里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

野呂往還を歩く (1)

2011年12月12日 | 歴 史
備陽史探訪の会」が、新市町柏に通じる山道“野呂往還”を数回に分けて踏破する計画で、第1回目の戸手駅から柏城跡まで歩く参加者を募集していた。

以前に「その昔、藤尾の鉱山から戸手に至る“野呂往還”という銀を運ぶルートがあった」と聞いて探索した事があったが、その時には肝心な所がイマイチ分からなかったので、渡りに船で参加した。
〔今回歩いたコース〕
1.戸手駅
2.信岡家住宅
3.大佐山白塚古墳
4.柏の牛地蔵道標
5.柏北観音道標
6.蛇切峠(じゃきりとうげ)
7.柏観音寺
8.観音山城跡
9.甲山城跡
10.村境の道標
11.大坊福盛寺(だいぼう ふくじょうじ)
12.仁王門
1.JR福塩線・戸手駅前に集合。
野呂というのは、山の尾根のなだらかな所
 を指し、往還は主要な道路を指す。
 今回歩く野呂往還は、神石郡坂瀬川から
 新市町戸手までの尾根道で、昭和30年代
 まで使われていた。 今は途中が不明や不
 通になった場所もあるが、周辺の遺跡など
 を見ながら、何回かに分けて走破する』
という事であった。  何だか面白そうだ!
2.信岡家住宅
先ず最初に、戸手駅北西のすぐ近くにある信岡家住宅を訪ねた。

家は、代々品治(ほんち)郡戸手村の庄屋で、現存する主家など8件が国の登録有形文化財として指定されている。

江戸時代後期の庄屋信岡平六(名は祐義)は、自費で戸手用水を造ったり、千田村庄屋河相周兵衛の呼びかけに応じて銀50貫を拠出して福符義倉の設立に参加し、飢饉に喘ぐ農民を救済したという。
上戸手の艮神社境内には、信岡平六の頌徳碑が建てられている。
3.大佐山白塚古墳
戸手川沿いに北上し、大佐池の手前で右折。
約800m進むと古墳に上がる階段に到着する。

古墳群は大佐山(標高:188m)の山頂より僅かに南に下がった場所で、一番高い所へ1号墳があり、その下方に更に6基がある。
7世紀前半の古墳時代終末期に築造されたと考えられているが、その時代の古墳は1基だけのものが多く、複数あるのは珍しいのだそうだ。
画像中央上部は古墳群の中で最大の1号墳で、右端中央に白く見えているのは2号墳。
1号墳は大佐山白塚古墳と呼ばれ、1辺が12m、高さが4mの方墳で、内部主体は巨大な花崗岩の切石を用いた奥行7.8m、幅1.8m、高さ2.3mの横穴式石室で、石室中央に間仕切があり二室に分れているのが特徴。

白塚という事から嘗ては壁面に漆喰を塗っていたと考えられているが、現在では石と石との隙間に痕跡が見られる程度。

古墳群はいずれも南向きに開口していて、眼下には嘗て支配していたであろう芦田川沿いの平野が見える。
被葬者としては、中央の王族や官人を当てる説もあるが、地元の有力豪族達とも考えられている。
4.柏の牛地蔵道標
野呂往還と言うのは、駅家町新山の野呂地区を通る事からその名がついたそうで、野呂地区へは帰りに寄る事にして柏集落の方向へ更に北上した。

お地蔵さんの台座には、
 東 ふくやま
 西 一宮
 南 とて(とで)
と書いてあるそうで、この左右(東西)の細い道路が嘗ての野呂往還だったらしい?
5.柏北観音道標
柏集落へ入る直前で左折すると、その先の峠の頂上に観音堂があり、そのお地蔵さんには、
 東 福寺
 西 一宮
と書かれているそうで、先ほどの牛地蔵道標の所から一宮方面へ進み、ここに出て白線のように直進するのがどうやら野呂往還らしい?
6.蛇切峠(じゃきりとうげ)
緩やかな峠を上ると道路わきに、
蛇切七五三帳之古跡
と刻まれた石碑が立っていた。

