旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

「室町は今日もハードボイルド」清水克之著

2025-01-21 12:10:13 | 
面白い本に巡り合いました。
日本の中世を扱っています。
究極の自由主義の中で人々がどのように生きたかを面白おかしく。

 先ずは菅浦集落、案内書には「菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅(すが)浦(うら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られる。」と書かれていて本ではその模様が「隠れ里の150年戦争」。信じられるのは時分と仲間を詳しく。
 2015年ころ、その様な情報を知らず訪問した。風向きにより琵琶湖が高波になるのか石垣の奇麗なところだと思った。



その後は、向源寺の11面観音像を見に、この仏像は姉川の戦いの折に戦火を避けるため村人が地中に埋めたとか、腰をちょいとひねったお姿・・・宜しねえ。写真撮影禁の為案内チラシで。


11話「アイツだけは許さない」、2025年1月の兵庫の出来事と照らし合わせて。
伊達氏の「塵芥集」には、自害した理由を言い残していたら遺言の仇を伊達家が成敗するとか、残念ながら現代では加害者への制裁は出来ない。死を賭すほどの訴えを中世はくみ取るシステムがあった。本には武田や徳川での例も。
 そう言えば新渡戸稲造の「武士道」にも仇討ちの項があった。


敵討ちにはこんなのも「うわなり打ち」
先妻が仲間を集めて後妻の屋敷を襲う・・・オッソロシ~


まだ、本の中ほどだが面白い。





奈良の旅 暑いアツイ

2024-09-15 17:43:13 | 
 父の写真集に京都の染め物工場に丁稚で入った頃に猿沢池で撮ったものがありました。

20代の頃には何度か来たことが有りましたが、高齢になると奈良がこんなに坂だったのかと感じました。ヤレヤレ

興福寺の塔は工事中でした。さすがに暑くて鹿さんもあまり見かけませんでした。




 20代の始め京都に転勤になりました。法隆寺に行きました。あの頃は田舎道を歩いたような記憶があります。
中学校の美術の先生が二神司朗さんでした。飛鳥時代の建築の特徴を教えてもらいました。
二重基壇・エンタシス・卍型手すり?・裳階・雲形?など60年たっても覚えていた。







 梅田の空中庭園で淀川河口の西日を見ました。
四天王寺の西門からも大阪湾がこの様にきれいに見えてたのでしょう。
おぐり・俊徳丸・厨子王・・・面白い。




炎暑の中の島めぐり 二神島・津和地島

2024-08-04 10:41:20 | 
 二神さんやその他のメンバー24名でのツアー
島の人の住まいするところ辺りを記録しようと思いましたが、過日参った折と変わりがあまり見られませんでしたので、今回は夏の海霧にうっすら浮かぶ島々景色を撮りました。
 望遠レンズは砲金のキャノン85mmF1.9、重たい
終活を迎え使うのが最後かと持参しました。

終着駅・・・伊予鉄高浜駅・木造の歴史を感じる駅舎



父が務めていた旧丸善石油松山製油所


三津浜港の入り口、古い港らしく袋のような趣があります。全国の古い湊には室津とかの名前が残っている所以かも。


二神港


使われなくなったタバコ自販機、「おばちゃんがタバコを売っていた」と昔を知る人が。

島の家は、長屋門を入ると中庭園があり母屋や離れがあったとか。


これは何の船?


家の形をした石造りの墳墓

出番を待つタコつぼ


津和地港から見た二神島。


津和地島の浜通り


霞の仲の島々


 由利島
本日ニュースでは、由利島近くで爆発物らしきもの発見とか。何が見つかったんだろう?


