里山の山野草

里山と山野草の復活日記。

比婆山のブナ純林

2010年08月03日 | 花 木
広島県東北部のブナ林については、
 ・大万木山や猿政山では、昭和35年頃パルプ用に伐採され、
 ・吾妻山や道後山では、江戸時代に製鉄用に伐採されて殆どが失われたのに対し、
この比婆山は、伊邪那美命の御陵として信仰の対象であった事から、ここまで生き延び
る事が出来たという。
比婆山の170haに及ぶブナ林は、西日本有数のブナ林である事から、昭和37年に国の
天然記念物に指定されたというが流石に見事だ。

このブナは年平均気温が3.5~12.5℃の所に育つ植物だけに、氷河期には標高の低い所
や南の暖かい所へ逃げ出し、氷河期の終わる頃(今から1万年前)から元の場所に帰って
来たのだそうだ。 因みに比婆山の年平均気温は約10℃で盛岡市とほぼ同じだという。
一方、ブナの一生についてみると、約150年で成木となり、約250年で寿命が尽きると言
われているので、今の比婆山ブナ林は1万年前から40代も更新を続けて来た事になる
訳だ。

〔ブナの一生〕

嘗て製鉄原料やパルプ材として利用されたブナは、現代では次のような重要な役目を果
たしているという。 1万年も生き延びたこの豊かなブナ林、絶やすような事があってはな
るまい!
・1haのブナ林は、1年間に15~30トンの二酸化炭素を吸収し、10~20トンの酸素を放出
 して、巨大なガス交換器としての役割を果たしている。
・降った雨を蓄え、徐々に放出する事で緑のダムとしての役割を果たしているほか、落ち
 葉などが雨水を濾過して浄化する役目も果たしている。
・更にブナ林は、ストレスの多い現代人の保健・休養・レクレーションの場としても重要
 な役割を担っている。

ブナ、(ブナ科、ブナ属)
北海道南端の渡島半島以西で、年平均気温が3.5~12.5℃の所に育つ広葉の落葉高木
で、大きなものは樹高が30mに達する。
互生する葉は、卵形又は菱状卵形で、7~11対の等間隔の葉脈があり、縁には丸みのあ
る鋸歯(円鋸歯)がある。 若葉には葉の両面に柔らかい毛があるが、やがて葉脈以外
の部分は落ちてしまう。

〔ブナ林の植生の違いによる分類〕
ブナ林に生育する固有の植物に注目して、大きくは次の2種類に分類され、更に北から
南に向かって細分されている。
 ●日本海側のブナ・チシマザサ群団
  ○ブナ・アオモリトドマツ群集
  ○ブナ・オオバクロモジ群集
  ○ブナ・クロモジ群集
 ●太平洋側のブナ・スズタケ群団
  ○ブナ・イヌブナ群集
  ○ブナ・ミヤコザサ群集
  ○ブナ・ツクバネウツギ群集
  ○ブナ・シラキ群集

広島県東北部のブナ林については、ブナ・クロモジ群集に属しているものの、構成して
いる植物に若干の違いがあるので、次のように細分される。
  
〔広島県東北部に於ける、ブナの垂直分布とブナ・クロモジ群集〕



比婆山神話巡り

2010年08月02日 | 歴 史
庄原市のイベントカレンダーを見たら“比婆山神話めぐりと植物観察”というのがあり、
市役所の案内文を読むと、
『7月28日はミコトさん(伊邪那美命)の命日だといわれ、庄原市比和町の越原地区
 では比婆山へ参拝する風習があった』
『越原地区の集会所でおむすび作りを体験し、比婆科学教育振興会と越原の皆さんに
 よる比婆山神話の史跡や高山植物の解説を聞きながら登山をしていただきます』
と書かれており、面白そうなので昨日久し振りに野外講座に参加させて貰った。

自宅から庄原市街を通って約95km、ちょっと早目に集合場所の“ふれあいの里越原”
集会所へ着いてしまったので、直ぐ傍の小さな神社を訪ねると“比婆山神社”の扁額が
掛かっていた。 どうやら伊邪那美命を祀ってあるらしい。
集会所の北で雲を被る比婆山比婆山神社の鳥居

集会所に引き返して、“越原みこと会”の人の話を聞いてみると、昔はこの比婆山神社
から、北に見える比婆山の山頂まで神輿や太鼓を担いで登ったと言い、他の地区からも
それぞれ参道を歩いて登り参拝したそうだ。 越原地区からの比高は約614m、手ぶら
でも苦しいのに、昔の人はよほど丈夫だったらしい! 