七五三」というのは、しめ縄の別名だが、昔、厄や禍を祓う結界として張っていたらしい?
先ほどの柏北観音堂脇の説明板には、
「蛇円山に住んでいた大蛇がこの峠を通って府中の七つ池の大蛇に会いに行く途中よく人間を飲み込んでいたので、この峠で大蛇を待ち伏せて退治し、爾来蛇切峠と呼ばれている」
と書かれていた。
「その後、七つ池の大蛇が怒って仕返しに人を飲み込むなどの悪事を働いたので、近くの青目寺の住職が人形に爆薬を仕掛けておいて、それを食べさせて大蛇を退治した。 七つ池には、大蛇が苦しんで草木をなぎ倒した蛇すりと呼ばれる場所があり、青目寺には今でも大蛇の頭骨が寺宝として残されている」
という話もあるそうだ。
7.柏観音寺
大坊福盛寺の奥の院だそうで、千手観音が祀られていた。
8.観音山城跡
柏北観音堂脇の説明板によれば、
「中世(鎌倉時代・室町時代)に、観音寺山を中心に付近の山々に築かれた、国内でも有数の大規模な山城群の城跡を柏城跡と呼ぶ。
柏村一帯は、現在の新市地域を中心に備後南部に勢力を持っていた宮下野守(宮氏惣領筋の一つ)の本拠地であると共に、中世の街道の関所として機能していたと考えられる。 それ故に柏城を舞台に何度も合戦が行われた」  
という。
観音寺山の山頂の宝篋印塔
応仁の乱が備後地方へも拡大し、宮氏などの国人衆は西軍方につき、東軍方の山名是豊(備後・安芸守護職)に反抗して1471年から足かけ3年に及んで戦ったが敗北。 その後、復活してこの石塔を供養の為に建立したと考えられている。
その後は、1521年に南下して来た尼子氏を迎え討つなどするも、1541年には尼子方につき、惣領家は遂に滅びてしまった。
9.甲山城跡
観音寺山の山頂から尾根伝いの東北には、山城群の一つである甲山城跡が見える。
行って見たが、木が茂っていて何も見る事が出来なかった。
尾根上には6ヵ所の郭が連続して築かれているそうだ。
10.村境の道標
柏の牛地蔵道標の所まで引き返し、そこから左折して東にある大坊福盛寺に向かう。
これが野呂往還だと言う事であったが、直ぐに舗装道路になってしまい野呂往還かどうか分からなくなってしまった。
この道標はその途中の峠の頂上にあり、昔の下安井村(西)と新山村(東)の村境だ。
11.大坊福盛寺
本尊は千手観世音菩薩。
大坊(大きな僧坊)という名前がついているだけに、大同元年(806年)に日大上人が天台宗として開基した当時は、境内に12の小寺院を有する名実共に備後の名刹だったそうだ。
後に、覚ばん上人の時に高野山直結の真言宗となり、皇室の祈願寺ともなって隆盛を極めたというが、現在は本坊が残っているのみ。
裏山の宝篋印塔
裏山の山頂はお椀状に窪んでいて、その中央に宝篋印塔があり、鬼の釜という木札が立てかけてあったが、その由来については?
大坊南の集落
境内から南に集落が見えるが、これが野呂往還の名前の由来の野呂集落らしい。
12.仁王門
福盛寺より約800m下った所にある仁王門で、ここが福盛寺の入口だとすると大坊と称するのもハッタリではないらしい。 それにしても、
「本尊の千手観音が、仏法弘通の為に天竺から岩の船に乗って、穴の海(現在の神辺、府中平野)を経て、服部大池の西の刈山に着いた。岩船はいまに残っている」
という伝承もあるそうだが、こちらは眉唾だ。

と言った具合に約10kmを歩いたが、色々な遺跡や、お寺に伝わる大蛇の頭骨や仏がインドから乗ってきた岩船などの怪しげな話を楽しませて貰った。
それにしても、肝心な野呂往還についてはその一部しか解明できなかったのが少し残念だ。  次回から、柏集落から更に北に向かって歩くらしい。 今から楽しみだ!


世田谷の鷺草伝説

2011年11月07日 | 歴 史
世田谷区の道路の排水桝には、サギソウが描かれているが、世田谷に残る
鷺草伝説”から区の花に指定されているらしい。
そこで、予てから気にかかっていた東急世田谷線沿いの“鷺草伝説”にまつわる地を訪ねてみた。


先ず訪れたのは、世田谷城址周辺だ。

嘗ての世田谷城は、武蔵野台地の一角の南東に張り出した舌状台地先端に立地し、西・南・東の三面に烏山川が蛇行し、北には小支谷が入る地形で、現在の豪徳寺付近に本丸を置き世田谷城址公園付近まで城域が拡がっていたものと考えられているらしい。

豊臣氏勢に接収されて廃城となった後に、多くの石材は江戸城改修に利用されたらしいが、
今は嘗ての世田谷城南東端の郭を中心とした一画のみが城址公園として整備され、南北方向に延びる細長い土塁とその間を隔てる堀や一段高くそびえる郭が残されている。

(公園の平面図は左下の通り)

吉良氏は、成高の代に世田谷城を構えて同地に土着し、子の頼康は北条氏綱の娘と結婚して北条氏の傘下に入ったが、天正18年(1590年)に豊臣氏の小田原攻略により世田谷城も廃城となった。
“サギソウ伝説”に登場するのがこの頼康だが、親の苦労を知らずわがままで、戦国時代を生き抜く器量がなかったらしい?
次に世田谷八幡宮を訪れた。

源義家が奥州の内乱を取り鎮めた頃に記念に建てたと伝えられる神社で、
吉良頼康が天文15年(1546年)に社殿を再興し吉良家の祈願所としたが、世田谷城西方の守りを固める為の出城としての機能を合わせ持っていたとも言われている。

社殿は文化10年(1813年)の建築で、現在の社殿の中に収めてあり、
 ・応神天皇
 ・仲哀天皇
 ・神宮皇后
が祀られている。
源義家の時代から行われている奉納相撲が有名だそうだ。
最後に豪徳寺を訪れた。

