クラッシュ人気が爆発する前に全女軍団は、3週間の沖縄巡業に出た。この時はTV中継や、初のビデオ発売でクラッシュの取材があり、私も沖縄に飛び立った。その頃、基本的に私の仕事内容は、事務所でデスクワークが主な役割だった。興行用のポスター、チケット、優待券の企画、デザインを始め、選手の試合以外のスケジュール調整も行っていた。マッチメークは多少、口を出す程度だがプロレス頭のあるのは私だけだから、タイトルマッチの記録や状況などを察し、松永国松さん(故人)にしきりに助言していた。
沖縄はかつてアメリカの植民地だったため、街の匂いが違っていた。どこか開放感があり、食べ物も本土とはかなり違ったように映ったのだ。ハテノ浜でのロケでは3~4時間、上半身裸でいたため体全体が真っ赤になり、日射病のような状態になった。千種も飛鳥も同様で、皮膚が被れとても試合が出来る状況ではない。それこそ、受身を取ったらそれだけで痛くて、響くというものだ。しかし試合を休むわけにはいかない。ビデオのロケが原因で休むことなど許されないのだ。「痛っ!」と叫びながらも試合には出場したのだった。私はクラッシュ以外にも選手を連れ出して、撮影した。当時はまだまだ、バリバリのカメラマンであり、感性は衰えてはいなかった。デビル雅美をお城の近くで撮影したり、選手全員をビーチで撮ったりもした。たまの旅は刺激があっていい…
東京に戻ると、フジテレビの中継が月曜日の午後7時から、30分間のレギュラー枠になることが決まっていた。これは実に5年ぶりのゴールデンタイム進出だった。ビューティ・ペア時代以来となるこの事態は、女子プロレスをさらに好転させていった。午後7時からということは、10代のティーンエージャーが自然に目にする時間帯だ。よく女、子供からブームが起きると言われるが、この時間帯なら急速に復興できる。それも地道なクラッシュ人気がじわじわと浸透してきた賜物だ。
クラッシュを結成してから、よく地方都市に二人と行ったが、「今は誰にも振り向かれないけど、いつか街を歩けないほどの人気を得てやる…」とそんな気持ちで、街を歩いたことがあった。それが本当にやってきたのだ。私にとってクラッシュは同志だった。一介の広報担当だった私だが、クラッシュの現場マネジャーを任されてから一緒に台頭してやろうと企てていたから、そのチャンスが到来したのだ。
▲沖縄の旅で撮影したもの。
沖縄はかつてアメリカの植民地だったため、街の匂いが違っていた。どこか開放感があり、食べ物も本土とはかなり違ったように映ったのだ。ハテノ浜でのロケでは3~4時間、上半身裸でいたため体全体が真っ赤になり、日射病のような状態になった。千種も飛鳥も同様で、皮膚が被れとても試合が出来る状況ではない。それこそ、受身を取ったらそれだけで痛くて、響くというものだ。しかし試合を休むわけにはいかない。ビデオのロケが原因で休むことなど許されないのだ。「痛っ!」と叫びながらも試合には出場したのだった。私はクラッシュ以外にも選手を連れ出して、撮影した。当時はまだまだ、バリバリのカメラマンであり、感性は衰えてはいなかった。デビル雅美をお城の近くで撮影したり、選手全員をビーチで撮ったりもした。たまの旅は刺激があっていい…
東京に戻ると、フジテレビの中継が月曜日の午後7時から、30分間のレギュラー枠になることが決まっていた。これは実に5年ぶりのゴールデンタイム進出だった。ビューティ・ペア時代以来となるこの事態は、女子プロレスをさらに好転させていった。午後7時からということは、10代のティーンエージャーが自然に目にする時間帯だ。よく女、子供からブームが起きると言われるが、この時間帯なら急速に復興できる。それも地道なクラッシュ人気がじわじわと浸透してきた賜物だ。
クラッシュを結成してから、よく地方都市に二人と行ったが、「今は誰にも振り向かれないけど、いつか街を歩けないほどの人気を得てやる…」とそんな気持ちで、街を歩いたことがあった。それが本当にやってきたのだ。私にとってクラッシュは同志だった。一介の広報担当だった私だが、クラッシュの現場マネジャーを任されてから一緒に台頭してやろうと企てていたから、そのチャンスが到来したのだ。
▲沖縄の旅で撮影したもの。