里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

最後の金刀比羅宮参拝

2012年04月01日 | 神 仏
連休を利用して東京から孫たちがやって来たのを幸いに、H20年12月に行き残した金刀比羅宮の奥社へ参拝する事にした。

と言う訳で、急遽金刀比羅宮近くのホテルを当たってみたのだが、空きがなくて一寸寂しいホテルをとるのがやっとだった。

しかし、孫はそんな事はものともせず、早速忍者ごっこを始めた。
どうやら、今回の琴平行きの中で一番楽しかったようだ。
孫は石段を登るのも楽しいらしくて、父親と一緒に本宮一番乗りを果たした。

ほかの連中は息も絶え絶えに、ようやく785段を登り終えた。
本宮前で一休みだ。

北東側には、前回来た時に登った飯野山(画像中央の少し尖った山)が見える。
次は、
前回の終点(白峰神社)を通過して、目的の奥社に到着だ。

参拝客たちは、流石に1368段の石段はきつかったらしく、
「これが最後の金刀比羅参拝だ」
「もう二度と来れない」
などと、悲鳴をあげていた。
奥社は、正式には“厳魂神社”といわれ、金刀比羅本教教祖の“厳魂彦命”が祀られているそうだ。
帰りには、金丸座へ寄ってみた。
道路脇には、たくさんの幟が立てられている。
金丸座は、江戸時代に、こんぴら詣でのお客さんを楽しませる為に興行したのが最初で、
その後廃れてしまったが、昭和60年に復活されて以来、毎年公演が行われているそうだ。
次は、平成24年4月5日(木)~22日(日)に第28回公演が行われるそうだ。



井伊家墓所と松陰神社

2011年11月09日 | 神 仏
豪徳寺の井伊家墓所の次に松陰神社を訪れた。

先ず、菩提寺の豪徳寺境内にある井伊家墓所を訪れた。

江戸で亡くなった藩主や家族を葬ってある場所だ。
参道正面の奥まった所には2代藩主井伊直孝の墓があり、
そこから左に折れて奥まった所へは13代藩主の井伊直弼の墓がある。
真ん中の墓が井伊直孝の墓だ。

父から引き継いだ彦根藩が一代で18万石から35万石に加増されるなど、譜代大名筆頭の家柄となる礎を築いた人物だ。
これが井伊直弼の墓だ。

老中阿部正弘の死後に大老となり、勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印し、将軍後継者としては徳川家茂を後援して、これらの諸策に反対する尊皇攘夷派や一橋派を弾圧する為に安政の大獄を行い、桜田門外の変で暗殺された人物だ。
次に松陰神社を訪れた。
安政の大獄に連座し、江戸の伝馬町で30才の若さで刑死した吉田松陰を祀ってある神社で、刑死4年後の文久3年(1863年)に門下生であった高杉晋作・伊藤博文などによってこの地に改葬され、明治15年(1882年)に門下生達により墓のそばに社が築かれた。
安政の大獄を行った井伊直弼の墓の直ぐ近くに、殺された松陰の神社があるとは驚いた!
左が社務所で正面が社殿だ。
これが社殿だ。
社殿の右側には、山口県萩の松陰神社境内に保存されている松下村塾を模した建屋がある。

嘗てこの塾で松陰の教えを受けた久坂玄瑞・高杉晋作・木戸孝允・山縣有朋・品川弥二郎・伊藤博文などの、やがて明治維新を通して近代日本の原動力となった多くの逸材を輩出した。

阿部正弘といえば備後福山藩の藩主だ。
井伊直弼共々、幕末の動乱期に老中のトップを務める為にかさむ経費で国許を疲弊させながら開国を進め、挙句の果てに阿部正弘は37才で若死にし、井伊直弼に至っては暗殺されてしまった!
一方の尊王攘夷派は、当初は開国に反対して多くの犠牲者を出したものの、倒幕後は結局開国に踏み切った。

昨今のTPP(環太平洋経済連携協定)交渉参加も国論を2分する論議を呼んでいるが、これも嘗て起きた開国論議によく似ている。
まさか殺しあう事は起きないだろうが、何時まで経っても結論が出そうにない?