豪徳寺は、一族の吉良政忠が世田谷城内に叔母を弔うため創建した弘徳院が前身であり、
隣接する吉良家の菩提寺である勝光院内には、吉良一族の墓があるそうだ。

今回は時間がなかったので、東急大井町線の九品仏駅周辺の、一方の主役が住んだ奥沢城(吉良頼康により築かれ家臣の大平氏が守った城)やサギソウ園がある九品仏浄真寺を訪れる事が出来なかったが、次回に改めて訪れる事にした。

鷺草伝説
 戦国時代の世田谷城主吉良頼康は色好みで12人もの側室を置いていたが、
 九品仏城主大平出羽守の娘常盤姫を見染めた。
 姫はいやおう無く差し出される事になり、可愛がっていた白鷺と一緒に城にのぼ
 る事になった。
 所が、寵愛を受ける姫を妬んだ側室達が
 「出羽守殿(姫の父親)が謀反をたくらんでおり、常盤殿は城の秘密を白鷺を使
  って知らせている」
 と、あらぬ噂を流した。
 この噂を信じた城主は直ちに常盤姫と白鷺を追放したが 常盤姫はこの時身重で
 実家へ帰るに帰れず、白鷺に遺書を託し自害してしまい、
 白鷺は九品仏を目指したが、途中で鷹狩りに出会い殺されて多摩川の川原に落ち
 て死んでしまった。
 いつの頃からか、その川原一帯に白鷺に似た花が咲き乱れるようになり、人々は
 “鷺草”と呼ぶようになった。

道後温泉

2011年11月02日 | 歴 史

家内に誘われて、道後の古湧園で食事をして温泉に入るというバスツアーに参加した。
時間がないので温泉もそこそこにして、周辺を1日楽しく散策させて貰った!

道後温泉本館
明治27年(1894年)に、伊佐庭(いさにわ)町長が反対を押し切って改築を終え現在に至る温泉共同浴場。
又、伊佐庭町長は松山港から道後へ至る鉄道も走らせ、今日の道後の繁栄の基礎を築いた。
太鼓で時を知らせる振鷺閣、日本で唯一の皇室専用浴室又新殿、夏目漱石ゆかりの資料の置かれた部屋坊っちゃんの間などがあり、1994年には国の重要文化財に指定された。
道後温泉本館周辺の旅館・ホテル群

周辺には大きな旅館やホテルが林立し、年間で600万人近い観光客が訪れ、人口約51万人の松山市の重要な観光収入になっている。
湯神社
道後温泉本館のすぐ南の丘の上にある神社で、祭神は大己貴命少彦名命の二神。
元は鶯谷に祀られていたが地震で温泉が埋没した際に、現在の冠山の出雲岡神社の祭神(須佐之男命と稲田姫命)が祀られている境内に移され、いつしか合祀して四社大明神と呼ばれるようになった。 温泉は、地震などで今までに十数回湧出が止まったといわれ、その度に神楽を奉納して祈願したり、感謝の祭礼をしたと言われている。
中嶋神社
祭神は田道間守命で、四国四県の製菓業者が昭和32年に但馬国出石郡の中嶋神社から御分神を迎え、菓祖中嶋神社四国分社として創祀。
田道間守命は、垂仁天皇の勅命を受け非時香菓(今の橘)を求て新羅に渡り10年を費やしたが、帰ってみると天皇は既に亡くなっており、非常に悲しんだ挙句陵前で悶死した。
時の景行天皇はそれを憐み垂仁天皇の陵側に葬ったが、田道間守命は爾来菓祖として信仰されている。
伊佐爾波神社
祭神は、応神天皇仲哀天皇神功皇后三柱姫大神(杵島姫尊、湍津姫尊、田心姫尊)。
社伝によると、仲哀天皇と神功皇后が道後温泉に来浴した時の行在所跡に建てられた神社で、湯月八幡とも呼ばれた。
当神社は河野氏が湯築城の鎮守として今の地に移したと言われ、その後加藤嘉明が松山城武運長久祈願の一番社に定めた。

神社の造りは、楼門の下から左右に伸びた回廊が本殿の四囲を取り囲むようになっている珍しい形だ。
回廊を回ってみると、切妻造の建物が前後に二棟並んでいる。
こういう造りを八幡造といい、前の建物を外殿、後ろの建物を内殿と呼ぶのだそうだ。
子規記念博物館湯築城跡

