※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。
小菅修船場跡の捲上小屋は、
幕末から明治初期のごく短い期間に長崎で造られた
通常の煉瓦より薄い、蒟蒻煉瓦と呼ばれる煉瓦で造られています。
そこで少し煉瓦の事を調べてみました。
「蒟蒻煉瓦」。。。その響きと共に気になります。
小菅修船場跡に残る捲上機械小屋の全景。
この小屋の壁面には蒟蒻煉瓦が使われ、
同時に現存する最古の煉瓦建築物と言われている、
明治元年(1868)に建てられた建物です。
壁面には蒟蒻煉瓦が綺麗に並んでいます。
蒟蒻煉瓦の発祥は幕末の安政4年(1857)~文久元年(1861)、
当時幕府がオランダに発注した軍艦ヤッパン<Japan>丸(後の咸臨丸)に乗ってやってきた、
ハルデスという人の指導で建設された長崎鎔鉄所のために造られた煉瓦でした。
一般には煉瓦の焼成技術が未熟なために薄い煉瓦が造られたと言われますが、
それよりも鎔鉄所建設のための大量の煉瓦の必要に迫られた、
乾燥期間短縮に重点があったそうです。
横浜開港記念館編『日本の赤煉瓦』では、この長崎鎔鉄所の煉瓦を、
それ以降長崎で造られた<蒟蒻煉瓦>と区別して、
特に<ハルデス煉瓦>と呼んでいます。
蒟蒻煉瓦はそれ以降、
大浦天主堂(元治元年:1864)の一部、
聖福寺の惜字亭(焼却炉)(慶応2年:1866)、
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫(明治4年:1871)
(いずれも現存)など長崎の方々で使用され、
上画像の小菅修船場の捲上小屋もその一つです。
蒟蒻煉瓦で一番気になるところは、
いつ頃造られなくなったかという点ですが、
石井研堂編『明治事物起源』には、
蒟蒻煉瓦が使用された年代の下限を、おおむね明治16年(1883)頃とする説がある
と記載されているそうです。
またこの説を裏付けする要因かどうかはわかりませんが、
明治16年(1883)に長崎県外海町に建てられたド・ロ神父記念館(旧救助院)の外壁は、
蒟蒻煉瓦と通常煉瓦の混合された作りになっています。
さて中ノ島の歴史を見てみると、
三菱の経営下になるのは明治17年(1884)からですから、
もし蒟蒻煉瓦の製造が明治16年の時点でなくなっていたとすれば、
島内に残る蒟蒻煉瓦の遺構は三菱経営以前の時代に、
既に造られていたものの可能性があることになります。
■参考資料■
『日本れんが紀行』喜田信代
『日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋
>中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2
________________________________
■シリーズ:長崎さるく■
> NEXT > TOP > INDEX
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。
小菅修船場跡の捲上小屋は、
幕末から明治初期のごく短い期間に長崎で造られた
通常の煉瓦より薄い、蒟蒻煉瓦と呼ばれる煉瓦で造られています。
そこで少し煉瓦の事を調べてみました。
「蒟蒻煉瓦」。。。その響きと共に気になります。
小菅修船場跡に残る捲上機械小屋の全景。
この小屋の壁面には蒟蒻煉瓦が使われ、
同時に現存する最古の煉瓦建築物と言われている、
明治元年(1868)に建てられた建物です。
壁面には蒟蒻煉瓦が綺麗に並んでいます。
蒟蒻煉瓦の発祥は幕末の安政4年(1857)~文久元年(1861)、
当時幕府がオランダに発注した軍艦ヤッパン<Japan>丸(後の咸臨丸)に乗ってやってきた、
ハルデスという人の指導で建設された長崎鎔鉄所のために造られた煉瓦でした。
一般には煉瓦の焼成技術が未熟なために薄い煉瓦が造られたと言われますが、