 二神島 やはり津和地から見た島や上灘から見た島が二神島らしい。


 釣島と興居島


 島はゴミもなく人声もなく昔の風情そのものを残し整えられていました。
津和地は港の側には人口の一人一台以上有るかと思う沢山の軽トラが置いていました。忽那諸島の中心忽那島以外近くの島では最早宿泊や食事が出来る場所はなく、スーパーもありません。秋にもう一度計画していただけるとか、今度は少し今の小道を訪ねてみたいと思っています。



木曽路の旅(2) 奈良井宿

2024-05-29 11:00:48 | 
 奈良井の町は中仙道の街道でまさに観光地だ。駅の待合室は世界各地の人達でいっぱい、東南アジアの人が多いかな。




案内所で軒の深いわけを尋ねた、お客の雨除けで街道沿いのそれぞれが家がアーケードにしたのかな。それと、税金逃れで二階部分を広くしたからとか、ドイツの民家も二階がせり出したのがあった。何時の時代もお国はあれこれ考えて召し上げるのだ。
また、昔大火があり近辺の大工さんが来て町を立て直した。その折に各地の立て方をしたから大工の出身地により特徴ある建物の立て方が残っているとか。たしかに、袖壁も全部にはなく、庇も揃ったり様々。ただ軒の深いのはこの地の特徴でガラパゴス化特異的に進化したんだろう。山陰・中部の街道の家は棟の短い平入のお家が続く。




用水があちこちに在り水の豊富な事がうかがえる、また火事に備えたのかも。


二階屋根をせり出した出桁


一階部分の庇(他であまり見られない)


駅の横に大きな和風の橋があった岩国の橋につくり方が似ている。
木曽の大橋




木曽路の旅(1) 木曽平沢

2024-05-29 10:01:19 | 
 木曽平沢は中仙道の街道の小さな漆器の町だ。建物の立て方や佇まいは越前や越中高岡の街に似ている。漆器のお店を兼ねた民家が並ぶが販売している土産屋さんは少ない。街路の入り口と出口は神さんとお寺が守っているようだ。1時間ほどで回った。あとはJRの時間待ち。




棟の短い住宅


三階建てもある


色ガラスかな洋館もある


大谷石の蔵や門構えがあった。


駅は町のサイズに似合わない位長い。


給食の食器は漆器。


街の入り口にあるお宮



道後湯築城

2024-05-15 11:04:08 | 
 数年ぶりにゆっくりと「道後湯築城跡公園」を散歩しました。
散歩している人あり城跡好きと思われる人あり、しっとりとした良い公園になっていました。



この城は中世も終わりに近い戦国末期、武器も弓から火縄銃に移る時期で、その様な目で見ると面白いと思います。近くには近世城郭の松山城もあり比較すると、兵士の数や武器の違いなどを想像すると興味深い。
また、秀吉子飼いの武将たちの作った城の一つ松山城も朝鮮の役で培ったノウハウを生かした松山城の縄張りもまた面白い。お城は奥が深い。
  外堀


 思えば20世紀の末、同地にあった動物園の移転が決まり跡地をめぐって、中世城郭として文化財として残すべきとの運動がおこりました。
あれから40年近い時が流れ「道後湯築城跡を守る県民の会」の運動をしていた人たちを思い出します。川岡さんはいまも中世史でご活躍されています。島津さんは「いいね」とお空から眺めておられるのでしょうか。

 この時期は丁度ICTがJカーブで拡大、インターネット幕開けと重なりました。私が作ったホームページで運動の範囲が県から全国のお城を愛する人たちに広がりました。インタ―ネット恐るべしでした。

   当時のホームページに使っていた写真やロゴなど


その後は、退職後の新しい仕事や病気の入院などで運動から遠ざかり、土居さんにはご迷惑を掛けました。今もご健在だとか。

 内堀







同世代だと思える案内ボランティアの人から声を掛けられました。「一緒にやりませんか」と優しい物腰の方でした。







良い公園になっていました。皆さんのお力によるものです。


ベルゲン-ベルゼン(強制収容所の跡) Bergen-Belsen

2024-02-17 19:47:21 | 
 ドイツ、ハノーファーから北東65キロの場所に存在した。『アンネの日記』を書いたユダヤ人少女アンネ・フランクが命を落とした収容所として知られる。『ウィキペディア』より引用
 その昔記録映画で収容所に終戦末期チフスが流行し痩せて骸骨のようになった躯をブルトーザーで穴にを埋めている映像を見ました。その後写真の様な
塚になって埋葬されている、いくつもの塚がありそれぞれ塚には何千人との表示があった。


