、地下茎についた捕虫嚢でプランクトンを捕食する。
泥中に細い地下茎があり、その節から根と3~8mmのヘラ形の葉が伸びる。
花期は8~9月で、高さ10cm程度の花茎を伸ばし、その先に径が4mm位の淡紫色の
花を1~4個つける。
〔名前の由来〕
花の色が紫色で花後に残った果実の形が耳掻きに似ているので“ムラサキミミカキグサ
と名づけられた。


シコクフクリンササユリの移植

2011年11月17日 | 庭の山野草
H23.11.17、移植。

播種したついでに親の3株も移植する事にし、
フラボンの山野草と高山植物の世界
を参考にして、赤玉土:鹿沼土=60:40に
腐葉土を3割混ぜた用土へ寄せ植えした。

〔球根の鉢植え栽培法〕…フラボンの山野草と高山植物の世界から引用
(1)時期
   毎年10月に行う。
(2)用土と植付け方
   赤玉土などの土に腐葉土を3~4割混合したものを用いる。
   植付間隔は3球分とし、4寸鉢で1球、4寸5分鉢で2球、5寸鉢で3球が目安。
   植付けの深さは球根の高さの3倍程度とし、植付け後は十分な灌水を行う。
(3)その後の管理
   通風のよい明るい日陰に置き、表面がやや乾いたらたっぷり灌水する。
   施肥は、10月の植え替え時に4号鉢で2g程度の元肥を与え、
   追肥として2月、4月、6月、8月に油粕の置肥を与えるか、
         2~9月の毎月に標準濃度の液肥を与える。


シコクフクリンササユリの実生

2011年11月17日 | 山野草の繁殖
H23.11.17、播種。

鉢植え3株の実が熟してきたので、
フラボンの山野草と高山植物の世界
の実生法を参考にして、
赤玉土:鹿沼土=60:40へ播種した。

〔実生栽培法〕…フラボンの山野草と高山植物の世界から引用
(1)採種
   10~11月に果実が成熟し黄変して来るが、裂開して飛散する前に採種し風乾する。
(2)播種
   細かめの赤玉土などに採り播きし、1cm程度覆土する。
(3)その後の管理
   絶対に乾燥させないように管理する。
   翌年の10月から1%程度の砂糖を混ぜた、標準濃度より2倍以上薄めた液肥を
   お神酒と思ってあげる。
   2年目の春に1枚の根生葉が出て来るので、9月まで毎月お神酒をあげ、
   10月には通常の用土に植え替える。
   3年目以後は地上茎を出すようになるので、以後は通常の管理をする。


生垣の植え替え

2011年11月10日 | 花 木
家や塀の塗装をするのに併せて、生垣もアラカシからラカンマキに植え替える事にした。
アラカシは成長が早く、根が家や塀を壊してしまう恐れがあるので植え替える事にしたの
だが、新たに植えたラカンマキは背丈が低い上に成長が遅いらしい。
当分の間、道路から丸見えでプライバシーが保てそうにない!
植え替え前のアラカシラカンマキに植え替え後

ラカンマキ、羅漢槙(マキ科、マキ属)
中国原産で、九州より南の暖かい地方に自生しているイヌマキの変種。 
イヌマキより全体に小型で、樹高は8~10m。 雌雄異株。 花期は5月。
庭木に仕立てたり、刈り込みにも耐えられる事から生垣にも仕立てられる。
樹形は完成すると美しいが、成長が遅いのでかなりの年月が必要である。



井伊家墓所と松陰神社

2011年11月09日 | 神 仏
豪徳寺の井伊家墓所の次に松陰神社を訪れた。

先ず、菩提寺の豪徳寺境内にある井伊家墓所を訪れた。

江戸で亡くなった藩主や家族を葬ってある場所だ。
参道正面の奥まった所には2代藩主井伊直孝の墓があり、
そこから左に折れて奥まった所へは13代藩主の井伊直弼の墓がある。
真ん中の墓が井伊直孝の墓だ。

父から引き継いだ彦根藩が一代で18万石から35万石に加増されるなど、譜代大名筆頭の家柄となる礎を築いた人物だ。
これが井伊直弼の墓だ。

老中阿部正弘の死後に大老となり、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍後継者としては徳川家茂を後援して、これらの諸策に反対する尊皇攘夷派や一橋派を弾圧する為に安政の大獄を行い、桜田門外の変で暗殺された人物だ。
次に松陰神社を訪れた。
安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町で30才の若さで刑死した吉田松陰を祀ってある神社で、刑死4年後の文久3年(1863年)に門下生であった高杉晋作・伊藤博文などによってこの地に改葬され、明治15年(1882年)に門下生達により墓のそばに社が築かれた。
安政の大獄を行った井伊直弼の墓の直ぐ近くに、殺された松陰の神社があるとは驚いた!
左が社務所で正面が社殿だ。
これが社殿だ。
社殿の右側には、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建屋がある。

