先日、いまの子どもはサンタクロースを信じていない、という話をした。
「サンタクロース、来るの楽しみだね」と言ったら、
子どもたちから
「サンタクロースなんていないよ。だって、お母さんから何が欲しい?って聞かれたもん」
という、答えが返ってきたらしい。
同じように、神話や昔話も「あり得ないこと」という認識らしい。
いまの子どもは夢がないねえ、とは言えない。
私もそうだったから。
幼稚園ではじめてミッキーマウスという存在を知った日、
家に帰って、「ねえねえ、お母さん、ミッキーマウスって知ってる?」と聞いたら、
「ああ、ネズミでしょ」と言われ、一気に興ざめした記憶は、結構強烈に残っている。
母親の一言の威力は大きい。
私が「ぽわわわ~ん」という気持ちになると、結構すぐに幻想を打ち砕かれた。
だから、母の言葉が届かないところで夢想した。
それは怪人二十面相との架空の対決だったり、
ツタンカーメンとアンケセナーメンの恋のお話だったり、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパの悲哀だったりした。
まったくのファンタジーとは違ったし、夢とも違うけど、想像はした。
小さいころ読んだ本には、よく、意地悪な継母や強欲なおばあさんが出てきた。
つまり、大人の女性には、イヤなヤツが多かった。
男性は、だいたいが素朴で、いじめられる子どもをかばってくれる役だったと思う。
飲んだくれか夢想家で生活力がないと言われることはあっても、
継母やおばあさんほどのイヤな雰囲気はなかったと思う。
いま、童話で語られるイヤなおばさんの年齢になって、
自分はどうかなあ、と振り返ると、
妙に覚めてて、現実的すぎて、まあ、同じカテゴリーに入ったと思う。
ただ、小さいころ、献身的で貞節な女性も、白馬の王子様を待っている女の子も、
どっちも共感をもてなかったから、これはこれでしょうがない。
いま、『中国低層放談録』を読んでいる。
夢なんて持てないような話が続くけど、どこかに救いはあるんじゃないかと、
読みながら、少しあがいてみようと思う。
「サンタクロース、来るの楽しみだね」と言ったら、
子どもたちから
「サンタクロースなんていないよ。だって、お母さんから何が欲しい?って聞かれたもん」
という、答えが返ってきたらしい。
同じように、神話や昔話も「あり得ないこと」という認識らしい。
いまの子どもは夢がないねえ、とは言えない。
私もそうだったから。
幼稚園ではじめてミッキーマウスという存在を知った日、
家に帰って、「ねえねえ、お母さん、ミッキーマウスって知ってる?」と聞いたら、
「ああ、ネズミでしょ」と言われ、一気に興ざめした記憶は、結構強烈に残っている。
母親の一言の威力は大きい。
私が「ぽわわわ~ん」という気持ちになると、結構すぐに幻想を打ち砕かれた。
だから、母の言葉が届かないところで夢想した。
それは怪人二十面相との架空の対決だったり、
ツタンカーメンとアンケセナーメンの恋のお話だったり、
インカ帝国最後の皇帝アタワルパの悲哀だったりした。
まったくのファンタジーとは違ったし、夢とも違うけど、想像はした。
小さいころ読んだ本には、よく、意地悪な継母や強欲なおばあさんが出てきた。
つまり、大人の女性には、イヤなヤツが多かった。
男性は、だいたいが素朴で、いじめられる子どもをかばってくれる役だったと思う。
飲んだくれか夢想家で生活力がないと言われることはあっても、
継母やおばあさんほどのイヤな雰囲気はなかったと思う。
いま、童話で語られるイヤなおばさんの年齢になって、
自分はどうかなあ、と振り返ると、
妙に覚めてて、現実的すぎて、まあ、同じカテゴリーに入ったと思う。
ただ、小さいころ、献身的で貞節な女性も、白馬の王子様を待っている女の子も、
どっちも共感をもてなかったから、これはこれでしょうがない。
いま、『中国低層放談録』を読んでいる。
夢なんて持てないような話が続くけど、どこかに救いはあるんじゃないかと、
読みながら、少しあがいてみようと思う。