豪徳寺の招き猫

2011年11月08日 | 神 仏

豪徳寺の前身は世田谷城主吉良政忠が建立した弘徳院で、寛永10年(1633年)に世田谷20ヵ村が彦根藩主井伊直孝に加増された後に井伊家の菩提寺となり、直孝の死後その院号「久昌院殿豪徳天英居士」に因んで寺の名前を豪徳寺と改めた。
因みに、上町駅の南東には彦根藩の代官屋敷があるが、代官の大場氏は元は吉良氏の家臣で初代以来廃藩置県まで世襲で代官を務めた。
松並木を見ながら参道を進むと、正面に山門がある。
その先にある仏殿をはじめ、井伊直孝の娘掃雲院は多くの堂舎を建立、寄進し、井伊家の菩提寺に相応しい寺観に改めた。
仏殿とその三世仏像、達磨・大権修理菩薩像及び石灯籠2基、梵鐘が当時のままに現在に伝わっている。
その更に奥には本殿があるが、昭和42年に建てられた鉄筋コンクリート造りの新しいものだ。

面白いのは井伊家の菩提寺となったいきさつだ。
鷹狩の帰りに通りかかった直孝が寺の飼い猫が手招きをした為に一休みし、寺の住職からお茶の接待を受けている間に雷雨になった事から、ずぶ濡れにならずに済んだと大いに喜び、これが縁で菩提寺にしたそうだ。
仏殿の左側には招猫堂の山門がある。

吉良家が滅亡して以来貧乏暮らしをしていたお寺が、飼い猫のおかげで一夜にして裕福になったものだから、住職は猫が死ぬと墓を建てて手厚く葬り、その後招猫堂を建てたという。
豪徳寺では招猫堂に招猫観音を祀ってある。
猫は“招福猫児、まねぎねこ”と呼ばれ、招猫観音の眷属とされている。
招猫堂の横にはたくさんの絵馬が掲げられており、
願がかなったお礼に多くの招福猫児が奉納されている。
仏殿の左手前には2006年に完成した三重塔がある。

ボランテイアガイドの話では、塔の建設にあたって檀家の寄付は少額で済んだそうだ。
何しろ豪徳寺は裕福で、広大な境内の周りの多くも寺有地で相当な額の地代が入るのだそうだ。
正に猫様々で、我が家に始終出入りする近所の猫に見習って欲しいものだ!
三重塔の2層目の軒下には招福猫児観音像の周りに子猫達が配置されている。
ボランテイアガイドの話では、その内の1匹は直孝公を手招きしたタマちゃんだそうだ。

豪徳寺…wikipedia より引用
本寺付近は、中世の武蔵吉良氏が居館とし、天正18年(1590年)の小田原の役で廃城となった世田谷城の主要部だったとされる。
文明12年(1480年)、世田谷城主吉良政忠が伯母で頼高の娘である弘徳院の為に
弘徳院」と称する庵を結んだ。
当初は臨済宗に属していたが、天正12年(1584年)曹洞宗に転じる。
寛永10年(1633年)彦根藩主井伊直孝が井伊氏の菩提寺として伽藍を創建し整備した。
寺号は直孝の戒名である「久昌院殿豪徳天英居士」による。

井伊家…wikipedia より引用
戦国時代は今川氏の配下にあったが、今川氏の滅亡後の天正3年(1575年)に井伊直政が徳川家康の配下となり多くの武功を立てた。
天正18年(1590年)には家康の関東入府に伴い上野国箕輪12万石、関ヶ原の戦いの後には近江国佐和山に18万石を与えられた。
直政の死後、直政の子の井伊直勝は慶長9年(1604年)に近江国彦根に移り築城し、
1615年(元和元年)幕命により弟の掃部頭直孝に彦根藩主の座を譲ったが、直孝の代には35万石の譜代大名となる。
江戸時代の彦根藩家は、直澄直該直幸直亮直弼と5代にわたって大老職を出すなど譜代大名筆頭の家柄となったが、堀田家、雅楽頭酒井家、本多家などの有力譜代大名が転封を繰り返す中で彦根藩家は1度の転封もなかった。