嘗てこの塾で松陰の教えを受けた久坂玄瑞・高杉晋作・木戸孝允・山縣有朋・品川弥二郎・伊藤博文などの、やがて明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出した。

阿部正弘といえば備後福山藩の藩主だ。
井伊直弼共々、幕末の動乱期に老中のトップを務める為にかさむ経費で国許を疲弊させながら開国を進め、挙句の果てに阿部正弘は37才で若死にし、井伊直弼に至っては暗殺されてしまった!
一方の尊王攘夷派は、当初は開国に反対して多くの犠牲者を出したものの、倒幕後は結局開国に踏み切った。

昨今のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加も国論を2分する論議を呼んでいるが、これも嘗て起きた開国論議によく似ている。
まさか殺しあう事は起きないだろうが、何時まで経っても結論が出そうにない?


豪徳寺の招き猫

2011年11月08日 | 神 仏

豪徳寺の前身は世田谷城主吉良政忠が建立した弘徳院で、寛永10年(1633年)に世田谷20ヵ村が彦根藩主井伊直孝に加増された後に井伊家の菩提寺となり、直孝の死後その院号「久昌院殿豪徳天英居士」に因んで寺の名前を豪徳寺と改めた。
因みに、上町駅の南東には彦根藩の代官屋敷があるが、代官の大場氏は元は吉良氏の家臣で初代以来廃藩置県まで世襲で代官を務めた。
松並木を見ながら参道を進むと、正面に山門がある。
その先にある仏殿をはじめ、井伊直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝わっている。
その更に奥には本殿があるが、昭和42年に建てられた鉄筋コンクリート造りの新しいものだ。

面白いのは井伊家の菩提寺となったいきさつだ。
鷹狩の帰りに通りかかった直孝が寺の飼い猫が手招きをした為に一休みし、寺の住職からお茶の接待を受けている間に雷雨になった事から、ずぶ濡れにならずに済んだと大いに喜び、これが縁で菩提寺にしたそうだ。
仏殿の左側には招猫堂の山門がある。

吉良家が滅亡して以来貧乏暮らしをしていたお寺が、飼い猫のおかげで一夜にして裕福になったものだから、住職は猫が死ぬと墓を建てて手厚く葬り、その後招猫堂を建てたという。
豪徳寺では招猫堂に招猫観音を祀ってある。
猫は“招福猫児、まねぎねこ”と呼ばれ、招猫観音の眷属とされている。
招猫堂の横にはたくさんの絵馬が掲げられており、
願がかなったお礼に多くの招福猫児が奉納されている。
仏殿の左手前には2006年に完成した三重塔がある。

ボランテイアガイドの話では、塔の建設にあたって檀家の寄付は少額で済んだそうだ。
何しろ豪徳寺は裕福で、広大な境内の周りの多くも寺有地で相当な額の地代が入るのだそうだ。
正に猫様々で、我が家に始終出入りする近所の猫に見習って欲しいものだ!
三重塔の2層目の軒下には招福猫児観音像の周りに子猫達が配置されている。
ボランテイアガイドの話では、その内の1匹は直孝公を手招きしたタマちゃんだそうだ。

豪徳寺…wikipedia より引用
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院の為に
弘徳院」と称する庵を結んだ。
当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

井伊家…wikipedia より引用
戦国時代は今川氏の配下にあったが、今川氏の滅亡後の天正3年(1575年)に井伊直政が徳川家康の配下となり多くの武功を立てた。
天正18年(1590年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられた。
直政の死後、直政の子の井伊直勝は慶長9年(1604年)に近江国彦根に移り築城し、
1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲ったが、直孝の代には35万石の譜代大名となる。
江戸時代の彦根藩家は、直澄直該直幸直亮直弼と5代にわたって大老職を出すなど譜代大名筆頭の家柄となったが、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中で彦根藩家は1度の転封もなかった。

江戸時代後期に直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。
直弼の死後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を没収された事から、大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向し、以後は新政府側に属して転戦し、明治17年(1884年)には伯爵となり華族に列した。


世田谷の鷺草伝説

2011年11月07日 | 歴 史
世田谷区の道路の排水桝には、サギソウが描かれているが、世田谷に残る
鷺草伝説”から区の花に指定されているらしい。
そこで、予てから気にかかっていた東急世田谷線沿いの“鷺草伝説”にまつわる地を訪ねてみた。