左側の建屋が子規記念博物館で、その右の小高い丘が湯築城跡だ。
子規記念博物館
「子規とその時代」など3つのコーナーで彼の世界を再現しているのだそうで、特に子規と夏目漱石の交友については、2人の書簡などの展示で詳しく紹介しているという。
建屋には、
猫老いて 鼠もとらず 置火燵
の垂れ幕が下がっていたが、痛いところを突かれたようで後ろめたい!
湯釜薬師
湯釜は温泉の円筒形石造湧出口で、奈良時代の天平勝宝年間(749~757年)につくられたと伝えられ、現在の道後温泉本館ができた明治27年まで前の温泉場で使われていた日本最古の物。
湯釜を温泉の守護仏として祀り、毎年湯釜薬師祭が行われる。 湯釜上部の宝珠の「南無阿弥陀仏」の名号は、河野通有の依頼で一遍上人が刻んだと言われている。
湯築城跡の展望台
この地は元は伊佐庭岡と呼ばれ、聖徳太子が道後温泉碑を建てられた場所で、建武年間(1334~1338年)に河野通盛が城を構え約250年間存続した平山城。 その後天正13年(1585年)に秀吉の命を受けた小早川隆景に攻撃されて河野通直は降伏し、やがて加藤嘉明が松山城築城に際し礎石を運び去った為に廃城となった。
通盛の祖先には、12世紀末の源平合戦で水軍を率いて活躍した通信や13世紀後半の蒙古襲来の際に活躍した通有がいる。
展望台から西に松山城が小さく見える。
松山城は、関ヶ原の戦功により加藤嘉明が20万石に加増され慶長7年(1602年)に築城に着手するも、完成前の寛永4年(1627年)に会津藩へ転封となる。 その後、藩主が蒲生忠知、加藤泰興に代わったが、寛永12年(1635年)松平定行が15万石の藩主となり、以降は明治維新まで四国の親藩として235年間続いた。
展望台の直ぐ北には、ホテル群の手前に僅かに道後温泉本館が見える
放生園
建武年間に伊佐爾波神社が現在の場所へ移された時、境内の御手洗川の引水を湛えて造られたのが放生池で、現在は埋め立てられてこの公園になっている。 明治24年~昭和29年に道後温泉で使用された湯釜があり、現在は足湯として利用されているが、「傷ついた一羽の白鷺が温泉で傷を癒したのが道後温泉の始まり」という伝説に基づく白鷺の足跡の残った鷺石がある。
その他に坊っちゃんカラクリ時計もつくられている。
カラクリ時計は、1時間おきにカラクリが動く仕組みになっていて、
先ず2階の屋根が持ち上がって道後温泉本館の振鷺閣を模した櫓が現れて太鼓打ち鳴らし、文字盤にマドンナが現れる。
次に、マドンナの横手から「坊っちゃん」に登場する人物が現れ、
更に1階部分も持ち上がってその下に入浴客が現れ、1階部分にも坊っちゃんなどが現れる。

見物客も多く、人気が高いらしい!
最後は定番のお買いもので、帰り道の菓子処でお菓子を買った。
爺婆総勢74名、松山市の売り上げにシッカリ協力したようだ!?



古家真(こけま)名越家の屋敷跡

2011年09月12日 | 歴 史

“オグラセンノウの植栽地”の背後にある、石垣で囲まれた場所は、
古家真(こけま)屋敷跡”だそうだ。   ※古家真は屋号。

屋敷跡に向かって左側の石垣には
“比和音頭”の歌詞が掲げられている。

どうやら、ここは嘗てたたら製鉄で財をなした家の跡らしい。
跡地内に入ると、比和町教育委員会の
石碑が建てられていて、
「近世から近代にかけて、この地区で
 製鉄業の経営で財を成し権力をふる
 った古家真名越家の跡地と伝承され
 幕末期に築造されたと推定される石
 垣は近世城郭の石垣建築技術に極
 めて近い造りをしている」
のだそうだ。
屋敷跡の一画には名越家の末裔が建てた碑もあり、
「古家真名越家は、天文年間毛利・尼
 子の合戦で落城した備後森脇郷錦城
 主の後裔で、兄豊後守は毛利氏に随
 従し、弟市之正は母方の姓(名越氏)
 を継いで永住した。
 爾来、明治初年まで19代300年間
 宏大な山林田畑を領有し、特に鉄山
 主として歴代家運隆盛を極め、広島
 浅野藩の御用鉄山となり浅野家の家
 紋を許され、近郷の人々に古家真長
 者と崇められたが…、
 たたら製鉄の衰退に伴って、今は吾
 妻山上の長池・瓢箪池・大池と山麓の
 屋敷跡しか残っていない…」
と書かれていた。

255号線を北上すると、やがて吾妻山(画像の中央)が見えて来る。


吾妻山の山上からはロッジの裏に幾つもの池が見えるが、これらが嘗て名越家が鉄穴
流しに使っていた池だ(画像は2008.10.15 のもの)。


そう言えば、吾妻山の北側斜面は島根県の絲原家が所有していると聞いた事がある。
絲原家というのは元は備後の百姓の出身で、江戸時代初期に吾妻山北側の出雲国の
大馬木村へ移住した後に山林業も始め、藩政期には他の林業家の田部家桜井家と共
に“たたら製鉄業”も始めて“鉄師ご三家”と呼ばれ、鉄師頭取を勤めたほどの家柄だっ
たそうだ。
奥出雲の製鉄量は、江戸時代末期に我が国全体の70%にも及んだと言い、明治時代
に新製鉄法が導入されると、隆盛を誇ったさしもの“たたら製鉄”も廃れてしまったそうだ。

広島県側の名越家も同様な運命を辿り、今や屋敷跡と“鉄穴流し”に使った池しか残って
いないという訳だ。 まるで革命的な変化に取り残された象徴を見るようでもの悲しい!


