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旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

映画「MINAMATA」に行きました。

2021-11-10 17:53:58 | 日記
 若い頃、公害として四日市喘息などと共に知っていました。当時は産業育成がお国の優先事項だったから工場の煙で昼間でも車はライトをつけて走っていた。
写真が好きでキャパや沢田の写真集を持っていました。あれから50年、昨年だったかスミスの本の事で私の古い本にはあるが新しい本には有名な「母と子の入浴」が掲載されていないことを知りました。今回の映画では、終わり頃にこの情景も出て来ました。あの写真のインパクトはとても強い。
良い映画を見ました。


 知り合いに荒畑寒村を尊敬する人が居てよく話をされていたので興味を持ち足尾銅山の鉱毒公害と田中正造の運動を知りました。渡良瀬川渓谷鉄道に乗り日光の方に向かうとはげ山に植林が行われていました。
水俣では未だに公害病と認められない人達がいるとのこと。広島の黒い雨訴訟とかまだまだ救われない人達が居る。
何時か水俣へ行ってみたい。



映画「護られなかった者たちへ」を見に行きました。

2021-11-09 21:33:45 | 日記
 原作は早々に犯人がある程度推定できた、映画は原作と異なっていたが見応えのある社会性の作品になっていた。疑似家族が壊れていった様は「万引き家族」にもあった。万引きは最後救いがなかったが、この映画は阿部寛がお礼を言う場面で救われる。
 

シングルマザーや自死のことも作品内に入れられ、児童養護施設もあった。今年まで18歳で支援が終わり出身者の孤独が心配されていた。我が家に来た何人かの子供達はと思って・・・・、来年からは22歳まで支援が続くと聞いて日本も少しづつ優しくなっているのかと思った。
良い映画でした。



映画「アウステルリッツ」と次の期待映画

2021-03-10 16:53:24 | 日記
 アウステルリッツと言えばナポレオン戦争と反射的にイメージされているが、この映画はベルリンの近くの「ザクセンハウゼン強制収容所跡」を訪れる観光客の映像。淡々と見学をしている人達の映像が続き、ツアーガイドの様々な言語で語られる説明がテロップに表示され、収容所の歴史や事柄が分かるようになっている。
珍しいドキュメンタリー。


KZのドキュメントは「ショアー」と言うのがあった、長い映画で映画館で見ている人は数人だったがインタビュー中心の印象に残るものだった。

ン十年前に行ったダッハウやベルゲンベルゼンの自分自身ではないかと思ったりする。
映画名の「アウステルリッツ」は出てこなかった。映画の元になる本の人物らしい。
 
予告編で興味深い予告映像を見た
尼崎の在宅医師長尾先生のドキュメンタリーと「痛くない死に方」。昨年までの数年間ボランティアでお手伝いしていた尊厳死協会でよく聞いた内容かと思う、見てみたい。



東日本大震災から10年 祈る気持ちで11年前の「田老の写真」

2021-03-08 22:27:14 | 日記
60年も前に初めて記念切手を買いました。北山崎の絵柄の5円切手でした。あの頃子ども達に切手収集のブームがありました。
そして何時かこの場所へ行こうと思っていました。
また、近くに万里の長城のような堤防があるところがある。とも聞き及んでいました。


吉村昭さんの本を読み、2010年7月に夢を叶えたく行きました。3.11の一年前です。
郡山からバスで宮古、三陸鉄道で田老そして田野畑と行きました。
田老駅から降りてまっすぐ港へ向かいました。


噂に聞いたデカい堤防がありました。

登った所

堤防に描かれていた絵

港まで歩きました。



もうこれらの映像は過去のものとなりました。

帰り道が分からなくなり駅への道を尋ねました。その方は無事に過ごされているのでしょうか。無事なら良いのですが。
宮古の駅で切符を売っている方がとても親切でした、その方もご無事だったのでしょうか。三陸鉄道が全通したと聞きました。良かった、また出来たら乗ってみたい行ってみたいと思います。