先ず訪れたのは、世田谷城址周辺だ。

嘗ての世田谷城は、武蔵野台地の一角の南東に張り出した舌状台地先端に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る地形で、現在の豪徳寺付近に本丸を置き世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているらしい。

豊臣氏勢に接収されて廃城となった後に、多くの石材は江戸城改修に利用されたらしいが、
今は嘗ての世田谷城南東端の郭を中心とした一画のみが城址公園として整備され、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀や一段高くそびえる郭が残されている。

(公園の平面図は左下の通り)

吉良氏は、成高の代に世田谷城を構えて同地に土着し、子の頼康は北条氏綱の娘と結婚して北条氏の傘下に入ったが、天正18年(1590年)に豊臣氏の小田原攻略により世田谷城も廃城となった。
“サギソウ伝説”に登場するのがこの頼康だが、親の苦労を知らずわがままで、戦国時代を生き抜く器量がなかったらしい?
次に世田谷八幡宮を訪れた。

源義家が奥州の内乱を取り鎮めた頃に記念に建てたと伝えられる神社で、
吉良頼康が天文15年(1546年)に社殿を再興し吉良家の祈願所としたが、世田谷城西方の守りを固める為の出城としての機能を合わせ持っていたとも言われている。

社殿は文化10年(1813年)の建築で、現在の社殿の中に収めてあり、
 ・応神天皇
 ・仲哀天皇
 ・神宮皇后
が祀られている。
源義家の時代から行われている奉納相撲が有名だそうだ。
最後に豪徳寺を訪れた。

豪徳寺は、一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、
隣接する吉良家の菩提寺である勝光院内には、吉良一族の墓があるそうだ。

今回は時間がなかったので、東急大井町線の九品仏駅周辺の、一方の主役が住んだ奥沢城(吉良頼康により築かれ家臣の大平氏が守った城)やサギソウ園がある九品仏浄真寺を訪れる事が出来なかったが、次回に改めて訪れる事にした。

鷺草伝説
 戦国時代の世田谷城主吉良頼康は色好みで12人もの側室を置いていたが、
 九品仏城主大平出羽守の娘常盤姫を見染めた。
 姫はいやおう無く差し出される事になり、可愛がっていた白鷺と一緒に城にのぼ
 る事になった。
 所が、寵愛を受ける姫を妬んだ側室達が
 「出羽守殿(姫の父親)が謀反をたくらんでおり、常盤殿は城の秘密を白鷺を使
  って知らせている」
 と、あらぬ噂を流した。
 この噂を信じた城主は直ちに常盤姫と白鷺を追放したが 常盤姫はこの時身重で
 実家へ帰るに帰れず、白鷺に遺書を託し自害してしまい、
 白鷺は九品仏を目指したが、途中で鷹狩りに出会い殺されて多摩川の川原に落ち
 て死んでしまった。
 いつの頃からか、その川原一帯に白鷺に似た花が咲き乱れるようになり、人々は
 “鷺草”と呼ぶようになった。

孫の “新体操発表会”

2011年11月06日 | 家族・友人
東京に住む娘から 「娘の新体操発表会を見に来て」 と誘われたので家内と一緒に
行って来た。
孫は幼稚園の年中組で、始めて4か月にしかならないが一生懸命に演技しており、
爺婆はスッカリ嬉しくなってしまった!

さすがに上級生達は演技に切れがあり感心させられたが、さてここまで来るには、
月謝の他に発表会ごとに自前で衣装をつくり参加費も必要なのだそうだ。
孫は、この他にもバレーやピアノも習っていて、これから発表会が目白押しらしい。
爺婆としては、孫は見たいがご祝儀が大変だ!



世田谷の “農業感謝まつり”

2011年11月06日 | 野 菜
東京に住む娘の近くの農協で“農業感謝まつり”をやっていたので行ってみた。

会場内では、踊りなどのアトラクションの他に食べ物の屋台もあり、農産物の加工品や
野菜も売られていたが、特に生鮮野菜は田舎並の値段なので多くの人達が買い求め
ていた!

農協の周りを歩いてみると、至る所へ高層マンションが建っていたが、その間には畑
が点在しており野菜を直売している所もあった。
東京では23区の内で外縁部の10区に農地があり、この世田谷区では昨年に382戸
の農家が112haの農地で主に野菜を生産したのだそうだ。
23区内でも田舎のように農家が生産をしていて、農業祭までやっているとは全く知ら
なかった!

〔世田谷区の農地面積と農家戸数の変遷〕


〔種類別作付面積〕