江戸時代後期に直弼は老中阿部正弘の死後に大老となり、将軍後継問題では南紀派を後援し、一橋派への弾圧である安政の大獄を行うが、桜田門外の変で暗殺された。
直弼の死後、幕政の混乱の責任を直弼に押し付けられる形で10万石を没収された事から、大政奉還後には譜代筆頭にもかかわらず新政府側に藩論を転向し、以後は新政府側に属して転戦し、明治17年(1884年)には伯爵となり華族に列した。


流れ星を祀ってある?星尾神社

2011年09月17日 | 神 仏
岡山県井原市の北部に、“星の郷”美星町という町がある。
美星町の名前は、町内に源流を持つ山川と田川から一文字ずつ取って名付けられ、
星田川の名前は、その昔“三つの流れ星が田に落ちた”と言う伝聞から名づけられたと言う。
美星町では、この伝説と美しい自然を元に『創星課』を設置し、全国的にも珍しい
美星町光害防止条例』等を制定して、星を中心とした町興しを行っているそうだ。

そこで、面白そうなので、その流れ星が祀ってあるらしい星尾神社を訪ねてみた。
鳥居の前に掲げられている神社の由緒を読むと、
『順徳天皇(在位:鎌倉時代1219~1221年)の御代に、流れ星が水田に落下し、それを
 小祠に祀って“明神様”として厚く信仰した。
 それから約100年後、重病を患った豪族妹尾氏が28宿の内の“”と“”を夢に見て
 以来快方に向かった事から、明神の加護・ご神徳を深く感じて1324年に宮社を建立し
 “星尾大明神”として祀った』
のだそうだ。

神社はこじんまりとした造りだったが、祀ってあるらしい“流れ星”は見る事が出来ず、本当に隕石が祀ってあるのかどうか見たかったのに残念だった!
それにしても、28宿の内の“”はうみへび座のα星を、“”はさそり座ミュー星を指すらしいが、鎌倉時代の地方豪族が星座の知識まであったとは驚いた。

この神社を訪れたもう一つの目的は、本殿周辺の社叢に自生しているチトセカズラ
偵察だ。
例年7月中旬にオレンジ色の花をつけるそうで、今は緑色の実しかつけていなかったが、来年は是非花を見に来るとしよう。

チトセカズラ、千歳葛( マチン科、ホウライカズラ属 )
中国地方の山地で、常緑樹林下で自生する常緑木本性のツル植物。
葉は対生し、長さ約8cmの先が尖った長楕円形で、暗い場所に育つものは白い紋様が入り、日当たりが良い場所で育つものは全て緑色。
花期は7月上旬頃で、葉腋から集散花序を出し3~10個の花をつける。
花は、橙色で径が1cm、花弁は5枚で、雄しべは5本、中央に雌しべが突き出ている。
秋になると、直径約8mmの球形の実が朱赤色に熟す。


備中神楽の里

2011年09月15日 | 神 仏

成羽川沿いに313号線を下って行くと“かぐら橋”という橋があり、右岸と左岸に神楽の装束
を着けた像が立っていた。

商店街の入り口
更に下って成羽町の商店街に入ると、神楽に登場する神々の小さな像が点々と立っていて、その役柄の説明が書かれていた。
どうやら、成羽町が備中神楽発祥の地である事から、神楽で町おこしをしようと考えたらしい。
片っ端から見て回ったが、神楽でお馴染みの神々が様々なポーズで出迎えてくれ、面白かった!
八岐大蛇(ヤマタのオロチ)

出雲の仙神山の大滝に棲む、頭が八つ、尾も八つの大蛇。
神話では悪行非道者とされているが、一方では雨乞いの神とも伝えられている。
室尾明神(ムロオミョウジン)

“酒造り”の手伝いの神。
諸願助力の神ともされている。
松尾明神(マツノオミョウジン)

八岐の大蛇に飲ませる大量の酒を造ったとされる。
酒造りの守護神で、亀は眷属神。
「文化発展・業務繁栄」の神とも言われ、崇められている。
奇稲田姫(クシイナダヒメのミコト)