 その中に一つの碑文を見つけた。
 friederike and johann felix robert oppenheimer
erected in memory by their children paul.rudi and eve
who survived in bergen-belsen
碑文: フリーデリケとヨハン・フェリックス・ロバート・オッペンハイマー。ベルゲン・ベルゼンで生き残った彼らの子供たち、ポール、ルディ、イブによって建てられました。 1.2.44 ~ 10.4.45

 J・ロバート・オッペンハイマー(Julius Robert Oppenheimer)は、アメリカ合衆国の理論物理学者。理論物理学の広範な領域にわたって大きな業績を上げた。特に第二次世界大戦中のロスアラモス国立研究所の初代所長としてマンハッタン計画を主導し、卓抜なリーダーシップで原子爆弾開発の指導者的役割を果たしたため、「原爆の父」として知られる。『ウィキペディア』より引用、
 その碑に私は「あんたも人殺しや」と言っておいた。25年も前の事。
先日見た映画館で「オッペンハイマー」の予告があった。映画は2024アカデミー賞を7部門も受賞した。

 現在イスラエルはガザを攻めてパレスチナ人を殺している。2000年も昔ユダヤ人がパレスチナで住んでいる人たちを根絶やしにしてイスラエル国を建国した。その後エジプトに負けてユダヤ人は世界に散った。
 歴史は繰り返す、今 住んでいた人たちを殺し追い出して自分たちの国を作ろうとしている。映像で泣いているパレスチナの子供たちの姿を見ると、このままでは済まないと思える。

 イスラエルはアメリカの支援を受けている。アメリカのヘゲモニーは何時まで続く? きっと永遠ではない。スペイン・オランダ・イギリスそしてアメリカ。その前の大帝国もいつまでも持たなかった。
イスラエルも今がピークだろう、

諸行無常 盛者必衰の理 奢れるものは久しからず次の2000年後はどうなっているか。知りたいが見る事は叶わない。

収容所の入り口付近 構内

記念館入り口 記念の塔が見える



記念館表示



越後、雁木の町「高田」へ 瞽女ミュージアムへ

2023-11-13 11:34:45 | 
 変わったデザインの駅を降りると周りは雁木で囲われて、


案内所では雨の中だから濡れないで行けるところを中心に教えてもらいました。

 メインストリートはずっと近代的な雁木

  古い町筋のところは昔の面影を残している。

今回の旅は瞽女ミュージアムだったので、雁木を通り殆ど濡れないで行けました。


 「瞽女ミュージアム」
 町屋がそのままミュージアムに。案内のお姉さんは次々と来られるお客さんにその人に合わせた対応をされていました。すげえベテラン。

 私は説教節に興味があること。参加していた障がい者就労のNPOの設立は盲学校の先生方だと話しました。興味を持っていただいた様子で来年障害者支援のイベントがあることを装具関係の写真が掲載されたパンフレットを見せてもらいました。
 最初に、以前見たことがあるドキュメント映像を見せてもらいました。ほとんど覚えていないが出雲崎あたりの冬の景色が出てその記憶がうっすらと残っている。ビデオでの聞かせどころの山椒大夫、直江津の親子の別れの所だと説明が出るがほとんど何を話しているのか分からない。

 チラシの中の瞽女さんの演目に愛護の若・信太妻伝説・俊徳丸などがあり、なるほど幼くして預けられた自身の経験から親子の別れが語りやすかったのかと。これらは説教節からの流れが多いとか。親方から弟子へと口伝で伝えてきた。今は音源としてほとんど残っていないらしい。

