ブッチャーが初来日したのが1970年8月だった。白いステテコのような空手着を履き、流血も辞さないファイトはまったくのノーマークだった。同時に来日したのはミスター・アトミック、ジャッキー・ファーゴ、カール・ハイジンガー、ミステリー・オレゴン、プリンス・ピューリン、ゲリー・モンティーとアトミック以外7選手中、6選手が初来日という、ある意味で画期的なシリーズ。
来日前からゴング誌が、ロスで活躍していたハイジンガーを外国人エースとして盛んに扱っていた。”殺人ロボット”とか、いかにもというニックネームを付けてだ。この印象があまりにも強いため、ダークホースだったブッチャーが不調のハイジンガーに代わり急浮上したかのような錯覚を長らくしていたのだ。
それがなぜ、錯覚だったかといえば、シリーズのパンフレットのトップに紹介されていたのがブッチャーだったからだ。ハイジンガーは4番目に載っていた。ブッチャーが1ページで、それ以外は1/2ページづつ。つまり日本プロレスは最初からブッチャーをエースとして捕らえていたのだ。それに来日の直前にハイジンガーは大木金太郎の持つアジア・ヘビー級王座にロスで挑戦し、敗れ去っている。大木に敗れたハイジンガーを、馬場の持つインター王座に挑戦させるはずはないのだ。
それほどゴング誌は外国人レスラーを自由自在にイメージ付けしていたのである。これは竹内宏介マジックなのだ。記憶とはあいまいで、私もすっかりハイジンガーがエース候補で、ブッチャーは来日してからのし上がったとばかり思っていたのだ。今やネットで世界中の出来事が何でも瞬時で伝わってしまうから、想像の部分が楽しめないが、40年前は専門誌が書いたり、紹介したことが最大の情報源。だからブッチャーは無名だったが、当初から日本プロレスはその可能性を見抜いていたのであろう。
来日前からゴング誌が、ロスで活躍していたハイジンガーを外国人エースとして盛んに扱っていた。”殺人ロボット”とか、いかにもというニックネームを付けてだ。この印象があまりにも強いため、ダークホースだったブッチャーが不調のハイジンガーに代わり急浮上したかのような錯覚を長らくしていたのだ。
それがなぜ、錯覚だったかといえば、シリーズのパンフレットのトップに紹介されていたのがブッチャーだったからだ。ハイジンガーは4番目に載っていた。ブッチャーが1ページで、それ以外は1/2ページづつ。つまり日本プロレスは最初からブッチャーをエースとして捕らえていたのだ。それに来日の直前にハイジンガーは大木金太郎の持つアジア・ヘビー級王座にロスで挑戦し、敗れ去っている。大木に敗れたハイジンガーを、馬場の持つインター王座に挑戦させるはずはないのだ。
それほどゴング誌は外国人レスラーを自由自在にイメージ付けしていたのである。これは竹内宏介マジックなのだ。記憶とはあいまいで、私もすっかりハイジンガーがエース候補で、ブッチャーは来日してからのし上がったとばかり思っていたのだ。今やネットで世界中の出来事が何でも瞬時で伝わってしまうから、想像の部分が楽しめないが、40年前は専門誌が書いたり、紹介したことが最大の情報源。だからブッチャーは無名だったが、当初から日本プロレスはその可能性を見抜いていたのであろう。