旅が好き・そして日々の時間で気の付く事を。

旅では人々の生きた来た跡を訪ねてみたい。
時間が出来たので、今までにしなかった事に手を出してみようと思う。

旅の思い出 今回は福島県の歌枕(2007~2008年)

2025-01-28 20:42:23 | 
奥羽の三関、白河・勿来(なこそ)・念珠(ねず)の三つの関所。


勿来関跡 「来るなかれ」の歌枕の地、
駅前の銅像


 地図を見て、駅から近いと思って歩いて行くと目的地は山の上だった。翌日、私と同じ様に上ってきた旅人に「先はどのくらいあるのか」とたずねられた、元気な人には体力保持の散歩に良いと思った。
下りは楽だった、道の両側に山桜があった咲く季節はどの様な景色かな。

宿舎の横に歴史館がありました。高いところから北「いわき市」の方の海岸線が良く見えます。
赤白の煙突は、2020年11月16日、常磐共同火力株式会社が勿来発電所10号機の廃止を発表 今はどうなっているのでしょう。


源義家「吹く風を勿来の関と思へども 道も狭に散る山桜かな」
道一杯に散る花弁がトウセンボをしているように見えたのかも。
 陸奥の勿来の関の松風に 秋よ来るなと蝉の声聞く


白河の関


 何といっても能因の「都をば霞と共に立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関」ホテルを出て朝一で着きました。入り口はお宮の様な狛犬と手水


誰も居ない、中世の山城の様な掘割や土塁らしきものがありました。




「奥の細道」には 古人冠を正し衣装を改し事など と書かれている。
曽良の発句 「卯の花をかざしに関の晴着かな」に倣って
 夏草の露を集めて手を清め、(季語が重なっているって)


白河の関を出て少し行くと「アウシュヴィッツ平和博物館」がありました。

20世紀末頃に松山でも展示会があったと記憶しています。
発足間もなくだったのか、館内は工事中でした。表には貨車(ワム?)が置いてありました、収容所へ移送するシーンなどの映画などでよく見るイメージかな。
早速会員になりました。中学生の時代からあのゲーテやベートーヴェンのドイツ人が何でと思いました。「スペシャリスト」と言う映画がありました、真面目で能力があるがナチスに加担する怖さがありました。「個人はどうあるべきか」を「君は見ていた」と問いかけます。
 NPO法人アウシュヴィッツ平和博物館 
なお、2025年1月27日はアウシュビッツ強制収容所の解放から80年です。


その後2020に庄内の酒田・鶴岡へ行く機会がありましたが念珠関所跡は近世に作られたとのことを聞き行く機会がありませんでした。。


「室町は今日もハードボイルド」 後半続き

2025-01-25 12:59:18 | 
「補陀落渡海」補陀落山寺のパンフレットより
 那智の浜から三十日分の燈明油と食糧をたずさえて、外へ出られないように釘付けをして沖に流し、観音の浄土すなわち補陀洛山に往生しようとする宗教儀礼で、この地から多くの渡海者が船出しました。熊野年代記によるとこの補陀洛渡海は貞観十年 (八六八)の慶龍上人にはじまり、平安時代に三回 室町時代に十回 江戸時代に六回が記録されているだけでも出船しています。
渡海僧出発の様子は「那智参詣曼陀羅」に画かれているが渡海は十一月、北風の吹く日を選んで夕刻に行なわれました。当日渡海者は補陀洛山寺御本尊前で秘密の修法をし、続いて三所権現を拝しました。見送りの人々のどよめきの中を一ノ鳥居をくぐって浜に出て、白帆をあげ、屋形の周囲に四門及び忌垣をめぐらした渡海船に乗り伴船にひかれて沖の綱切島まで行き、ここで白綱を切って観音浄土をめざし、南海の彼方へ船出して行きました。
 日夜、法華経を誦し、生きながら極楽浄土に旅立つ決死の行でありましたが、近世になると金光坊が渡海を拒んで島に上がりましたが無理矢理に入水させられたという伝説もあり、生きながら渡海をするという習慣はなくなり、当寺の住職が死亡した場合、かつての補陀洛渡海の方法で水葬をするという儀式に変って行きました。
 現在当寺の裏山には渡海上人の墓があります。

「補陀落渡海記」 井上靖著の短編集本があります。

お寺に残る渡海舟の実物大。


遠く太平洋を航行する船の上部。地球は丸いのだ。

 補陀落渡海は南紀のここからだけでなく高知県の足摺岬や室戸岬だけでなく、日本海側からもと。
足摺岬には、残された人が足摺をして残念がったのが岬の名前として残ったとか。補陀落渡海の言い伝えからか自殺の名所となり「ちょっと待て、もう少し考えよ」という自殺防止用の看板があったとか。

足摺岬



さて、元の本に戻り
 鎌倉の御家人が不名誉な自身を恥じて補陀落渡海をした話。
熱心な研究者が全国の資料を調べ合計57件あったとか。最後は1909年・明治だとか。統計的な分析では16世紀前半4件なのに16世紀後半11件17世紀前半に15件と増えその後途絶える。きっと何かあった?
この頃が宗教にすがる最後の時代かと思うが何があったのか面白い。
あちらではレコンキスタからルネッサンスの時代へと人々が論理的に考えるようになってきた。
流通が変わり人々の移動が変わりものの考えも変わり、「人権宣言」に向かうのかも。
「神様は何もしてくれない」、「ほなわしらの力で」と・・・・

 この本ではその後、事の正邪を決めるのに熱湯に腕をつけてその傷跡から正邪決める。まだまだ神様の出番があったお話。芸能の夢幻能のお話など。面白い。



「室町は今日もハードボイルド」清水克之著

2025-01-21 12:10:13 | 
面白い本に巡り合いました。
日本の中世を扱っています。
究極の自由主義の中で人々がどのように生きたかを面白おかしく。

 先ずは菅浦集落、案内書には
「菅浦は,琵琶湖最北部の急峻な沈降(ちんこう)地形に営まれた集落である。鎌倉時代から江戸時代にかけての集落の動向を記した『菅(すが)浦(うら)文書(もんじょ)』によると,永仁3年(1295),菅浦は集落北西に所在する日指(ひさし)・諸河(もろこ)の棚田(たなだ)を,隣接する集落である大浦(おおうら)と争い,以降150年余りにわたって係争が続いたことが知られる。」と書かれていて本ではその模様が「隠れ里の150年戦争」。
信じられるのは己と仲間。

 2015年ころ、その様な情報を知らず訪問した。風向きにより琵琶湖が高波になるのか石垣の奇麗なところだと思った。



その後は、向源寺の11面観音像を見に、この仏像は姉川の戦いの折に戦火を避けるため村人が地中に埋めたとか、腰をちょいとひねったお姿・・・宜しねえ。
写真撮影禁の為案内チラシで。
白洲正子さんの本、湖北の十一面観音だったかで紹介されていました。



11話「アイツだけは許さない」、2025年1月の兵庫の出来事と照らし合わせて。
伊達氏の「塵芥集」には、自害した理由を言い残していたら遺言の仇を伊達家が成敗するとか、残念ながら現代では加害者への制裁は出来ない。死を賭すほどの訴えを中世はくみ取るシステムがあった。本には武田や徳川での例も。
 そう言えば新渡戸稲造の「武士道」にも仇討ちの項があった。


敵討ちにはこんなのも「うわなり打ち」
先妻が仲間を集めて後妻の屋敷を襲う・・・オッソロシ~


まだ、本の中ほどだが面白い。