北前船や河川の人や文化の流れでこちらにも全国の言い伝えなどが伝わり伝えていったのであろうと思いました。

               駅の支柱はレール。そういえば故郷の駅もそうだった。

直江津の町

2023-11-12 17:17:15 | 
雨の中海岸へ出てみました。暗い空に白波が轟音とともに迫ります。


海岸には人魚の銅像がありました。昨日の直江津の人のお話が蘇ります。
 直江津の人形伝説、
年老いた母と息子がいました。息子には許婚者が居り。しかし息子には毎晩佐渡から尋ねてくる女が居ました。
ある日母親から問い詰められて息子は常夜灯に火を灯しませんでした。翌朝海岸に行ってみると佐渡の女の亡骸がありました。
 佐渡情話(こちらは柏崎)
佐渡のお弁という娘が柏崎の藤吉という男に惚れて、毎晩たらい舟に乗って柏崎の藤吉に会いに、妻子ある藤吉は恐ろしくなり、目印にしていた常夜灯を消してしまった。目標を失ったお弁は難破して亡くなった。柏崎市伝説集
 佐渡小木港にあった昔話(こちらは出雲崎)
女が恋する男の待っている出雲崎へ毎晩たらい船で渡ってゆく。ある日灯篭の灯が灯っていなくて女は亡くなった。
 人魚像


 ご存じ「山椒大夫」
陥れられて大宰府へ追放となった奥州陸奥国の岩城判官正氏のあとを追って旅立った妻は、安寿姫と厨子王丸を連れて直江津で山岡大夫にだまされ、妻は佐渡へ、安寿姫と厨子王丸の姉弟は丹後の国(京都府北部)の山椒大夫へ売られてこの地で母子の別れとなります。
 森鴎外の物語では、種本にある説経節「さんせう太夫」の残虐な復讐の聞かせどころがない。


 直江津は北前船の寄港地で、船の重しとして運んだお寺には福井の笏谷石や関西からの御影石が残っています。
 八坂神社 長い参道は御影石


 真行寺経堂の笏谷石と立派な鐘楼





また、文化があったのでしょう謡曲の舞台となったお寺でした。
真行寺 竹の雪
 母恋しさに訪ねていった月若を、継母は雪の中に竹の雪を払えと命じた。そうして月若は寒さで凍死してしまう。母と姉が死骸を見つけた処に父も戻り奇跡が起きて月若は生き返る物語。雪国らしい物語。
 真行寺竹の雪



 海に向かって歩いていると、赤い帽子をかぶった3体の像
木彫と御影石で彫ったもの、左端は笏谷石か?


砂州の町でなだらかな坂道が多い。


大きな鉄道駅だったらしい線路と機関庫







只見線 会津若松~小出 「ボックス席」の旅

2023-11-12 12:59:04 | 
絶景ローカル線として名高いところ、4時間半の出来事。

 思い出に残る4時間半は出発前から始まりました。
会津若松3番ホーム只見線、出発まで1時間以上前数人待っていました。
絶景ローカル線として名高いところ。


 思い出に残る4時間半はしっ発前から始まりました。
会津若松3番ホーム只見線、出発まで1時間以上前数人待っていました。

 1時間以上前からホームに立っておられた女性は新潟から。ホームには三々五々と人は増えてきました。次いで直江津からの祖父母と青年の家族連れ、として、関東からのご夫婦。乗車口の前で「この路線は込むからと」皆さん様々な思惑で早くから待っています。会津鉄道からの乗り換えの人たち、磐越線からの人達でにぎわってました。
以前は1両で座れない人多数で大変だったという話も聞きました。

只見川、黄色に色づいた木々が見える。

落石防止の糸魚川のフォッサマグナ大糸線で見た様な景色


沿線の風景、室内は水滴がつきピントが合わない。


 直江津からの若者は鉄道ファンらしく詳しい。隣の列の人に「ここは乗車口ではない」とアドバイスする優し人物。直江津からの三人とボックス席で、直江津の海岸にある人形像の話を聞きました。先年佐渡の小木の港の掲示板で見た、女がたらい船で対岸へ灯篭の灯を目印に通い男が灯篭の火を消したとか。民話の続きの様なお話でした。

そろそろ夕昏時が近くなってきました。霧の中の景色もまた風情あり。


 隣に座ったご夫婦から頂いたパンフレットの地図を鉄道マニアの青年から見どころなどを教えてもらいながらの旅でした。
ご夫婦は終点小出の手前で降りられ、小出で上越線に乗られる新潟の女性と三人のご家族と別れました。そういえば昔はこんな旅だった懐かしさが蘇ってきました。
 私は、1時間くらい待ちで六日町へそして直江津へ。寒い。