福符義倉(ふくふぎそう)

2010年12月21日 | 歴 史
朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
おり、12月12日には“福符義倉”が紹介されていた。

義倉”や“社倉”というのは、天明大飢饉の悲惨な体験から全国各地に設けられた、災害
や飢饉に備えて米や穀物を備蓄する倉庫の事で、今も日本で2箇所だけ残っていて、その
一つが福山城の直ぐ東側に財団法人義倉として残っているというので訪ねてみた。
 
玄関の右手には、中心になって義倉を設立した千田村庄屋の河相周兵衛の像があった。
周兵衛は、8年もの年月をかけて目論見書作成し、文化元年(1804年)に帰藩された
藩主阿部正精公から義倉設立の認可を受けたそうで、“福府義倉”の名は藩主の命で
菅茶山がと名づけたという。

その目論見書の骨子は、
『深津村庄屋石井武右衛門から託された遺金の銀60貫と、同志の庄屋や豪商から募っ
 た240貫の銀のあわせて300貫を拠出して、当時財政難に喘ぐ福山藩が恥も外聞もな
 く石州銀山から借りていた借財銀300貫を肩代わりし、その見返りとして利息相当分の
 銀45貫を15年間に限り下賜を受ける約束を取り付け、これを元手に農村の疲弊を救済
 する』 というものだったそうだ。

周兵衛達が拠出した銀300貫は、
・現在の銀価格で言えば、300貫×3.75kg×@81,900円≒9,214万円に相当するが、
・幕府の通貨の交換レート(金1両=銀60匁=銭4貫文)で、1両が現在の価値で5万円
 と想定すると、5万円×(300×1000)匁÷60匁≒2億5000万円もの巨額となるらしい。

お金持ち達は一揆が起きると打ち壊しに遭う事が多く、同志の一人で銀30貫を拠出した
戸手村の庄屋・信岡平六の屋敷には、天明の一揆の際に品治郡や芦田郡の一揆勢が
屋敷になだれ込んだという。
いずれにしても農民や町人の窮乏を見かねて拠出したのであろうが、打算にしろ、義憤にしろ、その巨額さには驚いてしまう!
 
玄関の左手には、義倉田の石碑があった。
義倉が設立されて11年後の文化11年(1814年)、蓄積された基金で中津原村に初めて
1反3畝21歩の畑地を購入してこの石柱を建立したのを手始めに、天保9年(1838年)
には領内に53町歩の土地を所有し、昭和21年の“農地改革”でその全てを没収される迄
の140年余で実に120町歩余を蓄えていたという。

ただ単に食べ物を配ったり備蓄するだけではなく、“義倉田”を徐々に増やして基金が目
減りするのを防ぎ長期に亘って救済事業を継続しようと考えた、周兵衛達の先見性は現
代を凌ぐもので感心させられる!
 
天明の大飢饉で死んだ人の数は、正確な統計数字は無いものの、天明6年(1786年)
当時の人口2,509万人(※Wikipedia から引用)の約4%(100万人)に相当する犠牲者
が生まれたとも言われている。 

こうした悲惨な体験から、設けられた各地の“義倉”や“社倉”も明治新政府の方針で多く
は消えてしまったが、その中で“福府義倉”は戦時中の空襲で諸施設を消失したり、或い
は戦後の農地改革で田んぼの全てを没収される憂き目にあったが、今は僅かに残った
土地を原資に、設立の精神に立ち返って「福祉・教育・殖産等の公益事業の補助」を行
っているそうだ。

欧米には、ビルゲイツのように自分の残りの半生を慈善事業に捧げた人も居ると聞く。
日本にも、明治時代には日露戦争で増えた孤児を救う為に、経営する会社の利益の大半
(現在の金額で数百億円)を投入した大原孫三郎さんのような人も居たが、昨今大金持ち
が多いというのに、周兵衛達のように私財を投げ打って世の中に奉仕する人の話は聞い
た事が無い。
周兵衛達の遺志を引き継ぎ今もって活動を続けている財団法人“義倉”は貴重な存在で、
その200年余に及ぶ活動に敬服した!

以下、義倉資料館から引用
〔文化元年(1804年)設立当時の出資者〕 
石井 武右衛門深津村庄屋銀 60貫
河相 周兵衛千田村庄屋銀 15貫
信岡 平 六戸手村庄屋銀 30貫
神野 利右衛門城下の豪商銀 30貫
大阪 五軒屋城下御札座銀150貫
福井 常右衛門城下の豪商銀 10貫
大戸 久三郎府中の豪商銀  5貫

 
〔文政元年(1818年)追加出資者〕…大阪五軒屋出資分返済に充当
石井 武右衛門深津村庄屋銀 20貫
信岡 平 六戸手村庄屋銀 20貫
神野 利右衛門城下の豪商銀 20貫
河相 清兵衛周兵衛の分家銀 20貫
河相 料兵衛周兵衛の分家銀 20貫


〔福府義倉が、江戸時代の凶作に際し救済に充てた米の量
文政6年(1823年)3,120俵
天保7年(1836年)1,000俵
嘉永2年(1849年)1,000俵
嘉永3年(1850年)  500俵
嘉永6年(1853年)2,120俵
文久元年(1861年)1,320俵



天明の一揆

2010年12月20日 | 歴 史
朝日新聞に、地元の作家・藤井登美子さんの執筆による“備後歴史紀行”が連載されて
いて、昨日は天明の一揆を誓った場所である“素盞鳴神社”を紹介していた。

