旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

終戦から75年、幼い頃の道を歩いてみました。

2020-09-12 21:44:03 | 日記
 テレビでは終戦の8月15日が75年目で戦争のドキュメンタリーの番組が続きます。1944年生まれの私には戦争の思い出はありません。しかし、裏山の頂には高射機関砲の大きな穴がありました。松の木にはヤニを集めるための傷が白く残っていました。2件の棟割りの社宅の壁には腕が入るほどの穴が空いていて、グラマンの機銃掃射の跡だと聞きました。
 戦後の貧しい時代の思い出はあります。ラジオでは時計台の歌や尋ね人の時間がありました。

 昨年、昔住んでいたあたりを歩いてみました。道や建物は思いのほか小さく感じました。隣の村に行く細い道を歩いていると昔出会った母娘のことを思い出しました。
当時は金属を集めたら子供にも小遣いになり錆びた釘などを集めました。廃品回収業という業もありました。その日私は電線の様な鉄の棒を持っていたと思います。同じ道を向かい側から古いリヤカーだったか壊れた乳母車だったかを引いた私と変わらない歳の女の子を伴っている母親の汚れた二人連れとすれ違いました。「その針金もらえんかね」と聞いたような気がしますが渡しませんでした。

 潮見鮮一郎氏の「戦後の貧民」にある、戦争未亡人の今で言うシングルマザーだったのだろうか、あの時の娘さん今は70歳くらいかな、その後どの様な人生を送られたのだろうかとその低い竹藪の細い道を歩きながら思いました。

 市内の公園や駅に行きますと、ホームレス対策で横になれないように出っ張りを付けたベンチを見ます。悲しいですね、日本はそんな心貧しい国になったのですね。


老人の戯言 「安楽死」

2020-09-06 18:36:26 | 日記
 私は後期高齢者です。先日医療費を100万円以上使った治療をして頂きました。ま、若い頃大層な健康保険料を払っているので後数回は大枚使っても大丈夫と自分自身では納得している。
残された時間に何か出来ることはないかと探していている、何れ見つかるだろうと思っている。

 この先の不安は、脳血管障害で救命治療を受けたが寝たきりになり、気管切開や胃瘻などの延命治療を受けて植物状態に至る。そうなれば自分で治療を止めて欲しいと言うことも外すことも出来ない。回復不可能と分かった時点であの世へ行かせて欲しいと遺言や終活ノートに書いて装置を外す希望が叶えられたら、外した誰かを殺人者にさせてしまう可能性がある。
 希望を叶えてもらった人を犯罪者にはできない。

仕事現役時代(製薬会社営業)に老人病院のベッドで意識は無く口を開て手足は変形して硬直し腰の辺りに大きな褥瘡をした病人を何人も見た。回復する可能性があればまだ良いが息をしているだけのあの様な状態を続けるのは人として残酷だと思った。見込みがなくなった時点で自然死の方向に舵を切って欲しい。
また、認知症も心配だ、自分という自覚のない生き物になっておむつを替えてもらいながら生き続ける恐怖がある。

安楽死は70%以上の人が賛成しているらしいが一部の人が反対している。もちろん生きたいと思っている人を殺すのは人殺しだ。

安楽死に反対している人には、私は生きたい・どんなことをしても生き抜きたいと希望を示せば生きていける法制度を目指すべきではなかろうか。

安楽死の法制度に反対するよりも先にそちらの法整備を目指すべきだと思う。


「ハニー句会」9月例会

2020-09-05 14:36:29 | お仲間たちと
本日は7名の参加でした。


11月21日の愛媛新聞に掲載されました。


吉川将央
 マスクして目で息をする癖がつき
 敬老日曲がった腰に感謝状
 陽を浴びてくたくた色の秋簾

二神重則
 蝉時雨仰ぐ雲間に抜ける青
 病窓にカラスの方や夏夕陽
 母の蝶今日は窓辺に秋はじめ

向田将央
 秋の朝靴ひも固く今日こそは
 秋近し自由研究まだ遠し
 よく見てろラジオ体操腰をやる

上甲彰
 秋の七草福田和子の和菓子店
 出勤のホステス汗拭う車内
 九月までもった備蓄のレジ袋

玉乃井永
 真鰯のさっと反転群れ光る
 唐黍の髭の一瞬燃え上がる
 コロナ禍の旅行計画捨団扇

長井知則
 雷鳴の遅れを数え孫安堵
 暑の峠越えたと知らすつくつくと
 寄らば斬る血染めの空の二日月

八木健
 匍匐前進葡萄 の棚 の下
 息止めて胡弓に聞き入る風の盆
 難民の頃思いだし南瓜食ふ