里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

男声合唱団“コール・フロイデ”

2008年11月30日 | その他
在職中の大先輩がアマチュアコーラスを指導していると話には聞いていたが、その
発表会があるというので聞きに行って来た。

すると、その大先輩の他にもう一人の先輩も居て、その上驚いた事に娘が小学生だ
った当時の担任の先生まで居た!

(I先生を挟んで、I先輩とM先輩)

2時間に及ぶ公演の後、ロビー・コーラスのサービスまであったが、先輩達のお元
気な姿に感心した!  かくありたいの思うのだが……!?



式内社・高諸神社の摂末社

2008年11月29日 | 神 仏

高諸神社の境内にも、田盛神社、水神、弁財天(闇龗)、加佐守神社(大己貴命)、
王子神社、荒神社、稲荷神社などの小さな神社があった。 これらは摂末社と呼ば
れるそうだ。

それ以外にも、面白いものがあった。
大三嶋大明神・大宰府天満宮・金毘羅大権現・明治神宮などの拝礼所・遥拝所だ。
石柱に神社名を刻んであるだけの安上がり末社(?)で、現代風インスタント参拝
が出来ると言うわけだ!

極め付きは、本殿の裏手にひっそりと鎮座するこの神様だ!
備え付けの容器に入っている砂を疣に塗ると神の神威で治り、疣が取れた人は頂い
た砂の3倍くらいを容器に返す事になっているらしい。

神様が鎮座する場所が場所だけに、ひょっとして疣痔に効くのかと不敬な事を考え
ながら容器を覗いて見ると、砂はほんの僅かしか入っていない。 
利用する人がいないのか、或いは効果が無いのかつい気になってしまった!

摂末社(せつまつしゃ)(又は、枝宮・枝社)
神社本社以外に、その神社が管理している小規模な神社を併せて摂末社と呼ぶ。
一般的には、その神社の祭神と縁故の深い神を祀った神社を摂社と呼び、それ
以外の神を祀った神社を末社と呼ぶ。

式内社
延長5年(927年)にまとめられた“延喜式”に、当時官社とされていた全国の神社
名が載せられていて、これを延喜式神名帳と呼んだ。
この延喜式神名帳に記載されている神社を延喜式内社(又は式内社)と呼び、記載
されていない神社を式外社(しきげしゃ)と呼んだ。
延喜式神名帳に記載されている式内社は、官幣大社(198社)・国幣大社(155社)・
官幣小社(375社)・国幣小社(2133社)をあわせると全国で2861社ある。


高諸神社の伝承

2008年11月28日 | 神 仏
家内が友人の車を譲って貰ったので、名義変更手続きに行って来た。
何と、車検証・住民票・印鑑を持参し、申請用紙代35円を支払うだけでいとも簡
単に済んでしまった! 業者に依頼すると2万円くらいかかるらしい?
「行って来てあげる」とすすんで引き受けたのだが、その実は予てから松永・今津
町の“高諸神社の伝承”が気にかかっていたので、行って見たかったからだ。

この神社、古山陽道の南に建てられ、その直ぐ南には国道2号線が走っている。

嘗ては松永湾の出島だった場所に建てられているそうで、拝殿と本殿は一段と高い
所にある。  石段の両脇には、大正14年に建てられた高さ6mの二つの大きな
標柱があり、「赫矣威靈傳寶劔」、「巍然廟宇帯郷雲」と刻まれている。
「霊力のこもっている御神体の劔は光のように輝いている」
「高い所に建っている社には平和の印である雲がかかっている」の意味だそうだ。

石段を上ると立派な拝殿があり、その奥にはこじんまりとした本殿(→)があった。
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由緒を読むとこれが面白い。
「新羅の王子が、676年に戦乱を避けて日本に向かう途中に遭難し、当地で助けら
 れたが1年後に死亡した」と書かれている。

当時の朝鮮半島は、唐の援軍を得た新羅が、
・660年に百済を滅ぼし、
・663年に白村江の戦いで百済・倭国連合軍を破り、
・668年に高句麗を滅ぼし、
・670~676年にかけて、旧百済領を占領していた唐を追い出し朝鮮半島をほぼ統一
 した時代だ。
この最後の唐を追い出す大事な局面で王子たるものが戦乱を避けて逃げ出すとは妙
な話だ。しかも暫く前に戦った相手の倭国を目指すとはますます解せない!
ひょっとしてかの王子、唐の側についていたので亡命せざるを得なかったのだろうか?