それよりも鎔鉄所建設のための大量の煉瓦の必要に迫られた、
乾燥期間短縮に重点があったそうです。
横浜開港記念館編『日本の赤煉瓦』では、この長崎鎔鉄所の煉瓦を、
それ以降長崎で造られた<蒟蒻煉瓦>と区別して、
特に<ハルデス煉瓦>と呼んでいます。
蒟蒻煉瓦はそれ以降、
大浦天主堂(元治元年:1864)の一部、
聖福寺の惜字亭(焼却炉)(慶応2年:1866)、
国際海底電線小ヶ倉陸揚庫(明治4年:1871)
(いずれも現存)など長崎の方々で使用され、
上画像の小菅修船場の捲上小屋もその一つです。
蒟蒻煉瓦で一番気になるところは、
いつ頃造られなくなったかという点ですが、
石井研堂編『明治事物起源』には、
蒟蒻煉瓦が使用された年代の下限を、おおむね明治16年(1883)頃とする説がある
と記載されているそうです。
またこの説を裏付けする要因かどうかはわかりませんが、
明治16年(1883)に長崎県外海町に建てられたド・ロ神父記念館(旧救助院)の外壁は、
蒟蒻煉瓦と通常煉瓦の混合された作りになっています。
さて中ノ島の歴史を見てみると、
三菱の経営下になるのは明治17年(1884)からですから、
もし蒟蒻煉瓦の製造が明治16年の時点でなくなっていたとすれば、
島内に残る蒟蒻煉瓦の遺構は三菱経営以前の時代に、
既に造られていたものの可能性があることになります。
■参考資料■
『日本れんが紀行』喜田信代
『日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋
>中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2
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ただいま、乗船中の練習船が長崎に寄港し、上陸しています。13日に端島周遊の予定です。
入港作業中、海上からそろばんドックを見ました。いつもは上の国道から、または敷地内に降りて平行に見ていましたが、海上から見ると意外と目立たない、こじんまりとした印象を受けました。例えていうなら「雑居ビルの入り口」という感じです。ここに現存する最古の煉瓦建造物があるというのは知られていないので、残念な気もします。
>蒟蒻煉瓦が使用された年代の下限を、おおむね明治16年(1883)頃とする説があると記載されているそうです。
高島行政センター近くの煉瓦擁壁は、説明板には明治20年頃の築造と書いてありました。「頃」という表現が微妙ですが、通説よりもう少し後年まで生産されていたか、または在庫があった可能性があります。
聖福寺の惜字亭は初めて知りました。焼却炉ですか。確かに「建築物」とは言い難いものの、これはこれで貴重な遺構ですね。
確かに今普通に思い浮かべるドックと比べると、
小さいなと思っていましたが、
小菅は海上から見ると、こじんまりしていますか。
「雑居ビルの入口」というのは面白いですね。
この施設は巻上小屋に限らず、
グラバーも関わった、国内初の様式近代的ドックでもあり、
長崎の近代化の始まりが凝縮されたような場所なので、
もっと知られてもいいんではないかと思います。
何回かに分けてアップしようと思い、
最後にアップし終わったら貴blogの記事をリンクさせて頂いた事も、
ご連絡させて頂こうと思っていました。
(今日はちょっと理由があって軍艦島の記事をアップしましたが)
蒟蒻煉瓦の製造下限は、
どの参考資料をみてみても、
やはりよくわからないのが実情みたいです。
明治16年というのも、
通説というよりは、そういう説がある的な書き方でした。
惜字亭は、以前漆喰の壁が剥落していた時に、
蒟蒻煉瓦が露出していたそうですが、
現在は綺麗に改修されて煉瓦を見ることはできないそうです。
市指定の文化財になっているので、
保存は大丈夫そうですね。
長崎市の北寄りにある金比羅山の山頂に残る、
明治7年に造られた金星の観測台の台座も、
蒟蒻煉瓦だそうです。