中学のとき、教科書にこんなことが書いてあった。「昔、人間は球体で、頭は2個で手足は4本ずつあり乱暴であった。そこで神様が人間を弱体化するためにこれを真っ二つに切った。半分になった人間は、以来、自分の半身を恋しがって探し求めた。その欲求こそがエロスである」と。「ソフィーの世界」を読んでて、この話が出てきて、プラトンの「饗宴」に書いてある話だということで、「饗宴」は読んだことがあるがすっかり中身を忘れているので、早速キンドルでポチった(ポチればすぐ読める世の中である)。
プラトンの本に書いてある、ということは、ソクラテスが言ったことになってるんだな、でも、ソクラテス自身は本を一冊も残してなくて、実際、どこまでがソクラテスの言ったことで、どこまでがプラトン自身の考えなのか分からないんだよな、と思いつつ読み始めた。
驚いた。たしかに人間球体論が出てくるのだが、それは饗宴(宴会)に参加していたアリストファネスが語ったことだった。私はてっきりソクラテスの口を借りたプラトンの説だと思っていた。そう思わせた犯人は教科書?しかし、その教科書が手元にないから確認できない。だから容疑を教科書にかぶせるわけにはいかない(疑わしきは被告人の利益に)。もしかすると、教科書には正しく書いてあったのにそれをちゃんと読まなかったのかもしれない。
しかも、人間球体論はソクラテス(ソクラテスはディオティマという女性賢者から聞いたことを語っている)によって論破される。すなわち、エロスとは美しいものを永久に自分のものにしたいという欲求である。自分の元の半身であっても醜ければそれを欲することはない、と言うのである。自分を美しくない部類に入れている私のような遠慮の塊にとってなにやら立つ瀬のない話になりそうである。
さらにソクラテス(ディオティマ)は言う。人は、美しいものに近づくと穏やかになり喜びに満たされる。美しくないものに近づくと萎える(何が?って身も心もってことでしょう)。危惧したとおりの話の展開となった。ここに至り、私の立つ瀬は消え失せた。
なお、論破されはしたが、アリストファネスの語る人間球体論はなかなか面白い内容を含んでいる。それを紹介しよう。
球体だった人間は、行きたい方向にくるくる回って進むことができた。スターウォーズのエピソードⅦ以降に出てくる球体ロボット(BB-8)はこれがモデルであろうか。
神様は、球体だった人間を「髪の毛でゆで卵を切るように」切った。また、切り口をふさぐため、皮を引っ張ってきて「巾着のように」結んだ(その結び目がへそである)。現在のキッチンの様子が思い浮かぶ比喩である。
球体だった人間には男性、女性のほか第三の性、すなわち両性具有の者があった。この第三の性の人間は切断により男性と女性に分かれ、それぞれが元の半身を恋い焦がれるのであるから、それすなわち異性を恋い焦がれることである。だから、男性は女好きで女性は男好きとなる。しかも、彼らは浮気性である。これに対し、もともと男性又は女性のみだった人間が求める半身は同性であるから同性愛者となる。このように、異性愛と同性愛の存在は両方とも理の当然である。
球体だった頃、生殖器は体の外側についていた。ぶった切られた半身が元の半身と出会ってもただ抱き合うのみであった。神様はこれを哀れに思い、生殖器を内側=切断面に回してやった。これにより、ちょめちょめ(ふてほど的表現)が可能になり、人間は生き甲斐を得た。なんともご親切な神様である。
てな具合である。プラトンからすれば、ソクラテスが語ったこと=真理のことをもっと書けと言いたいところだろう。三面記事の方を好むという点で、私と教科書は同類である。
さて、饗宴の場がどんなだったかというと、部屋にはソファが並べられており、参加者はそこに横になり半身を起こして酒を飲む。カップルである男男は同じソファで体が触れるように横たわる。
かように、古代ギリシャにおいては同性愛は普通のことであったが、今日と違う特徴は、成年男子(おじさん)と少年がカップルになることであった。ソクラテスも大の少年好きだった。知恵者おじさんは美しい少年に語ることによって知恵を残すのである。これに対し、おじさん同士のラブは御法度であった。現在とは逆である。ソクラテスは神に対して不敬をはたらいたかどで刑に処せられたが、現在の日本においてなら、青少年育成条例違反でお縄になったところである。
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