由緒のもっと面白いくだりはその次だ。 助けた田盛の夢枕に立ち、
「我は須佐之男命なり、新羅の国王に降誕し、日本を慕ってやって来た」
と告げたそうだ。

須佐之男命といえば、
姉の天照大神に高天原を追放され、出雲の鳥髪山(現在の船通山)に降り立って
八岐大蛇を退治し、大蛇に喰われる事になっていた櫛名田比賣を娶って大国主命
などを産ませたという神だ。
この神があろう事か、新羅の国王に生まれ変わって日本へやって来たというのだ。
ここまで来るともうハチャメチャの神話の世界で、私のコンピューターでは処理不
能だ!

伝承では、須佐之男命の佩劔が本殿地下に埋められているそうだが、未だ見た人は
居ないそうだ。 本殿から地下に通ずる穴が開いているというし、一寸ファイバー
スコープで覗いて、ハチャメチャ君の話が本当かどうか確かめてみたい気がする!

境内には、柏の神木があったが枯れてしまい、神社南側には目通り周囲3.7m、地
上2mで分岐した樹高約10mの巨木(→)が残っていて、福山市の天然記念物に
指定されている。 柏はイブキビャクシンともいい、海岸地方に多く自生する樹木
でこれだけの巨木は県下でも有数という。 いずれにしても歴史の古い神社である
事は間違いない!
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諸神社(お劔さん)の由緒
祭神:須佐之男命、劔比古神
由緒:旧沼隈郡内で三座の一つに挙げられ、全国でも数少ない格式の高い延喜式
   式内社。 中古には大劔明神と称された。
   「水野記」によると、神辺城主  忠興が古志豊清を攻めた際に炎上した為
   天文14年(1545年)に古志豊清が再興した。
   承応 3年(1654年)福山城主水野美作守が社殿を再建。
   明治に至り、社名を旧称の諸神社に復す。
   現在の社殿は大正2年に再建されたもの。
伝承:天武天皇白鳳5年(676年)に新羅王子が戦乱を避けて日本へ向かう途中に
   遭難し、今津の海岸に漂着した。
   今津の庄司(当時の庄屋のような職)田盛が王子を助け、西の山上に御殿を
   建て手厚く看病したが翌年に没す。
   次の年、田盛の夢枕に新羅王子が現れ、
   「我は須佐之男命なり、新羅の国王に降誕し日本を慕ってやって来た。
    祠を構え、我が佩劔を祀れ」
   と告げたという。
   田盛は早速この地にお宮を建て、佩劔をご神体とし“大劔明神”として祀っ
   たが、今でも“お劔さん”と呼ばれ1330年余連綿として信仰されている。


たらたら飲んで、食べて、何もしない人

2008年11月27日 | 政 治
フラフラ遊びまわっていたら何時の間にか冬がやって来てしまい、大慌てでジャガ
イモ堀り・タマネギの植え付け・西条柿の収穫などを済ませた。

そこへ、この「たらたら飲んで、食べて、何もしない人」報道だ。
私もこの部類の人種で、普段から気にしていただけに「グサッ!」と堪えた!

麻生首相は、
「ふしだらな生活をしないで、病気の予防をきちんとすべき」という趣旨だと釈明
し、「病にある人の気分を害したなら、その点はおわびする」と陳謝したが、
「たらたら飲んで、食べて、何もしない人の医療費の分まで何で私が払うんだ」
と言ってしまっちゃあお終いだ!

普段そう思っているからつい口に出るのか、それとも舌足らずで誤解を招いてしま
うのか定かではないが、漢字の誤読といい、コロコロ変わる発言といい、今回のよ
うな舌禍といい、随分“軽い人”の感じがしてしまう。

世の親達は「漫画ばかり読んでいると、あんな人になってしまうよ!」と子供達を
たしなめているそうだ!


雪に消えた道後山!

2008年11月21日 | 
11/19 の“里山講座”は県北・道後山の予定だったのだが、積雪の為に急遽黒滝山、
白滝山に変更されてしまった。
 
道後山の雪景色が撮影できると期待していたのだがガッカリだ! 
しかし、弁当も作って貰った事だし、気を取り直して参加した。

今回は、一昨年の4月にゲンカイツツジを見に行った時とは逆に、先ず黒滝山側か
ら登った。 竹原市の忠海駅から見上げると、標高(270m)は低いが山頂にかけて
はかなり急だ。

麓の登山口で“黒滝山”の由来を読むと、今から1300年近くも前に立ち寄った行基
が、夢で「山上に菩薩像を祀り、衆生を救済せよ」とのお告げを受けて開山し、山
の名前を“黒滝山”と名づけたという。

