ゆっくり読書

読んだ本の感想を中心に、日々、思ったことをつれづれに記します。

恥の感覚

2011-01-31 21:54:39 | Weblog
父の借金が「ん億円」になったとき、正直に言って、尊敬した。
そんなに借金ができるなんて、
それだけ父や父がやろうとしていることに投資する人がいるなんて、
そりゃ~スゴいと思った。

バブルの時期だったから、借金が借金を呼んだだけだったようなのだけど、
いま、住宅ローンも組めない私からすると、やはり尊敬に値する。

確かに、借金トリが家にくるのは不快だったし、迷惑だった。
正直に言って、当時は中学生か高校生だったから、
ちょっとあちら系の人たちが家の扉をダンダン叩くのは普通にこわかったし、
社会人になって、役所を名乗る人から会社に電話がかかってきたときには、
両親が離婚して10年以上経ったのに、なんで会社まで探し当てて電話してくるのか、
すっごくすっごくすっごく不思議だった。
申し訳ないけれど、こわさ度数として、あちら系の人と役所の人は、
私にとってはニアリーイコールだった。
まあ、いまとなっては笑い話だけど。

それにしても、本当に、なんで会社にまで電話してきたのかなあ。
内容は、あちら系の人も役所の人も、
「お父さんがいまどこにいるかを教えてください」だったんだけど、
本当に知らなかったから、答えようもなかった。
後から父に聞くと、当時は、目玉が飛び出るような家賃のマンションに、
かくまってもらったこともあったらしい。
あまりにも豪華な部屋すぎて居心地が悪くなり、
すぐに、自発的に普通のマンションに引っ越したと、
微妙な笑いを浮かべながら語っていた。

まったく・・・、
私は母が倒れて、本当にお金が厳しかった時期だったのに、
父は他力本願でそんな生活をしていたとは!
心配させて・・・、子の心、親知らず、だなあ。

逆に言うと、この程度で済んだ、ということは、
私がラッキーだったのか、時代がよかったのか、
それとも、なんだかんだ言って日本はおだやかなのか、だろう。

そして、おかげで「恥の感覚」がズレたと思う。

進化

2011-01-30 17:17:54 | Weblog
ここのところ、持ち歩ける軽くて小さいノートパソコンが欲しいと思っていて、
MacBookAirのページを、何度も見に行ったりしていたのだけれど、
結局、うちにあったDellのminiサイズのノートパソコンを、
もうまったく充電できなくなったバッテリーを交換するだけにして、使い続けることにした。
OSはWinのXP。
会社で使っているWin7よりも、起動も速く、さくさく動いて快適なような気がする。

Windowsは2000とXPが、わりと好きだ。
それ以降のWindowsなら、Macのほうがいい、と思っている。
うちのiMacは、バージョン10.6。
逆に、バージョン9以前のMacは触ったことがないので、Windowsと比べられない。
だから、私の好みは単に慣れの問題だ。
そして、見た目にも、ほとんどこだわりはない。
色は、白、黒、シルバー、赤・・・、もうなんでもいい。
スタイリッシュなものを家に置きたい、という感覚もあまりないので、
買い物でわくわくすることも、ほとんどない。

当然ながら、自分の容姿にしてもそうで、服装や髪型、お化粧など、まるでやる気はない。
ただ、健康でありたいと思う。これは自分自身の快適さのためなので、
オシャレにこだわるあまり、着心地の悪い服や靴をがまんして履くこともない。
ということで、基本的に毛皮を着ている犬や猫はうらやましいと思っている。
ただ、夏は暑くて大変そうだなあと思う。脱ぐわけにいかないから。

『哲学者とオオカミ』という本を読んだ。
マーク・ローランズという哲学者が、約10年にわたり、
純血のオオカミと暮らしたときのことを書いたものだ。

私がむかし犬を飼っていたとき、
都会の人間の生活を、いかに犬に理解してもらうか、馴染んでもらうかにすごく苦労した。
彼らの自然は、人間のルールにあてはまらない。
犬は走る。動いているものを追う。外敵を排除しようとする。そして、賢い。
人間との長い歴史の中で「飼いならされた犬」ですら、慣れてもらうのは大変だ。
それが、オオカミであったならなおさら。

私が小さいころに読んだ本には、よく、
オオカミは、人間が征服すべき暴力的な自然の代名詞のように登場した。
でも、そんなオオカミに、なにか憧れのようなものも感じ、気高さに圧倒され、
「オオカミが見てみたい。動物園のじゃなくて、本物の!」と母にねだったときの気持ちを
久しぶりに思い出した。