足名槌命手名槌命の息女。
八岐の大蛇に飲まれんとするところを素戔鳴命に助けられ、二神はめでたく結婚。
稲作豊穣・愛情・恋愛・結婚の神ともされる。
足名槌命(アシナヅチのミコト)は、出雲の斐伊川の上流の住神で、大山津見の神の御子。
妻の手名槌命(テナヅチのミコト)との間に8人の娘を授かり八岐の大蛇に7人まで飲みとられるが、末娘の奇稲田姫命は素戔鳴命に大蛇を退治して貰い、結婚する。
足名槌命は、後に素戔鳴命の御殿の長となり、安らかな国造りに助力する。
神楽では、夫妻と素戔鳴命との出会いと受難の語り、そして夫妻の滑稽な会話が人々を楽しませる。
素戔鳴命(スサノオのミコト)
伊弉諾尊・伊奘冉尊ニ柱の命の御子。
天照大御神の弟神で、“大蛇退治”の主人公。
八岐の大蛇を退治して奇稲田姫命を娶る一方で、一刀の宝剣を得て、これを姉神天照大御神に捧げて正義の証とする。
悪疫退散・疫払い・勇気・愛の神・治水の神として崇められ、須佐鳴男神社・祇園社などとして祭られている。
建御名方命(タケミナカタのミコト)

大国主命の御子。
“国譲り”を妨げる為に鬼の姿になって、高天原の勅使と戦った事から“鬼神”とも言われるが、本来は実直で武勇にたけた神である。
人々に勇気と勢いを授ける神として崇められている。
諏訪神社・御前神社などに祀られている。
事代主命(コトシロヌシのミコト)

大国主命の御子。
この神の進言によって国譲りが成立する。
忠孝善美の神。
商売繁昌・海上安全・漁業の守護神として崇められている。
母神美保津姫命と合祀。
美保両神社として祀られている。
稲背脛命(イナセハギのミコト)
高天原にある時は、「武夷鳥命」と称されていたが、地上界に天下って稲背脛命と改名し、大国主命の家来となる。 その後、経津主、武甕槌命の両神の天降りにより、勅命の本筋に立ち返り、顕幽分界に尽力する。
神楽では、両神とのやりとりの場面や事代主命を迎えに行く場面など、滑稽な様で観衆を楽しませてくれる。
大国主命(オオクニヌシのミコト)

“国譲り”の主人公で、豊葦原中津国の国造りの主宰神。
寿福幸いをもたらし、縁結びの神として世に知られている。
出雲大社を本宮として、全国に杵築大社等々の名で祀られている。
医療・医薬の守護神でもある。
手力男命(タチカラオのミコト)

「天の岩戸開き」の際、天照大神(日の神)がおかくれになった「天の岩戸」の大岩の戸を強力で押し開き、日の神のご出現に尽力したと言う力持ちの神である。
神楽では、岩戸開きに掛かる前の「太鼓叩きとのやり取りの面白さ」そして「岩戸に掛かる時の勇壮な舞い」が観衆を楽しませている。
思兼命(オモイガネのミコト)

「天の岩戸開き」にあたり、思慮をめぐらせて計画を立て、知恵を授けられた神。
そして、その計画に従って八百万の神々が働かれ、めでたく岩戸が開き世の中は明るさを取り戻した。
知恵・思慮工夫の神、会議・設計等の守護神でもある。
猿田彦命(サルタヒコのミコト)

天孫降臨にあたり、先祓いをつとめ、道清めをされた神。
天下泰平・国家安穏をはじめ、魔払い・厄除け・災禍消除・交通安全の神としても崇められている。

備中神楽…wikipedia から引用
備中地方では古来より荒神に奉納する神楽として荒神神楽が行われていたが、これは主に猿田彦の舞・剣舞を中心としており、現在の備中神楽のように郷土芸能というよりはより神事に近いもので、神職のみが行っていた。
しかし、文化・文政年間に京都で国学を学んでいた西林国橋が古事記・日本書紀・古今和歌集などを参考に、能・狂言・歌舞伎など成熟しつつある芸能を取り入れて演芸性の高い神代神楽を加え、それまで神職のみが行っていたものを神職外の神楽太夫などが奉納するようになった。
特に茶利である松尾大明神と太鼓奏者との漫才のような掛け合いが独特で人気がある。


こぶ観音

2011年09月13日 | 神 仏

いざなみ工房”から255号線を北上した所へ“こぶ観音”という案内板が立っていたので寄ってみた。


入り口には観音像があり、その奥には小さな堂があった。
『できものや腫れ物にご利益があるとされ、お参りする時には松などに出来たコブをお供
 えすると良いと言われている』
のだそうだ。