内容は、
『数年間に及んだ天明の飢饉では、福山藩でも長雨と洪水によって作物は稔らず、人々
 は飢餓に苦しんでいた』
『当時の4代目藩主・阿部正倫は幕閣への栄達を望んで、当時の権力者達に賄賂を贈
 り続けた為に財政が厳しく、農民や町人から過酷な収奪を行った』
『そして、天明6年(1786年)未明、蛇円山であげられた狼煙を合図に遂に一揆が勃発
 し、先鋒隊の品治郡や芦田郡の一揆勢は戸手村の天王社(現在の素盞鳴神社)に終
 結して庄屋の屋敷になだれ込み、同じく安那郡、深津郡、沼隈郡の農民も決起して天
 王社近くの天王河原に合わせて数万人が終結し、福山藩に対峙した』
『一揆の代表は大阪城代へ越訴する為に当時の法を犯して岡山領へ侵入し、万余の民
 衆は神辺平野へ集結して、昼夜となく大声で威嚇して仲間の安全を隣国へ訴え続けた』
『この時、悲願の老中就任を控えていた藩主は、隣国へ居座る一揆勢の存在を隠し通す
 事が出来ないと考え、公になるのを恐れて一揆勢の要求を丸呑みせざるをえなかった』
『こうして一揆は一人の犠牲者も出さずに収束し、知略を用いた民衆の完全勝利となった』
というものだ。

天王社(現在の素盞鳴神社)は、高天原を追放されたという“荒ぶる神”須佐之男命を祀ってある神社で、今は夏に行われる祇園祭での喧嘩神輿が有名だ。
近くの天王河原には、宝暦と明和の一揆の際にも農民達が結集したと言うが、農民達は
こうした荒々しい一揆を起こすに相応しい場所としてこの地を選んだのであろうか?



一揆の英雄 “徳永徳右衛門”

2010年12月14日 | 歴 史
隣町に「江戸時代に一揆を指導した庄屋が居た」というので訪ねてみた。

先ず最初に、神辺町徳田の砂原池土手の生家跡地を訪ねた。

今は生家の痕跡も無いが、砂原池土手に金毘羅大権現の石灯籠が立っている辺りが
生家だったそうで、現在脇を流れている六反田川が高屋川へ注ぐこの辺りは満々と水
を湛えた沼沢だったという。
又、その生家は、明治10年頃に神辺からお嫁入りがあった時には、嫁入り道具を積ん
だ先頭の船が到着したというのに、最後尾の船は未だ神辺を出たばかりだ、というほど
のお金持ちだったそうだ。
南側から見た風景 (大木の下の金毘羅大権現石灯籠が立つ辺りが生家跡)
金毘羅大権現の石灯籠背後の砂原池

次に訪ねたのは、JR福塩線・湯田村駅の直ぐ北側の宝泉寺。

この寺の門前には、檀家10人が今年7月に建てた英雄の顕彰碑がある。
地元の作家・藤井登美子さんが、「天明の篝火」という小説で徳右衛門を主人公として取
り上げた事もあり「改めて、その功績を見直そう」という事になったらしい。
湯田村駅ホームから見える宝泉寺(左端が顕彰碑)参道を横切る福塩線!
参道脇にある顕彰碑

江戸時代は全期を通じて寒冷な時期で、冷害や 干ばつ、水害などが起きたばかりでは
なく、火山噴火も加わって凶作や飢饉が絶えなかったそうだが、
それに加えて、阿部氏が入封した時には石高が15万石から10万石に減らされていた上
に、幕閣の中枢に加わる事が多くて経費がかさみ財政が相当厳しかったらしい。

その為に福山藩では度々一揆が起きたが、この天明飢饉はよほど酷くて、いかな藩主
と言えども首謀者を打ち首にする事が出来なかったという事だろう。
「その後暗殺された」という説もあるらしいが、いずれにしても命をかけて訴えた庄屋に
対する村人達の思いが今に語り継がれているというわけだ。

政府に金はなく、ますます先細りの昨今の情勢を見ると、何だか「過去の江戸時代の話」
とは思えない。 「明日はわが身か?」と思うと身につまされる!

顕彰碑の碑文
 『江戸時代の天明年間(1770年代)全国的に飢饉があり、各地で百姓一揆が起こった。
  その中でも福山藩は、藩主が江戸詰めに在って大層な財政支出を余儀なくされた。
  未曾有な飢饉にもかかわらず、過酷な税金供出を迫られた民衆が一揆を起こした。
  安那郡徳田村の庄屋徳永徳右衛門は、藩に対して30ヶ条の要求を突きつけ越訴して
  一揆を成功させ、事実上の徳政令を勝ち取った。
  首謀者が獄門の刑に処せられるのが普通であった当時の法を省みず、立ち上がった
  徳右衛門は一人の犠牲者も出さずに一揆を成功に導いた』

江戸四大飢饉〕…Wikipedia から引用
名   称時   期被害の中心地原   因
寛永の大飢饉1642年~1643年
全国(特に東日本の日本海側)全国的な異常気象
享保の大飢饉1732年中国地方以西(特に瀬戸内沿岸)冷夏と虫害
天明の大飢饉1782年~1787年全国(特に東北地方)浅間山等の噴火による冷害
天保の大飢饉1833年~1839年全国(特に東北、陸奥国・出羽国)大雨、洪水と、それに伴う冷夏



薄幸の皇女の墓?

