黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #58 小菅修船場5

2010-11-19 11:19:28 | 長崎さるく
※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。

長崎市にある小菅修船場と蒟蒻煉瓦についてです。



小菅修船場の煉瓦の小口(一番小さい面)には、
いくつかの刻印のようなものがあります。

 

この刻印の意味は現在でもはっきりとはわからないそうですが、
その数の多さから、窯のマークというよりは、
焼成の責任者印のようなものではないかといわれています。
最初の小菅の記事で取り上げた国際海底電線小ヶ倉陸揚庫には、
18種類以上の刻印が見つかっているそうです。

中ノ島に残る蒟蒻煉瓦にこれらと同じ刻印があるとすれば、
同じ窯の人が焼いたことになり、
その製造時期もはっきりしてくりのではないかと思いますが、
中ノ島に残る煉瓦、特に波打際に残る2つの蒟蒻煉瓦の遺構は、
長年風と潮に晒され表面が完全に削れているので、
なかなか刻印を発見するのは難しいかとも思います。

また小菅の煉瓦で気になるものが一つあります。
隣接する駐車場にぽつんと残る柱状の煉瓦の構造物です。
石壁にもたれかかるような設置のされかた、
上広がりのバランスの悪い形、
単体では用をなさなそうに見えるこの煉瓦の構造物は、
周囲を探しても他にありません。



最後に蒟蒻煉瓦の製造下限に関して、
この小菅の記事の最初にふれた
『明治事物起源』に記載された明治16年(1883)の他、
明治19年(1886)の佐世保鎮守府の条例による
煉瓦企画の統一(『日本れんが紀行』)や
明治20年代の長崎造船所が三菱の経営下になった後の発展期に、
現在のサイズがに変わっっている
(『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討(長崎談叢82号)』)
という記述はみつけられるものの、
いずれも確証がない記述になっています。
また、明治2年に通常サイズの煉瓦を使って造られた南洋井坑と、
そのすぐ近くにある明治20年頃造られた蒟蒻煉瓦製の擁壁に関して、
触れている記述をみつけることはできませんでした。

この小菅の記事で触れた煉瓦遺構は現在全て見学が可能です。
最初の蒟蒻煉瓦-ハルデス煉瓦-で造られた長崎造船所は既に解体され、
長崎造船所史料館内に当時の資料が展示されています。
また聖福寺の惜字亭は現在は漆喰が塗り直され、
かつて露出していた蒟蒻煉瓦を見ることはできません。



■参考資料■
日本れんが紀行』喜田信代
日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋

中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2

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