今まで行った神社にも、備後一宮吉備津神社には疱瘡神社があり、高諸神社には疣神様が祀られていた。
昔は抗生物質が無かった為に感染症に罹る者が多く神仏に頼るしかなかったらしいが、その抗生物質も昨今は耐性のある菌が現れて問題になっている。
又、神仏に頼るしか方法が無い世の中にならねば良いが…。



小堀の賀茂神社

2011年04月23日 | 神 仏
河井のカタクリを見終わって福塩線の上下駅へ向かったが、その途中に面白い標識が
あった。
一つは“塞峠”という標識だ。 何と読むのか、何故そのような名前を付けたのかは分ら
ないが、「開通している峠が塞がっている」とは、まるで謎々みたいだ。


もう一つは、この峠が“分水嶺”である事を示す標識で、上下町では至る所に立っている。
上下町のキャッチコピーは“日本の背骨”と言うそうだが、町内の各地に降った雨は瀬戸
内海に流れたり或いは日本海へ流れたりするので、言い得て妙なキャッチコピーだ。


更に進むと“賀茂神社”というのがあった。

神社の由来や祭神の説明などはなかったが、徳川家の葵の家紋が逆になった形の神紋
は、帰って調べて見ると“丸に尻合せ三つ葵”と言うのだそうだ。
多分、京都の賀茂神社から分祀したのだと思うのだが、それにしては賀茂神社の神紋は
双葉葵”だし、私にとっては謎の神社だった! 



流し雛(雛流し)

2011年03月03日 | 神 仏
流し雛”は、穢れを人の形をした紙の人形雛人形などに移し、川や海に流す事
によって祓った行事で、現在でも各地に残っているそうだ。
又、この“流し雛”の行事が、宮中のひいな遊びへと発展し、女の子の健やかな成長と幸
せを願う現在の雛祭りへと変わって行った、とも言われているそうだ。

ところで、わが町の八幡神社の摂末社の一つに“淡嶋神社”があり、毎年この“流し雛
の行事が行われている。
行事は、桟俵(さんだわら、俵の両端の口に当てる直径30cm位の円形の藁蓋)に乗せた
紙の人形(かたしろ)で自分の体を撫でて、それを神社の前の川へ流すだけの至ってシン
プルなものだ。


古代ユダヤでは、年に一度、ヤギに人々の苦難や罪を背負わせて荒野に放ったと言うが、
日本の“流し雛”の行事と似たところがある。
こんな簡単な事で苦難や罪から逃れられるのなら簡単なものだが、昨今世界中には大き
な苦難や罪が溢れている。 ヤギの大群や沢山の人形を乗せる大船を用意しなければと
ても間に合わないだろう!

わが町の八幡神社の下流には“祓殿神社”というのがあって、そこから下流には一切の
穢れを流さなかったらしい。 今や世界にはでかい“祓殿神社”も必要なようだ!


淡嶋神社(和歌山市加太)…淡嶋神社のHPから引用
祭神:少彦名命、大己貴命、息長足姫命(神功皇后)
由来:神功皇后が三韓出兵から帰る際、瀬戸内海で激しい嵐に会い危うく沈みそうにな
   ったが、神のお告げで友ヶ島に辿り着く事が出来た。
   島には少彦名命大己貴命が祭られていて皇后は宝物を捧げたが、その後神功皇
   后の孫にあたる仁徳天皇が友ヶ島に狩りに来られた際にそのいきさつを聞き、社を
   対岸の加太に移され、社殿を建てられたのが加太淡嶋神社の起こりとされている。
行事:少彦名命は裁縫の道を初めて伝えた神様で、毎年2月8日に、一年の間に納めら
   れた針を本殿でお祓いを受けた後に土に返す針供養が行われる。
   又、男びな女びなの始まりは、淡島神社のご祭神である少彦名命と神功皇后の男女
   一対のご神像であるとされ、雛祭りが3月3日になったのは、友ヶ島から対岸の加太
   への遷宮が、仁徳天皇5年3月3日であった事からだと言われている。
   雛祭りの語源も、スクナヒコナ祭が後に簡略化されて、ヒナまつりと言われるように
   なったとされている。
   3月3日の正午からは、親が我が子の健やかな成長への願い事を書いた人形が本
   殿でお祓いを受けた後に船に乗せられ、穏やかな春の海に千羽鶴がまかれて神の
   国へと続く道が出来た中を、先導する船に引かれ沖へ沖へと向かい、やがて神の国
   へと流れて行くと言う、雛流しの行事が行われる。