テレビでは10年という事もあり記念の番組が放映されています。
旅のあと気仙沼や山田町の人と知り合いになりました。皆さんコロナに負けんと頑張って欲しいと思います。


庚申庵での講座、蝋梅が咲いて

2021-01-25 11:34:13 | 日記
お庭には蝋梅が咲いていて良い香りがありました。

 講座は興味深い内容が多く、どれも参加したかったのですがこのコロナ騒ぎで、今回の「予章記を読む」が最初になりました。また、ニンターネットを使った遠隔講座も初めてです。

この近く魚町4丁目で生まれたとか戸籍に書いていたが、最早知っている人も町の名前も無くなった。

 講座では、三つ子が出来て不吉だから海へ流し、河野さんのご先祖が助かって活躍する。世界中にある貴種流離譚の一つかな。
予章記も太平記と同じ時代の記述があり名和氏や児島氏の名前が出る、伯備線だったか姫新線だったかに名和の駅名があったような。また、昨年津山の院庄館跡に児島高徳の跡を訪ねた。

 庚申庵では渡部章正さんの写真集を頂きました。懐かしい写真がありましたので紹介です。

道後温泉の正面左側、今はすっかり変わっている。

懐かしい、正面入っ処の受付?。今もこのままかな。


「ネオン坂」と呼ばれていたらしい。松が枝町。
昭和33年の売春防止法施行にいたるまで遊廓があったところ。坂道を登っていくと時宗・踊り念仏「一遍さん」の「宝厳寺」があります。



伊予和気駅 加齢夫婦のチョイ旅

2020-10-25 17:09:00 | 日記
かわいいJR伊予和気駅、隣のレストランでお好み焼きを食べました。


近くの「円明寺」四国八十八カ所参り第53番札所




近くの民家



乗り場へ出てみるとかわいいデザインそのまま、また線路がたくさんあり在りし日の駅の賑わいが思われる。


左に出て居る枝線は何処と結んでいたのだろうか?


松山発の特急が来ました、間もなく松山行き各駅車両の出発です。ここからも左への枝線が見える。


近所に新しくできた高齢者施設、梅本の里「いつもの」内覧会

2020-10-22 16:44:22 | 日記
https://www.facebook.com/shigenori.futagami/posts/3453016541450423

以前「終活の会」でお話し頂いた「ごちゃ混ぜ福祉」のスタートです。モデルは金沢にあるとか。高齢者も子供も障害者もそして近所の人も一緒になって活動する場を目指した取り組みです。面白い良い事業だと。何かお手伝いできればと思いました。

入り口から見たところ、奥がデイケア。手前が一般・近所の人向けのレストラン

左側は一般向けレストランのカウンター席と奥がテーブル席、写真に写っていないが近所の子供用コーナー。

広くて明るいデイケアの部屋


二階は、特養ホームとショートステイ・事務所従業員用ルームなど
個室


全体に、広い出入り口があちこちあり逃げやすい印象。部屋や風呂トイレも大きな引き戸でノーマライゼーションを考えた作りになっていました。

残された俳句

2020-10-06 08:59:23 | 日記
2017年から俳句を始めました。お仲間は10名前後で現在お仲間の句をまとめ一人100句の一覧を作る作業をしています。
始めた頃のお仲間で数回参加され、その後脳血管障害で言葉をなくされた女性がいます。優しい素直な句を作られる方でした。
  曼珠沙華これほどまでの紅の色

昨日作業の中で見つけた10句あまりをご家族に送りました。発病前の母親や連れ合いの句をご家族が大切にされるだろうと思いました。


終戦から75年、幼い頃の道を歩いてみました。

2020-09-12 21:44:03 | 日記
 テレビでは終戦の8月15日が75年目で戦争のドキュメンタリーの番組が続きます。1944年生まれの私には戦争の思い出はありません。しかし、裏山の頂には高射機関砲の大きな穴がありました。松の木にはヤニを集めるための傷が白く残っていました。2件の棟割りの社宅の壁には腕が入るほどの穴が空いていて、グラマンの機銃掃射の跡だと聞きました。
 戦後の貧しい時代の思い出はあります。ラジオでは時計台の歌や尋ね人の時間がありました。

