1964年2月9日生まれ、イタリア・マラン出身。178㎝、70kg (得意技)ジャーマン・スープレックス、パワーボム
ご存知、女子プロレスの世界でAWA、WWF、WCWと唯一3つの世界チャンピオン・ベルトを巻いた90年代のトップレスラー。少女時代にイタリアから、アメリカのミネソタ州ミネアポリスに移住。エディ・シャーキーのレスリング・スクールで学び、86年3月にAWAでデビューした。
斬新でセクシーなコスチュームで評判となり、87年12月にはラスベガスでキャンディ・デバインを破り、AWA世界王座を獲得。89年1月に全女マットに初来日した。緒戦で長与千種を破りIWA王座を強奪。長身で美人、それにワンレガーのコスチュームのインパクトはすごく一夜にして、日本でその存在を確定してしまったのだ。まさに、その登場は衝撃的で誰もがメドゥーサの妖艶さと、不思議な魔力に魅せられていった。私はその時からの付き合いになるが、メドゥーサのことをいったい、何回書いたのだろうか。そのプロ根性は見上げたもので、けして器用ではないが大変な努力家だった。そして誰よりも、出世欲は旺盛だったから、当時の日本で、私を味方に付けておけば先行きは安心くらいの策略はあったと思う。
私はメドゥーサが日本でのサクセスを求めていたから限りなく協力したし、マネジャーのような存在としていろいろ手を回したりもした。写真集、イメージビデオ、CD発売と信じられないほどプロモーションをしたものだ。写真集ではグアムに行ったし、イメージビデオでは沖縄に行った。いつも一緒に行動したし、試合のアドバイスも数え切れないほどした。最終的にはセクシー路線がイマイチ受けないことで、ナチュラルな強さを出すため、格闘技戦もやらせてみた。ここでメドゥーサの本領が発揮できて、マスコミ公開のスパーリングなのに長谷川咲恵の歯を打ち砕いたりもした。
2年間の専属契約を終えると、メドゥーサはWCWでマネジャー役として新日本に来日し、亡くなったリック・ルードを盛り立てていた。その後はWWFに転出し、アランドラ・ブレイズという名前になった。メドゥーサの名は自分自身のライセンスだと主張したからアランドラなんて名前が付けられた。アランドラになったメドゥーサは、自分のライバルとして全女の選手を指名した。「オガワさんがいるから、ゼンジョのレスラーをブッキングしてもらった…」なんて言ってくれたりもした。
94年11月20日に開催した東京ドーム大会ではVIP待遇でアランドラを招聘した。飛行機はファーストクラス、ワンマッチのギャラは1万ドルという破格の条件を出したのだ。だがメドゥーサはアランドラに成り切れず、その後はWWFを電撃退団。ライバル団体WCWのTVテーピングにやってきて、WWFのチャンピオン・ベルトをゴミ箱に捨てるという大胆な行動に出た。私は95年11月にアメリカに行った際「もう、ここは長くないから…」とメドゥーサに聞かされていたが、1カ月もしないうちに行動に出たのだった。
あれから、13年も会っていない。知り合いが昨年、アメリカで会った時に私宛にある資料を渡されたという。それは「モンスター・トラック」という大型トラック・レースのものだった。私にはもう、メドゥーサをサポートする力はないのに…。
ご存知、女子プロレスの世界でAWA、WWF、WCWと唯一3つの世界チャンピオン・ベルトを巻いた90年代のトップレスラー。少女時代にイタリアから、アメリカのミネソタ州ミネアポリスに移住。エディ・シャーキーのレスリング・スクールで学び、86年3月にAWAでデビューした。
斬新でセクシーなコスチュームで評判となり、87年12月にはラスベガスでキャンディ・デバインを破り、AWA世界王座を獲得。89年1月に全女マットに初来日した。緒戦で長与千種を破りIWA王座を強奪。長身で美人、それにワンレガーのコスチュームのインパクトはすごく一夜にして、日本でその存在を確定してしまったのだ。まさに、その登場は衝撃的で誰もがメドゥーサの妖艶さと、不思議な魔力に魅せられていった。私はその時からの付き合いになるが、メドゥーサのことをいったい、何回書いたのだろうか。そのプロ根性は見上げたもので、けして器用ではないが大変な努力家だった。そして誰よりも、出世欲は旺盛だったから、当時の日本で、私を味方に付けておけば先行きは安心くらいの策略はあったと思う。
私はメドゥーサが日本でのサクセスを求めていたから限りなく協力したし、マネジャーのような存在としていろいろ手を回したりもした。写真集、イメージビデオ、CD発売と信じられないほどプロモーションをしたものだ。写真集ではグアムに行ったし、イメージビデオでは沖縄に行った。いつも一緒に行動したし、試合のアドバイスも数え切れないほどした。最終的にはセクシー路線がイマイチ受けないことで、ナチュラルな強さを出すため、格闘技戦もやらせてみた。ここでメドゥーサの本領が発揮できて、マスコミ公開のスパーリングなのに長谷川咲恵の歯を打ち砕いたりもした。
2年間の専属契約を終えると、メドゥーサはWCWでマネジャー役として新日本に来日し、亡くなったリック・ルードを盛り立てていた。その後はWWFに転出し、アランドラ・ブレイズという名前になった。メドゥーサの名は自分自身のライセンスだと主張したからアランドラなんて名前が付けられた。アランドラになったメドゥーサは、自分のライバルとして全女の選手を指名した。「オガワさんがいるから、ゼンジョのレスラーをブッキングしてもらった…」なんて言ってくれたりもした。
94年11月20日に開催した東京ドーム大会ではVIP待遇でアランドラを招聘した。飛行機はファーストクラス、ワンマッチのギャラは1万ドルという破格の条件を出したのだ。だがメドゥーサはアランドラに成り切れず、その後はWWFを電撃退団。ライバル団体WCWのTVテーピングにやってきて、WWFのチャンピオン・ベルトをゴミ箱に捨てるという大胆な行動に出た。私は95年11月にアメリカに行った際「もう、ここは長くないから…」とメドゥーサに聞かされていたが、1カ月もしないうちに行動に出たのだった。
あれから、13年も会っていない。知り合いが昨年、アメリカで会った時に私宛にある資料を渡されたという。それは「モンスター・トラック」という大型トラック・レースのものだった。私にはもう、メドゥーサをサポートする力はないのに…。