黒沢永紀オフィシャルブログ(旧・廃墟徒然草)

産業遺産と建築、廃墟、時空旅行、都市のほころびや不思議な景観、ノスタルジックな街角など、歴史的“感考”地を読み解く

長崎さるく #57 小菅修船場4

2010-11-19 04:41:28 | 長崎さるく
※以前にアップしていた記事を、
「長崎さるく」のカテゴリーに編入し、若干修整しました。

長崎市にある小菅修船場と蒟蒻煉瓦についてです。

画像は蒟蒻煉瓦が使われている巻上機械小屋の、
北東側(海を背にして左側)の壁面です。



綺麗に並ぶ蒟蒻煉瓦の壁面に
2つの回転ノブのようなものと、その下に小さな鉄板がありますが、
『長崎談叢49号』に掲載の『蒟蒻赤煉瓦石考(承前)』によると、
<空気調節のダンパーの役目をしていたものであろうと思われる装置の痕跡>
だそうです。
そして当初この面に煉瓦造りの煙突があり、
小屋内のボイラーも海を背にして左寄りに設置されていたそうです。

現在室内のボイラーは海を背にして右寄りに設置され、
小屋の裏側に残る煙突の基礎らしき構造物も、
海を背にして右よりの位置にあります。



左側の壁面にあるのと同じ形の鉄板がここにも残っていますが、
煙突基礎の煉瓦は画像からもわかるように厚みのある煉瓦です。
上出の『蒟蒻赤煉瓦石考(承前)』には、
「ボイラーの位置の移動は恐らく不断の高熱による煉瓦石の破損による」もので、
現在は「煙突取付部分に明治中期の頃の大型赤煉瓦が残っているのみ」
と書かれてありますが、
敷地内に設置された明治十年頃の様子のイメージ図を見ると
既に煙突が小屋の裏面に設置されています。



もしこのイメージ図の年代が正しければ、
建設されてまもなくボイラーと煙突は移動し、
そして明治10年の時点で、
既に厚みのある煉瓦が造られていたことになります。

以前の記事でアップした高島の南洋井坑の煉瓦が、
明治4年から稼働した施設ながら厚みのあるものだったことと併せて、
明治初期から既に蒟蒻煉瓦と平行して、
厚みのある煉瓦が造られていたことがわかります。

そうすると蒟蒻煉瓦と厚みのある煉瓦を、
なぜ造り分けていたのかが気になるところです。

ちなみに小菅修船場の引上小屋の煉瓦の接着材料は、
軍艦島をはじめ高島や中ノ島等の初期の石積擁壁をつないだものと同じ、
<あまかわ>だそうです。

■参考資料■
日本れんが紀行』喜田信代
日本煉瓦史の研究』水野信太郎
『赤煉瓦石考(一)』(長崎談叢47号)北岡伸夫
『蒟蒻煉瓦石考(承前)』(長崎談叢49号)北岡伸夫
『長崎製鉄所の建築用煉瓦について再検討』(長崎談叢82号)楠本寿一
『オランダ海軍将校H.Hardesとハルデス煉瓦の歴史的再評価』前田久・長谷川和洋

中ノ島の煉瓦について1 >中ノ島の煉瓦について2

________________________________


■シリーズ:長崎さるく■
> NEXT  > TOP  > INDEX



最新の画像もっと見る

post a comment