昨日、カンボジアのニュースをやっていた。
ポル・ポト時代に、収容所の所長をしていた人の裁判で、
禁固35年の判決が出た、というものだった。
約15年前、大学4年生のとき、卒業旅行でカンボジアに行った。
お目当てはアンコール・ワットだったのだけど、
プノンペンにある収容所跡にも行った。
そのときのガイドさんは、男性で、
中国語が話せたから、英語よりも中国語のほうが得意な私のために、
中国語でガイドをしてもらった。
収容所には、拷問のあとが、生々しく残っていた。
床には血がしみ込み、いろいろな拷問道具が残されていて、
多くの亡くなった人の写真が飾られ、拷問の光景を描いた壁画もあった。
大声で泣き出したいような気持ちになった。
私は、ガイドさんに「どうして、こんなことが起きたの。
カンボジア人同士だったのでしょう」と、こらえきれずに言った。
とにかく、「为什么?(どうして)」という気持ちだったのだ。
ガイドさんは一言、すごく抑えた声で、でも吐き捨てるように、
「疯了吧!(気が狂っていたんだろう)」と言った。
その後、帰り道に寄ったバンコクで、現地の日本人スタッフから、
カンボジアのガイドさんの家族も、収容所で拷問の末に亡くなった、ということを聞いた。
国民の5人に1人が亡くなったと言われる時代だから、
当然、生き残っている人たちは、肉親を殺された経験をもっている。
彼はいったいどんな気持ちで、私たちをあの収容所に連れて行ってくれたのだろう。
私たちに悲しみを訴えるでも、怒りをぶつけるでもなく、
自国の歴史を、淡々と語ってくれた。
日本人なら「恥」として、隠蔽してしまうような歴史を、
私たち外国の、彼らから見たら苦労なんて知らないような、
お金持ちの日本の女子大生に、
彼は人としての最大限の敬意と、プライドをもって接してくれた。
もう、どんな人だったのか、顔は忘れてしまったけれど、
彼の「疯了吧!」という一言は、いまでも耳に残っている。
1回旅行へ行ったきりだから、よくわからないけれど、
私の印象に残るカンボジア人は、みな親切で、礼儀正しかった。
だからこそ、収容所とのギャップに驚いたのだった。
昨日のニュースを見た範囲では、カンボジアの人たちは、
みな冷静にこの裁判を見つめているように思えた。
全容の解明は難しいだろうし、理由も見つからないことが多いだろうけど、
過去に向き合うカンボジアの人たちの姿には、とても敬意を覚えた。
ポル・ポト時代に、収容所の所長をしていた人の裁判で、
禁固35年の判決が出た、というものだった。
約15年前、大学4年生のとき、卒業旅行でカンボジアに行った。
お目当てはアンコール・ワットだったのだけど、
プノンペンにある収容所跡にも行った。
そのときのガイドさんは、男性で、
中国語が話せたから、英語よりも中国語のほうが得意な私のために、
中国語でガイドをしてもらった。
収容所には、拷問のあとが、生々しく残っていた。
床には血がしみ込み、いろいろな拷問道具が残されていて、
多くの亡くなった人の写真が飾られ、拷問の光景を描いた壁画もあった。
大声で泣き出したいような気持ちになった。
私は、ガイドさんに「どうして、こんなことが起きたの。
カンボジア人同士だったのでしょう」と、こらえきれずに言った。
とにかく、「为什么?(どうして)」という気持ちだったのだ。
ガイドさんは一言、すごく抑えた声で、でも吐き捨てるように、
「疯了吧!(気が狂っていたんだろう)」と言った。
その後、帰り道に寄ったバンコクで、現地の日本人スタッフから、
カンボジアのガイドさんの家族も、収容所で拷問の末に亡くなった、ということを聞いた。
国民の5人に1人が亡くなったと言われる時代だから、
当然、生き残っている人たちは、肉親を殺された経験をもっている。
彼はいったいどんな気持ちで、私たちをあの収容所に連れて行ってくれたのだろう。
私たちに悲しみを訴えるでも、怒りをぶつけるでもなく、
自国の歴史を、淡々と語ってくれた。
日本人なら「恥」として、隠蔽してしまうような歴史を、
私たち外国の、彼らから見たら苦労なんて知らないような、
お金持ちの日本の女子大生に、
彼は人としての最大限の敬意と、プライドをもって接してくれた。
もう、どんな人だったのか、顔は忘れてしまったけれど、
彼の「疯了吧!」という一言は、いまでも耳に残っている。
1回旅行へ行ったきりだから、よくわからないけれど、
私の印象に残るカンボジア人は、みな親切で、礼儀正しかった。
だからこそ、収容所とのギャップに驚いたのだった。
昨日のニュースを見た範囲では、カンボジアの人たちは、
みな冷静にこの裁判を見つめているように思えた。
全容の解明は難しいだろうし、理由も見つからないことが多いだろうけど、
過去に向き合うカンボジアの人たちの姿には、とても敬意を覚えた。