老人党リアルグループ「護憲+」ブログ

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司馬遼太郎と藤沢周平「歴史と人間」をどう読むか(佐高信 著)

2009-05-08 21:19:20 | 社会問題
著者の佐高信は、三人の作家を評して、「池波正太郎は職人」、「司馬遼太郎は商人」、「藤沢周平は農民」だと言っている。言い得て妙だと思う。

司馬遼太郎は「戦争」を描くとき、司令官、大将の視点で書き、藤沢周平は一兵卒の視点で描いていた。司馬遼太郎の上からの視点と藤沢周平の市井に生きる人の視点。どちらを好むかは読む人の嗜好であるが、この本の中で、1982年第一勧業銀行シンガポール支店で為替投機の失敗によって97億円にのぼる損失を出し、解雇された同支店資金課長のエピソードがある。彼は解雇され、さらにご家族の不幸も重なった時、司馬遼太郎の作品が読めなくなったという。その時むさぼるように読んだのは山本周五郎の作品だったという。

サラリーマンが時代小説に共感を寄せるのは、現代の企業社会が「松下藩」「トヨタ藩」と名前を変えてもいい程の封建社会だからだと佐高は述べている。そしてその封建社会を支えているのは誰なのか?司馬は「将」だとといい、藤沢は「一兵卒」だという。

藤沢の視点がよく現れているのが、彼の「信長ぎらい」というエッセイである。藤沢は信長の殺戮を「無力な者を殺す行為を支える思想、権力者にこういう出方をされては庶民はたまったものではない」と言っている。見事である。信長という時代小説の素材としてはかっこうの人物を批判し嫌うとは、佐高信が「心にオオカミを一匹飼っている」と評する藤沢らしいと思う。

司馬遼太郎の歴史小説に関しては、この本の中で、色川大吉が歴史小説と歴史叙述の違いについて鋭く述べている。司馬遼太郎は日本の近代を「明るい明治」と「暗い昭和」に分断し、そこからは見事に大正という時代と、大正デモクラシー、自由民権運動、などが抜け落ちている。私は以前、森まゆみ著の「断髪のモダンガール達」で大正という時代の女性達の活き活きとした生き方に触れ、大正という時代を見直した経験から、この色川の言葉には頷ける。

何故こんなに司馬遼太郎の歴史小説が好まれ、それによりあたかも歴史上の人物が小説の主人公とダブったような好感度を持たれるのか?歴史学と歴史小説を全く同じ表面で論じる危険性を、色川大吉は指摘している。

「歴史小説と歴史著述は全く違う。小説は自分が表現したいと思う理念を実現する為にフィクションを導入する事が可能であり、歴史家はそれをしない。仮説は提起するものの、わからない事実は分からないと言って残す」、そして「文学者は歴史上の人物を描く場合、人間の内部に立ち入って、それを深く掘り下げ、さらに広げて行くのに対し、歴史家は、その人間が置かれた歴史的規定性の方に重点を置いて叙述する」と彼は述べている。

歴史小説と歴史学、この二つをあいまいにしてはいけない。フィクションかノンフィクションかの違いと言ってしまえばそれまでだが、私が時々不思議に思うのは、司馬遼太郎の小説に限らず、NHKの大河ドラマの主人公だった信長や篤姫をヒーロー扱いし「ああいう人が今の日本のリーダーだったら‥」なんて真面目に言う人がいるということだ。信長や篤姫に対する好悪は置いておくとしても、あんなフィクションだらけのご都合主義の人物を、本当にリーダーにしたいのだろうかと不思議になる。

私は中学生の頃、父親の影響で司馬遼太郎の「燃えよ剣」や「新撰組血風禄」などを読み、沖田総司にあこがれた時代もあった。私の友人は、保守的な思考の人であるが、藤沢周平や山本周五郎などを好む。互いの思想信条とは反対の読書歴というのも面白いものである。

http://item.rakuten.co.jp/book/1440511/

「護憲+BBS」「明日へのビタミン!ちょっといい映画・本・音楽」より
パンドラ
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