12月8日付けの日本経済新聞夕刊に載っていた、
哲学者の木田元氏のコラムに触発されて
太宰治が昭和14年9月に移り住み、ここで生涯を終えることになった
三鷹へ向かいました。
触発されたそのコラムには、
昭和16年12月8日の「あの日」について
木田氏ご自身の記憶と思いがつづられていました。
「もともと冷静な性格で、あまり時勢に流されるような言動の見られなかった父が、
その朝は妙に真剣な顔でいつまでも仏壇の前に坐っていたのが印象的だった。」
大本営陸海軍部発表の「西太平洋において米英軍と戦闘状態に入れり」という
ラジオから流れた例の放送を聞いてのことです。
これと同じような状況が、太宰の作品『十二月八日』に書かれています。
やはりこのラジオを聞いた、主人公の夫の様子です。
「隣室の主人にお知らせしようと思い、あなた、と言いかけると直ぐに、
「知ってるよ。知ってるよ。」
と答えた。語気がけわしく、さすがに緊張の御様子である。いつもの朝寝坊が、
けさに限って、こんなに早くからお目覚めになっているとは、不思議である。」
実は、雑誌「東京人」12月増刊で太宰治を特集していて、それを読んだ時から
三鷹へ行きたいなとぼんやり思っていたので、
今年は没後60年というし行ってみるか三鷹へ、という運びになったのです。
今年は没後60年、来年は生誕100年、加えて再来年は三鷹市の市制施行60周年を迎えるらしく
三鷹では太宰治を大フィーチャー中でした。
もし初めて三鷹で太宰めぐりをするなら、
「太宰治文学サロン」からスタートすると便利です。
ここは、「十二月八日」の中で、清酒の配給券をつかって隣組の面々で酒を購入するシーンで
出てくる酒屋「伊勢元」があった場所。
伊勢元酒店には太宰も通ったそうです。
ここにはボランティアのガイドさんがいますから、
太宰話に花を咲かせるもよし、
太宰ゆかりの場所を地図でなぞるもよし、
とても丁寧に教えてくれるので助かります。
ちなみにアタシはその日、太宰と山崎富栄が入水した玉川上水の
推定入水場所に置かれた鎮魂の玉鹿石(太宰の故郷・金木からおくられた)を見、
太宰が居たころのまま残っている三鷹駅の広い線路をまたぐ跨線橋にのぼり、
「太宰治」とかかれた墓の斜め向かいに「森林太郎」とかかれた墓のある禅林寺をたずね、
三鷹市美術ギャラリーで開かれている(21日まで)没後60年記念展をまわって来ました。
写真は、太宰の生きた三鷹にいまも流れる玉川上水。
草木がもっさりと生えていて、覗き込むとようやく水の流れが見えるほどです。
好きな太宰作品がたくさんありますが、こうしてゆかりの地を訪れて
何十年も前の風を想像しながら歩くと、また新たなインスピレーションが湧いてくる・・・
そんな思い込みができるのもまたよろしかな(笑)。