〔各地域からの参道と色々な言い伝え〕

さて、定刻の9時が近づいたので、いよいよプログラム始動だ!
先ず、集会所の中で参加費1,500円を支払い、資料を受け取る。

集会所は、過疎地なのに小ざっぱりした造りだった!
次はおむすびだ。

自分で作り、竹の皮に包む。
中には2個入っていて、そのほかにタッパーに入った漬物とお茶2本を貰った。

おむすびは小学生の時に作った時以来久し振りで、ちょっと戸惑った。
吾妻山国民休暇村のマイクロバスで立烏帽子山の駐車場まで送って貰った。

昔のように麓から歩いて登るようだと、ここまででバテてしまうところだ。
現代人は軟弱だ。

駐車場には、岡山・福山・広島・山口ナンバーの車が停めてあり、盛況だ。
いざ、出発!

ブナ林の中は涼しくて気持ちが良い!
①千引岩
立烏帽子山の北側にある蛇紋岩のこの岩は、伊邪那岐命が黄泉軍を追っ払った後で伊邪那美命と対峙した場所で、
「あなたの人草を1日千人殺す」「それなら1日千五百人の産屋を立てる」と問答したと伝えられているとか。
まるで子供の喧嘩のようだが、ここがあの世とこの世の境という事らしい。
いよいよ黄泉の国ヘ入ったが、未だ比婆山の山頂にある御陵(伊邪那美命の墓)は遠い。
この比婆山は、伊邪那美命が眠る山なので“美古登山、みことやま”と呼ばれていたが、子の須佐之男命が“大婆々様の山”つまり“ヒーババの山”と呼んだ事から“比婆山”と名づけられたと伝えられている。
少し雲行きが怪しいが、植物の講義もあり、なかなか先に進めない。
比婆山山頂には伊邪那美命を葬った御陵があるとされ、周囲の3haもの平坦地は神域とされている。
又、南麓の熊野神社は本宮(遥拝所)、御陵は奥の院とされている。
 ③門 栂          
 ④飛越岩 
 ⑤命(みこと)神社と太鼓岩
 ⑥七本栂
 ⑦産子の岩戸
 ⑧御 陵
③門栂、飛越岩
南から登ってくる参道の両脇にある2本の栂(イチイ)の木は“門栂”と呼ばれ、聖域の門戸と伝えられている。
又、その西の少し下りた所へは“飛越岩”というのがあるそうだ。 
伊邪那岐命が逃げる時に飛び越えた岩で、“越原、おっぱら”の地名は追撃して来た黄泉軍を追っ払った事から生まれたと伝えられている。
石 碑
古来参拝が盛んであったものを、明治20年に政府が神陵と称する事を禁じた為に廃れたが、戦時中に徳富蘇峰らによって全国に知られるようになったという。
門栂の傍にある「神聖之宿処」と彫られた石碑は、その頃(昭和15年)に紀元2,600年を記念して建てられたものだ。
⑤命(みこと)神社
元は礎石の上にもっと大きな神社が建てられていたそうだが、今は見る影もない。
しかし、同行した神主さんに参加者一同はお祓いをして貰い、お札も頂いた。
その上、少し西に下った所から湧き出ている“護符の水”も頂いた。 
これで健康と幸運は疑い無しだ!
⑤太鼓岩
烏帽子の形をした巨石で、叩くと低い音がするという。
⑦産子の岩戸
今にも赤子を産み落とす姿に似ているからこの呼び名がつけられたと伝えられている。

又、「なきはた」や「血洗い池」とも呼ばれ、岩の上面に約30cmの穴があり、伊邪那美命がお産の時にこの水を産湯に使ったと伝えられている。
⑧御 陵
径64m、周囲約200mの大円墳とも伝えられており、真偽のほどは定かではないのにあちこちに案内板が立てられ、御陵も鬱蒼とした大木が生えていると、如何にも伊邪那美命が葬られているかの感じがしてしまう。
しかし、講師達の子供時代には、一帯に牛が放牧されていて大きな木以外はなく、相撲をとって遊んでいたともいう。
歴史上の事実か、それとも単なる“日本昔話”なのか興味は尽きない!

帰りは、熊野神社の鳥居をくぐり西城から東城へ回って帰ったが、走行距離約90km、
久し振りに楽しませて貰った。 感謝!