小出駅、一人ぼっちになった


富田林へ

2023-11-06 20:28:14 | 
 20代の始めころ大阪当時は枚岡市に居ましたが府下は仕事や通勤以外あまり行ったことがありませんでした。愛媛県へ転勤になり大阪出身の同僚から富田林には見どころがあると聞いていました。
 昨夜は阪神優勝かと道頓堀を通りながら期待していましたが残念でした。

 富田林は大和川の河川流通で繁盛した街です。北前船寄港地に船主屋敷が残っているようにここは流通で儲けた分限者屋敷が残っていると案内に書いていました。その分限者には文学者や和歌を詠む人もいたようです。富田林の寺内町は興正寺の門前町としても栄えていたらしく、格子状の町筋は古い街道の道に似て狭い、ドイツの観光都市のように車の乗り入れを止めて歩行者中心にしたら歩く人もゆっくりと町を散策できるのにと思いました。
 京都では犬矢来は竹だが、ここでは木造です。珍しいのでパチリ
 

 あれ何? あの家は通り抜けになっている。
 
遠くに見えるのは何?


杉山家住宅 屋根の上の瓦葺きは煙抜きだとか。
大きなかまどがあり煙突が無いと思ったら煙抜きがありました。
煙抜き用の竹の簾様のもの

沢山の客間がありそれぞれの座敷飾り(床の間・違い棚と付け書院など)
端正な座敷が良かった

二階から見た丸瓦と平瓦、年季が入って銀色に光っていました。どちらの産だろうか。


 寺内町の屋敷にここだけかな袖壁がありました。


嫌な思い出もある。
 何処にでもいる訳の分からない輩で、会いたくないけど巡り合ってしまいました。
浄土真宗「興正寺」の門前で女が呼び鈴を押して中から返事があると60歳くらいの同伴の男が、いきなり切れて怒鳴りだした。一時は一戦を覚悟をした、眼を合わせたところ視線が合わない。暫くしたら鼬の最後っ屁の様な言葉を残して去っていった。
 その後、女が押したチャイムからどうぞお入りくださいとの返事があったのでお邪魔をしました。可哀そうな女は祈りたかったのでしょう代わりに祈っておきました。
浄土真宗のお寺で、女将さん?から門前での出来事を心配してもらいました。真宗の事を詳しく説明頂きました。山陰や北陸の港町や農家のお墓や仏壇、吉崎御坊などのお話をしました。
ここを富田林御坊というらしいことも聞きました。山門には保存修理のチラシが置いてありました。
何かのご縁かご寄付をさせてもらいました。これも親鸞さんの手引きかと。

 立派な山門

 その後、お寺の女将さんから丁寧なご返事を頂きました。
旅は思わぬ出会いがあります。



蝉丸神社と逢坂の関跡

2023-11-06 18:42:19 | 
京都から大津へ抜ける道、国道1号線なれど抜けるという言い方がぴったりの道。60年位前にお仕事でこの道を名車スーパーカブに乗って何度か行き来した、その後日本社会の発展に伴って単車になり車になった。懐かしい場所です。当時は20代蝉丸とか逢坂の関などは知らなかった。
 上栄町辺りは半世紀前のそれらしい街の雰囲気が残っていました。


中年過ぎて平家物語や平家歌壇の歌が好きになり、平宗盛の「都をばけふをかぎりの関水に またあふさかのかげやうつさむ」の歌を残した所で行ってみたいと思っていました。

この道を鎌倉への死出の旅、重衡や太平記の「落花の雪に踏み迷う」の日野俊基の関東下向の哀切漂う道行文にもあった。そして今度は電車で大谷駅から上栄町までやって来ました。

蝉丸は能の「蝉丸」はまだ見ていないが悲しい物語は本で知りました。そして、芸事の神様。この年で何か新しい事始めてみようかと思い尋ねてきました。


蝉丸神社は大谷駅からすぐのウナギの匂うところ。逢坂の関跡を過ぎて関蝉丸神社上社と大津市街の端になるのか下社の3カ所にあります。
関跡には百人一首のこの関に関する歌碑があった
 これやこの行くも帰るも別れては 知るも知らぬも逢坂の関
 名にし負はば逢坂山のさねかづら 人に知られで来るよしもがな
  「実葛」これだと思ってみたこともないが。
 夜をこめて鳥のそら音ははかるとも よに逢坂の関はゆるさじ
  この歌の故事「鶏の空音」はどこかで聞いたことがある。