以来、ミニ西国三十三ヶ所霊場などが設けられ“くろたきさん”の名で親しまれて
いるだけでなく、市民の格好のハイキングコースになっているそうだ。

という訳で至る所に観音像が建てられており、“乃木将軍腰掛岩”や“幸福の鳥居”
というのもあった。 
「この鳥居をくぐると幸せになれる!」「つまりメタボは不幸の元よ!」と、ワイ
ワイ騒ぎながらあっという間に頂上直下の観音堂に着いた。

次は白滝山(標高:350m)。
山頂直下には、龍泉寺という小泉氏(小早川氏の一族)の氏寺があった。
山門→本堂山頂の磨崖仏のある岩
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山頂の巨大な花崗岩の壁面には、江戸時代初期の作と伝わる十数体の等身大仏像が
彫ってあったが、規模が大きくて有名なのだそうだ。

不遜にも、この磨崖仏が彫ってある大岩の上で眼下の景色を見ながらお弁当を食べ
たが、県北は雪だというのに流石は瀬戸内海、長閑なものだった!

帰りは、この龍泉寺から三原の小泉町に向かって車道を下り、竹原の“簡保の宿”
の温泉で一風呂浴びた。 ご機嫌な一日だった!



初氷

2008年11月20日 | 野 菜
今朝起きてみて驚いた。
何と、スイレン鉢に厚さ3mmの氷が張っていた。 今冬の初氷だ!

この急な冷え込みに急いでカボチャを収穫したが、残念ながらジャガイモは全滅した!
横着をして植えつけるのが遅れた上に、例年より20日以上も早く寒気が訪れたの
で芋が大きくなる前にこの有様だ。 今年の秋ジャガは収穫が望めそうにもない。

昨日、秋田では少し積雪があったそうだが、わが町でも雪花が散っていた。 まる
で東北並みの寒さだ!



広島・阿武山、三葉の松

2008年11月19日 | 
昨日、所用で広島へ行ったが、その近くに形の良い山があったので登って来た。
可部線梅林(ばいりん)駅の近くの阿武(あぶ)山だ。

標高586mでさほど高くは無いが、殆ど標高ゼロ地点からの登りで、しかもか
りの急勾配だったので息があがってしまったが、面白いものがあった。

一つは、“三葉の松”だ。 
松の葉は普通二葉か五葉だが、北米原産の松の中にはリギダマツ・テーダマツ・ス
ラッシュマツ(カリビアマツ)・ダイオウショウなどの三葉の松があるそうだ。
日本でもまれに三葉の松があり、その姿から「夫婦和楽・家内安全」を象徴していて、
黄金色の落ち葉は身につけると「金運」のご利益があるといわれているという?

夫婦和楽は別にして金運は大歓迎なので、日本の固有種だと勝手に決め込んで落ち
葉を少し持ち帰ったが、ご利益を大いに期待している!

二つ目は、中腹から山頂まで点在する三つの小さな石造の祠だ。
何でも
阿武山中腹には昔、何千年も生きている大蛇が住んでいて人里に下りて来ては荒ら
しまわっていたといい、見かねた八木城主の香川光景が1532年に家臣の香川勝雄
(当時18歳)に大蛇退治を命じたところ、香川勝雄は見事退治して一躍勇名を馳せ
たという。
この時、頭・胴・尾に切断された大蛇を祀ったのが、この石造の祠だといわれている
そうだ。

山頂の祠には「貴船神社」と書かれており、そうすると祭神は水を司る高龗神とい
う事になるので、マア本当の所は雨乞いなどをする為に祀られたものであろう?
中腹の“尾の祠”その上の“胴の祠”山頂の“頭の祠”

ようやく頂上に着いたが、南には広島の市街と広島湾が一望でき爽快だった!



相方(さがた)城

2008年11月18日 | 歴 史
大佐山の運動公園から、神谷川・新市の町を挟んで南西の方角に城山が見える。


昔、その山頂には山城があったと聞いていたが、新市歴史民族博物館にその相方城
模型が展示してあったのを見て早速行って見た。
すると、そこには嘗てのお城の代わりにTV電波中継塔が我が物顔に立っていたが、

嘗て、標高191mのこの山頂には、東西約1000m・南北約500mの範囲に城郭が分布
する大規模な山城があったのだそうだ。

(相方城模型と城郭配置図) ※相方城模型は新市歴史民族博物館所蔵のもの

今でも、特に東曲輪群の本丸跡に郭3・2、郭4・5などの石垣が残っている。
(左手前が郭3、奥側が郭2)(左が郭4・右が郭5)

