旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

「室町は今日もハードボイルド」 後半続き

2025-01-25 12:59:18 | 
「補陀落渡海」補陀落山寺のパンフレットより
 那智の浜から三十日分の燈明油と食糧をたずさえて、外へ出られないように釘付けをして沖に流し、観音の浄土すなわち補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼で、この地から多くの渡海者が船出しました。熊野年代記によるとこの補陀洛渡海は貞観十年 (八六八)の慶龍上人にはじまり、平安時代に三回 室町時代に十回 江戸時代に六回が記録されているだけでも出船しています。
渡海僧出発の様子は「那智参詣曼陀羅」に画かれているが渡海は十一月、北風の吹く日を選んで夕刻に行なわれました。当日渡海者は補陀洛山寺御本尊前で秘密の修法をし、続いて三所権現を拝しました。見送りの人々のどよめきの中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらした渡海船に乗り伴船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土をめざし、南海の彼方へ船出して行きました。
 日夜、法華経を誦し、生きながら極楽浄土に旅立つ決死の行でありましたが、近世になると金光坊が渡海を拒んで島に上がりましたが無理矢理に入水させられたという伝説もあり、生きながら渡海をするという習慣はなくなり、当寺の住職が死亡した場合、かつての補陀洛渡海の方法で水葬をするという儀式に変って行きました。
 現在当寺の裏山には渡海上人の墓があります。

「補陀落渡海記」 井上靖著の短編集本があります。

お寺に残る渡海舟の実物大。


遠く太平洋を航行する船の上部。地球は丸いのだ。

 補陀落渡海は南紀のここからだけでなく高知県の足摺岬や室戸岬だけでなく、日本海側からもと。
足摺岬には、残された人が足摺をして残念がったのが岬の名前として残ったとか。補陀落渡海の言い伝えからか自殺の名所となり「ちょっと待て、もう少し考えよ」という自殺防止用の看板があったとか。

足摺岬



さて、元の本に戻り
 鎌倉の御家人が不名誉な自身を恥じて補陀落渡海をした話。
熱心な研究者が全国の資料を調べ合計57件あったとか。最後は1909年・明治だとか。統計的な分析では16世紀前半4件なのに16世紀後半11件17世紀前半に15件と増えその後途絶える。きっと何かあった?
この頃が宗教にすがる最後の時代かと思うが何があったのか面白い。
あちらではレコンキスタからルネッサンスの時代へと人々が論理的に考えるようになってきた。
流通が変わり人々の移動が変わりものの考えも変わり、「人権宣言」に向かうのかも。
「神様は何もしてくれない」、「ほなわしらの力で」と・・・・

 この本ではその後、事の正邪を決めるのに熱湯に腕をつけてその傷跡から正邪決める。まだまだ神様の出番があったお話。芸能の夢幻能のお話など。面白い。



最新の画像もっと見る

コメントを投稿