 昨年、昔住んでいたあたりを歩いてみました。道や建物は思いのほか小さく感じました。隣の村に行く細い道を歩いていると昔出会った母娘のことを思い出しました。
当時は金属を集めたら子供にも小遣いになり錆びた釘などを集めました。廃品回収業という業もありました。その日私は電線の様な鉄の棒を持っていたと思います。同じ道を向かい側から古いリヤカーだったか壊れた乳母車だったかを引いた私と変わらない歳の女の子を伴っている母親の汚れた二人連れとすれ違いました。「その針金もらえんかね」と聞いたような気がしますが渡しませんでした。

 潮見鮮一郎氏の「戦後の貧民」にある、戦争未亡人の今で言うシングルマザーだったのだろうか、あの時の娘さん今は70歳くらいかな、その後どの様な人生を送られたのだろうかとその低い竹藪の細い道を歩きながら思いました。

 市内の公園や駅に行きますと、ホームレス対策で横になれないように出っ張りを付けたベンチを見ます。悲しいですね、日本はそんな心貧しい国になったのですね。


老人の戯言 「安楽死」

2020-09-06 18:36:26 | 日記
 私は後期高齢者です。先日医療費を100万円以上使った治療をして頂きました。ま、若い頃大層な健康保険料を払っているので後数回は大枚使っても大丈夫と自分自身では納得している。
残された時間に何か出来ることはないかと探していている、何れ見つかるだろうと思っている。

 この先の不安は、脳血管障害で救命治療を受けたが寝たきりになり、気管切開や胃瘻などの延命治療を受けて植物状態に至る。そうなれば自分で治療を止めて欲しいと言うことも外すことも出来ない。回復不可能と分かった時点であの世へ行かせて欲しいと遺言や終活ノートに書いて装置を外す希望が叶えられたら、外した誰かを殺人者にさせてしまう可能性がある。
 希望を叶えてもらった人を犯罪者にはできない。

仕事現役時代(製薬会社営業)に老人病院のベッドで意識は無く口を開て手足は変形して硬直し腰の辺りに大きな褥瘡をした病人を何人も見た。回復する可能性があればまだ良いが息をしているだけのあの様な状態を続けるのは人として残酷だと思った。見込みがなくなった時点で自然死の方向に舵を切って欲しい。
また、認知症も心配だ、自分という自覚のない生き物になっておむつを替えてもらいながら生き続ける恐怖がある。

安楽死は70%以上の人が賛成しているらしいが一部の人が反対している。もちろん生きたいと思っている人を殺すのは人殺しだ。

安楽死に反対している人には、私は生きたい・どんなことをしても生き抜きたいと希望を示せば生きていける法制度を目指すべきではなかろうか。

安楽死の法制度に反対するよりも先にそちらの法整備を目指すべきだと思う。


それぞれの正義 連句しながら感じた事

2020-08-22 13:26:11 | 日記
 アメリカの大統領選挙の報道が盛んになってきました。他の国の事ながらアメリカは憎しみで分断された今でなく、私どもが若い頃憧れた他の国の見本になるような民主主義の国に戻って欲しいと思います。
一方日本は最近世間が狭くなり住み難くくなっていて。50年も前の誰もが貧乏だった時代が優しかったかと聞きますが、あの頃はあの頃で悲惨であったと子供ながらに見知っています。


 ここ3年くらい連句を始めています。数人で575の句を作ると次の人が前の句の世界を想像し77と付けて行き、次の次の人が再び575と付けて、それをいくつか続けてゆく遊びです。中世は俳諧と言って人の集まるところではよく行われていたらしい。それを文芸化したのが芭蕉や蕪村・一茶といった人達です。様々な取り決めや縛りがありますが基本的には句を重ねるごとに新しい世界を想像・創造することです。

 前の句をどの様に想像するかは人様々で、作られた句はその人らしさが出ます。それを尊重しその次の人は前の人の句からその場や人を想像し新しい句に仕上げます。俳諧(連句)の場では参加している人達の人となりを知る機会になり、自分を知ってもらう機会になります。
参加している人達は前の人の句を想像し付けてゆき「その様に見ましたか」とか「如何にも貴方らしいとか」と商売仲間だったりご近所だったり、それぞれの人となりを知る事により信頼を深めていたのでしょう。また新しい仲間との信頼・知るための手段だったのかもと思います。

