今週号の週プロで「ジャンボ鶴田アルバム」なる全24ページの特集企画があった。生きていたなら、まだ60歳手前。本当にエリート中のエリート・レスラーだった。ミュンヘン五輪のアマレス代表からプロ入りし、大学卒業後ファンクスの元で英才教育され、凱旋帰国後すぐさまジャイアント馬場のパートナーとして、メインイベンターの仲間入り。前座経験を全く知らない珍しい選手だった。アマリロ修行中は、トミー鶴田のリングネームで活躍していたから、凱旋後にどこかのホテルで偶然出くわした際、「トミー鶴田」でサインをせがんだ事があった。
写真のジャンピング・ニーパットは、私が写真専門学校時代に撮影したもの。無論、勝手にリングサイドに潜入し撮ったのだ。若かりしジャンボの躍動感が伝わっている写真と自画自賛する次第だ。1回、デラックス・プロレスの取材でミミ萩原と合わせたことがあった。担当者はかのターザン山本さんで、全日本プロレスを通さず個人的にアポを取り取材。こんな事今では絶対ありえない話だが、昭和の時代は公然の出来事だった。一緒に六本木の「レキシントン・クイーン」というディスコ(今で例えるならクラブ)に行ったことを覚えている。あの時代、普通にディスコに行くレスラーはジャンボくらいのものだっただろう。プロレスラーらしからぬ、いかつい感じがまったくしない人だった。今や、アイスリボンのりほちゃんがジャンピング・ニーパットを駆使し、「オー!」を連発している。必殺技は継承されるのだ。
写真のジャンピング・ニーパットは、私が写真専門学校時代に撮影したもの。無論、勝手にリングサイドに潜入し撮ったのだ。若かりしジャンボの躍動感が伝わっている写真と自画自賛する次第だ。1回、デラックス・プロレスの取材でミミ萩原と合わせたことがあった。担当者はかのターザン山本さんで、全日本プロレスを通さず個人的にアポを取り取材。こんな事今では絶対ありえない話だが、昭和の時代は公然の出来事だった。一緒に六本木の「レキシントン・クイーン」というディスコ(今で例えるならクラブ)に行ったことを覚えている。あの時代、普通にディスコに行くレスラーはジャンボくらいのものだっただろう。プロレスラーらしからぬ、いかつい感じがまったくしない人だった。今や、アイスリボンのりほちゃんがジャンピング・ニーパットを駆使し、「オー!」を連発している。必殺技は継承されるのだ。