大国主(おおくにぬし)…Wikipedia から引用
日本神話の中で、出雲神話に登場する神。『日本書紀』本文ではスサノオの息子とされる。
多くの別名を持ち、これは神徳の高さを現すと説明されるが、元々別の神であった神々を
統合した為ともされる。
 (別称の一部)
   ・大国主神(おおくにぬしのかみ) - 大国を治める帝王の意
   ・大己貴命(おほなむちのみこと) - 大国主の若い頃の名前
スサノオの後に少彦名命と協力して天下を経営し、まじないや医薬などの道を教え、葦原
中国の国作りを完成させ、国土を天孫ニニギに譲って杵築(きづき)の地に隠退、後に出
雲大社の祭神となる。 国造り、農業、商業、医療などの神様として信仰されている。

少彦名命(すくなひこなのみこと)…Wikipedia から引用
日本神話における神。『古事記』では神皇産霊神(かみむすびのかみ)の子とされ、
『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされる。
天乃羅摩船に乗って波間より来訪し、大己貴大神(おほなむじのみこと、大国主の命)に
よって国造りに参加した、医薬・酒・温泉の神様。

インドのヒンドゥー教のシヴァ神と日本古来の大国主命が習合し、七福神の“大黒天”と
呼ばれるのに対し、少彦名命を七福神の“恵比寿”と呼ぶ事もある。


一宮(いっきゅう)さんの市立大祭(いちだてたいさい)

2010年11月23日 | 神 仏
急に思い立って、家内と備後一宮“吉備津神社”へお参りしてきた。

お祭りの最終日で、しかも冷たい風が吹いていたので、参拝客は少ないようだった。
例年、ここの市で山野草などを買って帰るのだが、今年は露天商も少なくめぼしい物も
無かったので早々に立ち帰ったが、帰ってTVを見ると、
朝鮮半島で南北の砲撃戦があった」と伝えていた。
多くの死傷者が出ているらしいが、ばかげた事をするものだ! 大事に至らなければ良
いが、隣の国の事だけに心配でならない!

市立大祭(いちだてたいさい)…備後一宮吉備津神社のHPから引用
11月23日前後の日曜日を含む3~4日間に、年に1度の例祭、市立大祭が執り行わ
れます。
中世より市が立つお祭りとして知られ、備後一円から人々がその年の収穫物を持ち寄り
物々交換をしたといわれています。
今では、秋の収穫感謝のお祭りとして、期間中に各種興行や露天商が立ち並び、武道
奉納や郷土芸能の奉納が行われ、神様の御霊(みたま)を和めます。


霊山 “伊吹山”

2009年07月15日 | 神 仏

登山口近くには、山頂から直接湧き出ている“ケカチの湧(ゆ)”というのがあった。
残念ながら相変わらず素通りしてしまったが、
「その昔、日本武尊がこの伊吹山に荒ぶる神々を征伐に来た時、逆にその毒気に
 やられ、この聖なる水を飲んで正気を取り戻した」
と言われており、それ以来“命の水”とも言われているそうだ。

日本武尊といえば、第12代景行天皇(在位:71~130年)の皇子で、麻生さんの好
きな漫画の世界では“ヤマトタケル”と呼ばれていて、そちらの名前の方が有名だ。
親父の命令を受けて薙剣を振るって活躍して日本を平定した人物だが、流石にこの
伊吹山を攻めるのは(我々同様に)大変キツかったという事だろうか?
山頂にはその死にかけた人の像があったらしいが、見る事は出来なかった。 残念!

伊吹山は、奈良時代に役行者によって開かれた霊山で、
山頂には天台宗大乗峰伊吹山寺(覚心堂)が建てられており、日本七高山霊場とし
て今でも修験者を始めとした多くの人達に信仰されているそうだ。

又、更に古くは、数千万年前に海底火山が噴火して出来た山だそうで、その時代の
さんご礁の名残りが頂上の山小屋前にも残っているそうだ。