 人の距離が遠くなった現在、人との関係を築くのが難しい人が多くなりました。前の人の考えを想像して作る連句はこの難しいバラバラの社会を少し距離を短くしてゆけるのかもと想像しています。
人はそれぞれ様々な理由で違っています。だから想像するものも違います。互いがそれを知り尊重し合うことが基本かと思います。

言い換えれば人それぞれにそれぞれの正義を持っている事を知る。本邦に1億あまりの正義があり、世界には40億あまり、それよりも自分が知らない世界はもっと広いと。思っています。

テーマは「人生会議」と日々の心構え

2020-07-23 18:06:45 | 日記
葬儀社の「月心館」にて尊厳死協会の出前講座を行いました。テーマは「人生会議」

 厚労省のホームページからダウンロードした「人生会議」を映しました。その後話し合いを行いました。15名の小さな会ですが、皆さんそれぞれ自分や家族のこととして考えられている方が多かったように感じました。
前回は救急の救命と延命のジレンマのお話でした。今回は本人の「もう十分に生きた」と周りの人の「一分でも生きててほしい」その折り合いをどのようにつけるか。
「縁起でも無い」と話の腰を折られる場合をどのようにして自分の終活を進めるか。などが話し合われました。

 お昼になり帰ろうとすると、ALS患者女性を嘱託殺人のニュースが入りました。確かあの人たちは尊厳死の法制化を拒んでいる人たちではなかろうか。あの人たちこそ自分の命と生きる辛さを持たれているのではなかろうか。
 亡くなった女性は二人の医師を「人殺し」にすることを望んだのだろうか。
 日本も安楽死をもっと議論すべきではないだろうか。


日本残酷物語 5 近代の暗黒

2020-05-23 23:52:42 | 日記
 コロナで急に時間が出来た、この歳まで働いて来たのだから少し体を休めとの事かと。
今回の本は、昨日までに残すところ30%あるが感想を少し。


 徳川から明治へ、西欧に追いつき追い越せの時代。底辺の人々には過酷な環境があった。
北海道の道と鉄道を作った有名な「タコ部屋」は官製のラゲール(強制収容所)だった、田舎の女の子を使い長時間労働の末肺を病み捨てられた人たちの繊維産業、飢饉の東北の農民は女の子なら間引きをし、育ったら売って糊口をしのぎ、九州の炭坑の閉鎖された囲いの中であまり過酷さに逃げ出したらリンチも。北海儀業のご存じ「蟹工船」。人知れず消された人も多い。

 小作農を組織化する中で政府の弾圧の手足となったのは警察。政府は誰の見方だったのか。世界を相手に戦うまでになった経済は誰の犠牲の上にあったか。お国の為と戦って手足を失った兵たちのその後は?、我々の年代の人間は駅前に立ちアコーデオンを鳴らしていた白い服を着た松葉杖の人たちを知っている。
 残りの30%のページは、朝鮮からの出稼ぎや逃げてきた人たち、そしてもっと底辺の人たちの事が書かれている。

 ほんの100年と少し前、祖父母の父母の時代から父母の時代の事。北海道の血で築いた鉄道は次々廃線に、炭鉱は産業遺産になったが消えた人々の跡は書かれたものから想像するしかない。

今の豊かさが続くと思うのは甘いかも。
宮本常一の文が好きで、周防大島や高知の梼原に行ってみたい。

久しぶりに映画を見ました。「21世紀の資本」

2020-05-21 10:18:20 | 日記

 字幕を追うので精一杯、内容の理解・・?・・
脳の処理速度がついて行けなくなっている。加齢だ。

主な内容、かな
 所得と資産がトップ1%にますます集中している状況を指摘。
 自分の親たちよりも貧しくなる。
 移動距離が短くなり閉鎖的な社会に。

 スターリンの共産主義やファシズムよりは自由な資本主義が良い、が。
少数が富み多数が貧しい行き過ぎた資本主義・自由主義へ進んでいる。

これからの世、
IT化ロボット化により生産性が向上すると、差益の多くは投資者に還元され、働く者の価値は相対的に低下する。
ますます、格差は広がり分断も伴う。良い世の中が来ることは予想できない。

では、
 働かないで得た収入(遺産相続など)には高い課税をして、平等な教育から万人に等しいチャンス。への投資。かな。