”大巨人”、”一人ガリバー旅行記”、”世界8番目の不思議”などの代名詞を持ったアンドレ・ザ・ジャイアントは、70年代から80年代に掛け世界で最も売れっ子のレスラーだった。何しろWWFと契約しながら、ビンス・マクマホン・シニアがその身柄を束縛せず、各テリトリーに出場させていたという。アンドレはどこの団体でも、特別待遇だったのだ。
私は国際プロレス時代のモンスター・ロシモフから見ていたが年々、体が巨大化していき、大物の風格を身に付けていった。昭和46年の「IWAワールド・シリーズ」で、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチを抑え、優勝を果たしたのだから、日本での出世が始まった。
昭和49年に新日本プロレスに来日後は、すっかり貫禄が付きスケール感が違ってきた。18文キック、ヒップドロップ、フライング・ボディプレスはまさに圧巻。日本人嫌いと言われたが、初期はよくサインもしてくれたものだ。私はアンドレ、ロシモフ、ジーン・フェレ(デビュー時の名前)と3種類のサインを貰ったことがあった。
WWFでハルク・ホーガンと世紀の一戦を終えると、全日本プロレスに参戦。馬場さんと”巨人タッグ”を結成。プロレス生活を謳歌していたのだ。アンドレよりも身長が高い、エル・ヒガンテ、ジャイアント・シウバも出現したが、アンドレを越えることはできなかった。
▲ファンに対し、こんなポーズもしてくれた。
私は国際プロレス時代のモンスター・ロシモフから見ていたが年々、体が巨大化していき、大物の風格を身に付けていった。昭和46年の「IWAワールド・シリーズ」で、ビル・ロビンソン、カール・ゴッチを抑え、優勝を果たしたのだから、日本での出世が始まった。
昭和49年に新日本プロレスに来日後は、すっかり貫禄が付きスケール感が違ってきた。18文キック、ヒップドロップ、フライング・ボディプレスはまさに圧巻。日本人嫌いと言われたが、初期はよくサインもしてくれたものだ。私はアンドレ、ロシモフ、ジーン・フェレ(デビュー時の名前)と3種類のサインを貰ったことがあった。
WWFでハルク・ホーガンと世紀の一戦を終えると、全日本プロレスに参戦。馬場さんと”巨人タッグ”を結成。プロレス生活を謳歌していたのだ。アンドレよりも身長が高い、エル・ヒガンテ、ジャイアント・シウバも出現したが、アンドレを越えることはできなかった。
▲ファンに対し、こんなポーズもしてくれた。