このお城、宮氏・有地氏・毛利氏が支配したそうだが、
西曲輪跡に立つと、古山陽道が走る府中市(北西)や新市町(北~北東)が手に取
るように見え、

東曲輪跡に立つと、北~北東の新市町に加え、東には山陽道が走る神辺平野まで
一望でき、この交通の要衝に位置する城山が軍事的に重要だった事が良く分かる。

嘗て備後国一帯では、尼子氏と大内・毛利氏との間で幾たびもの戦いがあり、各地
の領主達もあっちについたり、こっちについたり忙しかったらしい。
この地を支配していた宮氏は尼子氏について結局滅ぼされ、その後の支配者・毛利
氏も周防国・長門国に転封となり、この相方城も結局廃城となったという。

空しいものだが、その城門だけは移設され今でも新市町内の素戔嗚神社に残っている。
関ヶ原以前の城門は、こ神社の2棟と島根県益田市に残っているだけで貴重なのだそ
うだ。



相方城の由来
・芦田川を挟んで北側に見える亀寿山(標高:139m)を本拠地として備後南部に
 勢力を持っていた国人領主の宮氏や、相方城より南の地域を本拠地としていた
 宮氏一族の有地氏などにより、16世紀前半には中世山城として整備されていた。
・天文21年(1552年)に宮氏が滅んだ後は、有地一族が出雲国や備後国北部に
 給地替えされるまで、相方城を拠点に当地を支配していた。
・その後は、毛利氏の直轄城となり、東方備えを目的とした近世城郭として整備さ
 れたが、関ヶ原の戦いによる毛利氏の撤退によって廃城となった。


備後絣の祖、富田久三郎

2008年11月17日 | 歴 史
先日福山市の広報誌に、備後絣と呼ばれる織物を広めた富田久三郎という人を紹介
していた。

備後絣といえば、嘗て伊予絣・久留米絣と並んで日本三大絣といわれたほど有名で、
私の家の近所でも何軒も業者が居たものだが、やがて着物を着る習慣がなくなるに
連れて全部廃業してしまった。
しかし、新市町の“カイハラ”という業者はその後のジーンズの流行に乗っかり、
今や中国やアメリカの何倍もの価格でも売れるジーンズ製造の世界的な会社に成長
したという。

そこで、世界を席巻するこの技術の礎を築いた、この富田久三郎という人の業績を
知る為に、先週土曜日に“新市歴史民族博物館”を訪ねた。

館内には、遺跡から出土した遺物やそれを説明するパネルが各時代ごとに整然と展
示してあり、その一角には富田久三郎翁の経歴のほか往時の絣関係の機器も展示し
てあった。(※以下、博物館の資料から引用した)

(富田久三郎翁の経歴)
・1828年、芦品郡有磨村有地(現在の福山市芦田町)に、富田又右衛門長安の
     次男として生まれ、少年時代農家の副業として機織(はたおり)を始める。
・1844年、阿波の人からヒントを得て「織絹法」から「浮織の法」を編み出し、
     伊予から伝わった高機(たかはた)を使い手挽糸で縞木綿を織った。
・1850年、更に絣の研究を続け「井桁織」を創始。 当時「谷迫紬」「有地紬」と
     呼ばれた。 
・1860年、府中に始めて入った30番手の唐糸を使って織り、「備後絣」と呼ばれた。
・1911年、84歳で亡くなるまで「備後絣」の研究と発展に尽くした。

(糸を紡ぐ糸車と絣)

(経括り機、経糸を括った部分は染め残って白い模様となる)

(織機類、染め上がった糸を織る機械)

これらの機械を使って絣を染めから織りまで体験する事も可能で、色々なサークル
も利用しているらしい。

何しろ、この富田久三郎翁の技術のお陰で、1960年(昭和35年)には備後絣の生産
量は全国の絣生産量の70%を占めたという。
その功績を讃え地元の絣生産者により多くの石碑などが残され、新市町内の素戔嗚
神社(天王さん)境内には“富田翁碑”なども建てられていて、
今でも「備後絣の祖」として多くの人々の尊敬を集めているそうだ。

今回はその一つ、この博物館から神谷川を隔てた対岸にある大佐山運動公園の一角
に建てられている銅像を見学した。

富田翁は今も運動公園の高みから若者達を見守っていてくれるように見えた。
このような大先輩を持ち、時を経てその技術を活かして生きて行ける子孫達の幸せ
を思わずにはいられなかった! 傍らにある銀杏や紅葉を一段と綺麗に感じた。

(翁と運動公園)



“県民の森”の花木達

2008年11月15日 | 野外講座

森には鳥達の食べ残した実が僅かに残っていたので、カマツカ・ヤドリギの実を横
取りして食べてみたが結構甘みがあった。

落葉樹はかなり落葉し、来春に備えてシッカリ葉芽や花芽をつけている。
これから厳しい冬を迎えるわけで、この蕾が開く来年の春まで野外講座は少し寂し
くなってしまう。 暫く花達とお別れだ!
公園センター