ニホンオオカミも、すでに博物館で剥製を見られるだけになった。
美しくて崇高なものが生き残るとは限らない。
生き残るから偉いとも限らない。
人間にとって脅威だったものが、ひどく悪いものとも限らない。
ふと、進化ってなんだろうなあと思うときがある。

イチゴ成長中

2011-01-29 16:36:38 | Weblog
プランターでもイチゴができることに感激中。


すくすくと育っている。
そして、ギャアギャア鳴きながら空高く飛ぶ青サギを見ては、
このかわいいイチゴたちを、あの大きなくちばしでつついている図を想像し、
すごくおそろしくなる。
もちろん、いつもはちゃんとネットをかけている。
が、見つかったら最後、ネットなんて簡単に突き破られるだろう。
先日、烏がネットをくちばしで破り、中のゴミをあさっているのを見た。
サギって烏の親戚だから、そのくらいのことはやるんだろう。

それにしても、サギというのは、ずいぶん高くまで飛ぶものなのだな。
3階建ての建物をゆうに越えて飛んでいる。
しかも大声で鳴きながら。
烏に比べると美しい気がするのは、単に色が真っ黒ではない、というだけで、
パワーは、もしかしたら烏を越えるのかもしれない。

スノードロップもいよいよ満開に近づく。


白い花って、いつまででも見ていられるような気がする。

そして、数日前の夜に撮った月。
川面に月明かりが反射しているのだけれど、
まだカメラをうまく調整できなくて、こんな感じ。


実際の美しさにはほど遠い。
そして、ほど遠いからこそ、楽しくなる。


紙と鉛筆

2011-01-28 22:06:49 | Weblog
ここ数日、紙と鉛筆というのは偉大だな、と思っている。
抽象的な意味ではなくて、実用的な意味で。

何かを考えるとき、白い紙と鉛筆さえあれば、
言葉や記号をかきなぐって、自由に線でつないで、
何かが産まれつつあるような錯覚に酔うことができる。
そして、頭がどんどん活性化してくる。

私のパソコンスキルはそれほど高くないので、
紙と鉛筆ほど自由でスピーディに、思いつくままに書くなんてことはできない。
ある程度の構造が決まり、整形していく過程であれば、パソコンは非常に便利だ。
でも、とりあえずいろいろ書いてみる段階では、
紙をぐるぐる回転させながら鉛筆で書くという快感に勝るものはない。

ブログを書くのも、スッキリするから好きなのだけれど、
紙に鉛筆で、いろいろと書きなぐっているときの楽しみとは、また少し違う。

何かを考えながら、紙に書いているとき、
時間は一定方向に流れるのではない、と、感じることがある。
確かに、先ほどよりは書かれている文字が増えているのだけれど、
考えていることは、決してある方向に向かっているわけではなくて、
螺旋になったり、フリーズしたり、
昨日の考えを打ち消して、何もなかった状態に戻ったかのような気持ちになることもある。

時は刻まれ、刻一刻と死に近づいているわけだけれど、
頭の中は、3歳のころにあった出来事につかまれてしまうこともある。
浮かんでは消えるイメージ。
頭のなかに、言葉にならない言葉が満ちるとき、
ふと、念写ができたらいいのに、と、思う。
きっと念写したら、いまのどんな先進的な3Dよりも立体的で刺激的なものになるだろう。

言葉になりきらないからこそ、俯瞰してみたい。

弱点が出ている

2011-01-27 23:31:28 | Weblog
月は、我が家のベランダからは撮れないところに行ってしまった。

さて、すっかりノドをやられている。
声が出ないときに限って、声を使わなければいけない仕事がある。
そして、無理をして声を出すので、ますます音がかすれ、出なくなり・・・、
いろいろな人をギョッとさせる声となる。

今回のこの感じだと、きっとあと1ヶ月は完治までにかかる。
もともとノドは弱いから、もうこうなると諦めモードだ。
どんな薬も気休め程度にしか効かないし、
ノドがへばっているときは、熱は出ないしお腹も悪くならないので、
一人で負債を背負ってくれるノドに感謝する気持ちになる。

そして、こんなときにスーパーのレジで、
「ポイントカードはお持ちですか?」と聞かれると、
自分勝手だけれど、本当に、非常に、苦痛だ。
ポイントカード類は、お財布が重くなるので、基本的に持たないことにしている。
あれば出すし、なければ出さない。
そして、「ありません」という声がいまは出せない。
仕方なく首を横に振ったら、なんとも情けない、子どもじみた気分になった。