2010年12月10日 | 歴 史
今日の朝日に「中大兄皇子の娘の墓か?」と題する、次のような記事が載っていた。

『奈良県明日香村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳の約20m南東で新たに棺を納める石室が見つかり、これに付近の地名から越塚御門(こしづかごもん)古墳と名づけた』
『日本書紀には“斉明天皇と娘の間人皇女(はしひとのひめひこ)を合葬し、孫の大田皇女(おおたのひめみこ)を御陵の前に埋葬した”と記述されているが、牽牛子塚古墳からは2人用の棺が納められる石室が見つかっている事から、二つの古墳の位置関係から見てこれら3人を埋葬したとする説が有力である』

『大田皇女の父は中大兄皇子(後の天智天皇)。
夫はおじの大海人皇子(後の天武天皇)で、斉明天皇(祖母)や夫と共に九州に遠征する途中に大津皇子と大伯皇女をもうけたが、夫が天皇に即位する前20代前半で世を去った。
大田皇女の子・大津皇子は母の死で後ろ盾を失い、謀反の疑いをかけられ24歳で命を絶ったとされている』
『中大兄皇子が母と妹のそばに若くして世を去った娘を葬ったのではないかと見る学者も居るが、宮内庁では牽牛子塚古墳の西約2.5kmの所にある車木ケンノウ古墳を斉明天皇陵、その近くの丘陵を大田皇女の墓と指定しており、現段階では陵墓指定の見直しはしない』

というもので、牽牛子塚古墳の位置は近鉄吉野線“飛鳥駅”の直ぐ西だった。

面白かったのは当時の風習で、
Wikipedia によれば、中大兄皇子は弟の大海人皇子に4人もの娘を与えたのだそうで、大田皇女の妹の鸕野讚良皇女(後の持統天皇)も大海人皇子に嫁し、九州に遠征する際に草壁皇子を産んだのだという。
いとこ同士なら最近まで聞いた事があるが、叔父にしかも4人も与えるとは驚きだ!!

天智天皇の子女の内で大海人皇子に与えた子女の名前〕…Wikipedia から引用
大田皇女鸕野讃良皇女、建皇子、御名部皇女、阿閇皇女、山辺皇女、明日香皇女、
新田部皇女、志貴皇子、大友皇子、阿閇皇子、阿雅皇女、川島皇子、大江皇女、泉皇女、水主皇女

天皇に仕えた女性の身分〕…Wikipedia から引用
皇后(正妻)・妃(正妻)・夫人(皇后・妃の次に位する後宮の女性で三位以上から選んだ)、
 嬪(寝所に侍する女官で四位・五位の者)

遣新羅使

2010年10月05日 | 歴 史
10月3日の朝日新聞に“遣新羅使”が、旅の途中で福山に寄港した際に詠んだという
歌の歌碑の一つが、国道2号線の芦田川西詰めの西神島神社にあるというので見学に
行って来た。

〔西神島神社遠景〕
標高20mほどのこの丘は古来海上に浮かぶ
小島で、倭姫命が神鏡を献納する途中で一夜
を過ごしたという伝承や神功皇后の船が寄港
したという伝承から“かむしま”と呼ばれ、
後の“神島村”という地名となった。

元和(1615~1623)の頃まで8反帆船などが
出入りして港町として栄えたそうだ。
〔鳥 居〕

歌碑は鳥居の左側の常夜灯の奥側にあった。
〔歌碑〕
歌は、
「月よみの 光を清み神島の
 磯廻の浦ゆ 船出すわれは」
というもので、
「月の光が清らかなので、神島の磯が続く
 入り江から船出をするよ、私は」
という意味だそうだ。
〔歌碑の説明〕

この歌は天平8年(736年)に難波津より出航した遣新羅使が神島へ寄港した時に詠まれた歌だという。
この後、次の寄港地・糸崎の“長井の浦”を経て、苦労をして新羅へ辿り着いたものの、新羅では冷遇され、帰路には大使が病気で死ぬなど散々な旅だったそうだ
〔拝殿〕

丘の上には小さな八幡神社があった。
〔本殿〕

朝鮮半島の統一と遣新羅使(けんしらぎし)
・660年に唐の援軍を得て百済を滅ぼした新羅は、
・663年に白村江の戦いで百済・倭国連合軍を破り、
・668年に高句麗を滅ぼし、
・670~676年にかけて、旧百済領を占領していた唐を追い出し朝鮮半島をほぼ統一した。
 遣新羅使は、日本が新羅に派遣した使節で、特に668年以降の統一新羅に対して派遣
 されたものをいう。
・779年を最後に正規の遣新羅使は停止された。


比婆山神話巡り

2010年08月02日 | 歴 史
庄原市のイベントカレンダーを見たら“比婆山神話めぐりと植物観察”というのがあり、
市役所の案内文を読むと、
『7月28日はミコトさん(伊邪那美命)の命日だといわれ、庄原市比和町の越原地区
 では比婆山へ参拝する風習があった』
『越原地区の集会所でおむすび作りを体験し、比婆科学教育振興会と越原の皆さんに
 よる比婆山神話の史跡や高山植物の解説を聞きながら登山をしていただきます』
と書かれており、面白そうなので昨日久し振りに野外講座に参加させて貰った。