蝉丸さんは諸芸道の神さま、猿田彦さんは街道の神さまで旅好きの守り神様、これからも宜しくとお願いしてきました。お宮には誰もいなくて寂しさあふれていました。




昨日は姪の結婚式で大阪泊まり。大阪城の堀や石垣知ってはいたが修学旅行の時にゆっくり見ていなかった。確かに広い・でかい。




温泉津

2023-04-02 10:52:27 | 
 山陰線で駅に着くなり、面白いタクシードライバーと遭遇した。家内が「主人は旅館の他に行きたいところが在るらしい」と言うと分かっているからこっちこっちと車へと案内した。
先ずはお察しの通り大森銀山の積み出し港だった沖泊。
 30m位の北前船が港として利用できる良いサイズの入り江だ。止めるための穴ぐりもある。


 

 

 港を挟むように毛利の砦があったとかと件のドライバーが説明してくれた。
港の守り神、恵比寿神社はよく見ると戦いの神様の八幡造かな。

 

街中のお寺は立派、北前船寄港地のお寺は何処も町のサイズに似合わない。



この町の神社は、龍に・金比羅さん・厳島と海に関係する。興味深い
龍御前神社、ここで夜神楽の実演があるそうな。


高いところの分社からは赤い屋根の温泉街がよく見える。木々が邪魔になるけど。


途中の若葉の紅葉

タクシーはその後焼き物の里の登り窯へ連れて行ってくれました。テレビの取材があったとか。


運チャンは、寅さん13作、小百合ちゃんとの「恋やつれ」はここからこの路を入ったと実演付きで説明してくれました。現地説明員に負けない楽しい時間でした。
温泉津の温泉街と民家、豊かだった時代の名残を感じさせる跡。



 


 
 
使われていないが木造三階建ての旅館。スゴイ!


温泉の湯は少し濁っている、柔らかいお湯でした。

 昔の町の中に営業を止めているらしい旅館が見受けられる。この小さな街は栄枯盛衰を細い道筋に見せてくれる。郷愁を求める人には良い温泉場かな。

漁港の様子を一枚、大きなランプを付けていたホタルイカ用らしい。

温泉津駅、温泉と北前船のデザインマークをパチリと。

 


3月30日、山陰線で温泉津を出て安来までの各停での出来事

太田駅で降りる人達に心の中でスタンディングオベレーション
FaceBookに掲載しました。


良い感動を見せてもらいました。


ドジョウすくいの街安来港は、出雲の鉄を運んだ港だとか。

 


安来駅 芸備線と木次線の運転取りやめの掲示。超赤字路線・・・廃止になるかも。








再び 中国勝山へ

2023-04-01 15:12:34 | 
 伯備線で岡山を出て高梁を過ぎた頃、山は山桜か賑やかに咲いていました。
 


前回は、岡山駅発岡山駅着の切符が欲しくてやってきた。
 津山線で津山へ行き姫新線で勝山へ乗り換えて新見~岡山へ。


新見駅


 三次行きの芸備線は備後落合駅行きが3本しかない。


新見~勝山への姫新線沿いの家々は立派なのが多く見られた豊かな土地なんだろう。
黒い釉薬のかかった瓦と石州瓦の赤い屋根がある。特徴的には他の地域ではあまり見られない民家になまこ塀が使われている。
 


 
 


勝山は船による物流で栄えた町らしくその面影が残っている。
 
 

高瀬舟船宿跡


高瀬舟発着場「なげ」と言うらしい。


高瀬舟
 菊池寛の安楽死で有名な小説があり、京都の高瀬川の船と勘違いをしている人がいる。発祥はこの高梁川や旭川らしい。
 

うだつの家があると教えてもらった。


三味線の賑やかな音が聞こえてきそうな建物。


桜の勝山駅とお別れ