もし、私のノドが強くて、
カラオケボックスに何時間でもいられるくらい健康だったら、
私もカラオケが好きになったのだろうか。

もう何年もカラオケボックスには行っていないけれど、
約5年前に仕事の付き合いでカラオケボックスに入ったとき、
乾燥、誰かのタバコ、話すときに大声になることなどが重なり、
1時間もいると、一曲も歌わなくてもノドが嗄れるようになっていた。
それが数回続いたので、カラオケボックスは、私にとっての鬼門となった。

好きか嫌いか、得意か不得意かは、
たぶんに体質に左右されるものだと、この年齢になってようやく気がついた。
むかしは、すべて若さでごまかしていたんだなあ。

黒い時計の旅

2011-01-26 23:05:50 | Weblog
『黒い時計の旅』スティーヴ・エリクソン著、柴田元幸訳、白水uブックス

ヒトラーが死ななくて、第三帝国が続いていて・・・、という
あったかもしれない20世紀のお話。
「よくできてるな~」という物語だった。

ポルノ小説を書いている人が話の中心となっているので、
電車の中で読むには、もし隣の人に見えてしまったら、
少し恥ずかしいなあ、というシーンがあるけれども、
結局、電車の中でも読んでしまった。

読みながら改めて思ったのだけれど、
欧米にとって、やはりヒトラーは悪魔だったのだなあ。
日本のことなんて、まるで出てこない。
ドイツとのからみで、少しその存在にふれられるのみ。
日本がアメリカ本土に攻め込む可能性なんてまったく考えられていなくて、
第三帝国が続いているという設定なので、文中では、
もちろん日本ではなく、ドイツが攻めて行っている。
よっぽど中国人の移民の方が存在感がある。

そんな程度の存在感しかなかったのに、
実際には、日本はアメリカと戦争をして、
そして2つも原爆がおとされて、多くの方が、一般の市民が殺されたんだ。
無差別大量殺人が行われたのは、
ドイツの収容所と、原爆が投下された広島と長崎。
もちろん日本軍も中国や朝鮮で多くの人を殺した。
それを棚に上げるわけではないけれど、
20世紀の、あの戦争のことを幻視をもってながめるにあたって、
ヒトラーの惨さだけを見て、原爆を見ないのは、やはり納得いかない。

ということで、
物語のプロットとしてはよくできていると思ったのだけれど、
視点としては、非常に寂しさを感じるお話だった。

プチ嬉しいこと

2011-01-25 21:56:50 | Weblog
今日の帰り、新宿駅で電車をおりようとしたら、
ホーム側にお父さんと小さな男の子2人が立っていた。

お父さんは、男の子の手をしっかりと握り、
男の子が今にも電車に飛び込んで席を確保しようとしているところを、
グッとおさえていた。

なんて、しつけをしっかりする父親なんだろう、と思ったら、
中国語を話していた。

お父さん 「降りる人が終わったら乗りなさい」
たぶん長男「もう、ほとんど降りたよ」
お父さん 「いや、まだ人が来るだろう」
最後のひとりがまさに降りた瞬間に、
長男&次男「もういいでしょ!」
お父さん 「走らず、ゆっくり歩きなさい」

なんだか嬉しくなった。
日本で、日本人のマナーをもって、子どもをしつけている中国人の父親がいる。
それに、
日本でも最近は、人前で親が子どもをしかることが減った。
特に父親が子どもを注意しているところなんて、ほとんど見かけない。
嫌われたくないから、子どもに気をつかっているんじゃないかと思うことがあるくらいだ。

そういえば先日、
隣の席の派遣さんたちの私語が、
朝から業務と関係ないことで、ちょっと過ぎるかな、と思い、
しかも周囲の社員さん(すべて男性)は、注意するふうでもなかったので、
「ごめん、気が散るんだけど」と注意したら、
それ以来、片方の人は、「おはようございます」「お先に失礼します」のどれにも
まったくもって無視で返してくるようになった。
私と同年齢なんだけど、まるで女子高生みたいだなあ、と、少し面白い。

日本人だからといってマジメで勤勉とも限らない。
人は、自分に対して甘いものだから、
どんなに能力が高くても、他人を侮ってサボることもある。
まったくもって、3人行けば我が師を得るものだ。

メイドインジャパンと中国人の生活

2011-01-23 21:50:50 | Weblog
もしかしたら、中国の若者の方が、いまの日本のことをよく知っているかもしれない。
1993年に中国留学したころと違い、
この数年間、中国へ行くたびに、なんとなくそう思った。