自宅から庄原市街を通って約95km、ちょっと早目に集合場所の“ふれあいの里越原”
集会所へ着いてしまったので、直ぐ傍の小さな神社を訪ねると“比婆山神社”の扁額が
掛かっていた。 どうやら伊邪那美命を祀ってあるらしい。
集会所の北で雲を被る比婆山比婆山神社の鳥居

集会所に引き返して、“越原みこと会”の人の話を聞いてみると、昔はこの比婆山神社
から、北に見える比婆山の山頂まで神輿や太鼓を担いで登ったと言い、他の地区からも
それぞれ参道を歩いて登り参拝したそうだ。 越原地区からの比高は約614m、手ぶら
でも苦しいのに、昔の人はよほど丈夫だったらしい! 

〔各地域からの参道と色々な言い伝え〕

さて、定刻の9時が近づいたので、いよいよプログラム始動だ!
先ず、集会所の中で参加費1,500円を支払い、資料を受け取る。

集会所は、過疎地なのに小ざっぱりした造りだった!
次はおむすびだ。

自分で作り、竹の皮に包む。
中には2個入っていて、そのほかにタッパーに入った漬物とお茶2本を貰った。

おむすびは小学生の時に作った時以来久し振りで、ちょっと戸惑った。
吾妻山国民休暇村のマイクロバスで立烏帽子山の駐車場まで送って貰った。

昔のように麓から歩いて登るようだと、ここまででバテてしまうところだ。
現代人は軟弱だ。

駐車場には、岡山・福山・広島・山口ナンバーの車が停めてあり、盛況だ。
いざ、出発!

ブナ林の中は涼しくて気持ちが良い!
①千引岩
立烏帽子山の北側にある蛇紋岩のこの岩は、伊邪那岐命が黄泉軍を追っ払った後で伊邪那美命と対峙した場所で、
「あなたの人草を1日千人殺す」「それなら1日千五百人の産屋を立てる」と問答したと伝えられているとか。
まるで子供の喧嘩のようだが、ここがあの世とこの世の境という事らしい。
いよいよ黄泉の国ヘ入ったが、未だ比婆山の山頂にある御陵(伊邪那美命の墓)は遠い。
この比婆山は、伊邪那美命が眠る山なので“美古登山、みことやま”と呼ばれていたが、子の須佐之男命が“大婆々様の山”つまり“ヒーババの山”と呼んだ事から“比婆山”と名づけられたと伝えられている。
少し雲行きが怪しいが、植物の講義もあり、なかなか先に進めない。
比婆山山頂には伊邪那美命を葬った御陵があるとされ、周囲の3haもの平坦地は神域とされている。
又、南麓の熊野神社は本宮(遥拝所)、御陵は奥の院とされている。
 ③門 栂          
 ④飛越岩 
 ⑤命(みこと)神社と太鼓岩
 ⑥七本栂
 ⑦産子の岩戸
 ⑧御 陵
③門栂、飛越岩
南から登ってくる参道の両脇にある2本の栂(イチイ)の木は“門栂”と呼ばれ、聖域の門戸と伝えられている。
又、その西の少し下りた所へは“飛越岩”というのがあるそうだ。 
伊邪那岐命が逃げる時に飛び越えた岩で、“越原、おっぱら”の地名は追撃して来た黄泉軍を追っ払った事から生まれたと伝えられている。
石 碑
古来参拝が盛んであったものを、明治20年に政府が神陵と称する事を禁じた為に廃れたが、戦時中に徳富蘇峰らによって全国に知られるようになったという。
門栂の傍にある「神聖之宿処」と彫られた石碑は、その頃(昭和15年)に紀元2,600年を記念して建てられたものだ。
⑤命(みこと)神社
元は礎石の上にもっと大きな神社が建てられていたそうだが、今は見る影もない。
しかし、同行した神主さんに参加者一同はお祓いをして貰い、お札も頂いた。
その上、少し西に下った所から湧き出ている“護符の水”も頂いた。 
これで健康と幸運は疑い無しだ!
⑤太鼓岩
烏帽子の形をした巨石で、叩くと低い音がするという。
⑦産子の岩戸
今にも赤子を産み落とす姿に似ているからこの呼び名がつけられたと伝えられている。

又、「なきはた」や「血洗い池」とも呼ばれ、岩の上面に約30cmの穴があり、伊邪那美命がお産の時にこの水を産湯に使ったと伝えられている。
⑧御 陵
径64m、周囲約200mの大円墳とも伝えられており、真偽のほどは定かではないのにあちこちに案内板が立てられ、御陵も鬱蒼とした大木が生えていると、如何にも伊邪那美命が葬られているかの感じがしてしまう。
しかし、講師達の子供時代には、一帯に牛が放牧されていて大きな木以外はなく、相撲をとって遊んでいたともいう。
歴史上の事実か、それとも単なる“日本昔話”なのか興味は尽きない!

帰りは、熊野神社の鳥居をくぐり西城から東城へ回って帰ったが、走行距離約90km、
久し振りに楽しませて貰った。 感謝!