中国の若者は、私が中国語を話す日本人だとわかると、喜んで寄ってくる。
もちろん日本人が嫌いな中国人もいる。
でも、都市部の若者は、基本的に日本に対して興味があると思う。
そして、アニメや日本の電気製品の話をする。

アニメ「ドラえもん」は私も好きだった。
「クレヨンしんちゃん」は、むかしテレビ番組を何回か見たことがあるので、まだついていける。
でも、「ドラゴンボール」以降の日本アニメのほとんどは、
日本で流行っていたときに興味がなかったから、内容はもちろん存在すら知らないものがたくさんある。
日本でヒットしたから中国にも「輸出」されたのだろうに、タイトルすら知らないものもあった。
「テニスの王子様」は、その存在も決め台詞も、中国人に教えてもらった。
よりオタクなアニメの話題になると、まったくわからない。

宝塚歌劇団に憧れている中国人の女の子が、目をキラキラさせて、
ナントカ組のトップの名前を中国語読みで言った。
そして、「知ってる?」と聞かれたときには、本当に目を見開いてフリーズしてしまった。
そのあと、次々とアイドルの名前を挙げられたけれど・・・、
別に本人と知り合いじゃないし、ファンじゃないし、
名前を知っている人はいれども、どんな歌をうたっているか知らなくて・・・、
そう応えるのもなんだか申し訳なく、
「国籍の問題じゃないよ。もう若者とは話があわないさ」という気分になりつつ、
「日本人だからといって、みんながそれを好きというわけではないんだよ」と言ってやるには、
相手の日本への憧れは強く、日本人と初めて話しているという感激も大きく、
ついつい私は、日本人特有の「あいまいな笑顔」というのを浮かべてしまった。

日本の電気製品の話は、まだ、なんとなくついていける。
品質がよくて丈夫で長持ち、仕様がすごく親切。
テレビ、冷蔵庫、洗濯機、「モノ」は何であっても、ほめるポイントはほとんど同じ。
だから、話についていける。

『メイドインジャパンと中国人の生活 ~日本のメーカーが与えた中国への影響~』という、
中国人の日本語作文コンクールの受賞作品集を読んだ。

そこには、私が知らない日本がたくさんあった。
そして、日本語を学んでいる人は、よく日本のことを学んでいる。
商品やコンテンツの表面的なことではなくて、
「なぜ、どうして、そんな商品を生み出すことができたのか」という、
日本の文化や精神面についての考察も深い。

私はいままで、日本は工業製品を輸出している国だ、と思っていたのだけれど、
工業製品は、イコールで、日本の文化なのだと思った。
中国人が日本のアニメを楽しんでいるのも、それは「よくできている」からだ。
だから、熱狂しているんだ。
当然のことなのだけれど、わかっていたつもりだったのだけれど、
改めて外国の人に言ってもらうと、心の奥に響くことがある。

欧米から、エコノミックアニマルと揶揄された時代があった。
でも、「ものづくり」は、日本の文化なんだと、改めて思った。

なんだか、ここのところ日本が好きになっている。

緊張感

2011-01-22 17:28:52 | Weblog
昨日のサッカー日本代表の試合は、本当にすごかった。

失礼な話だけれど、
日本を、というか、日本の男性を、かなり見直した。

海外でプレーすることが、憧れから、現実の選択肢の1つとなったことが、
大きな理由となっているのだろう。
日本国内にいて、とりあえず居場所があるし、それに安定しているからいいや、
という考え方をもっているあいだは、
ある意味でにわか仕込みの代表というチームにおいて、
苦しいときにこそ結果にこだわる、という精神力は育ちにくいと思う。
これは、サッカーに限らず、すべての仕事に共通すると思う。

居場所があって安定している、ということは、
時に、楽して稼げるならそれが一番、という気持ちに繋がる。
これは、合理性や効率を求める上で、プラスに働くこともあるけれど、
人は弱い生き物だから、たいていはサボリに繋がってしまう。
自分では一生懸命にやっているつもりでも、いつの間にか自分を甘やかしてしまいがちだ。

これは、トレーニングの器具がそろっているとか、
何時間練習をしている、という問題ではなくて、心の緊張感の問題。
昨日の試合には、本当に励まされた。

さて、そう言いつつも、すっかりカメラで気持ちがのびきっている。
鳥を撮ろうと思ったら、なんだか不思議な木が撮れた。


木をとりなおして、鳥にフォーカス。(ダジャレになって嬉しい)


いちごもますます育っている。


今日も東京は美しい夕焼けだった。


すっかり緊張感のない休日になっているけれど、
さて、今日はこれから、心と頭を使うことをする。