ここ数日、上海暑い。
いま室温を見たら、25度もある。
昼間30度まで上がれば、しょうがないというもの。
隣の公園で毎晩行われるカラオケの音がうるさいけれど、
とりあえず、窓を開けてみることにした。
よくまあ、毎晩飽きずに星空カラオケ大会が開けるものだ。
まったく、周囲の住民の迷惑なんて考えてない。
きっと周囲の住民も、迷惑だなんて思ってないんだろう。
文化の違いだ。
こんなに騒がしくても、読書ができるようになったのは鍛錬の成果。
まず1冊目。
『ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国』(今枝由郎著、大東出版社刊)
ブータンと言ってまず思い出すのは、シッキム王国のこと。
すごく昔の記憶をたどると、たぶん35年くらい前に、
母が、シッキム王国がインドに併合されてしまった話をしていた。
そして、ブータンは大丈夫だろうかと言っていた。
もちろん私はまだすごく幼くて、その意味がよくわからなかったけれど、
すごくショックを受けた記憶がある。
それから長い間、ブータンはヒマラヤの不思議な国という印象だったのだけれど、
チベット仏教に興味をもったとき、当然のことながらブータンにも興味をもった。
ブータンが、神秘的なうえに、すごくいい国とは限らないと思っている。
というのも、私がチベットのラサを訪れた時、
漢族の移住者は威張りくさり、チベット人は抑圧された者独特の顔付きをしていたから、
いくら仏教思想がすばらしくても、軍事大国の前にそれを守るのは難しいと思う。
とはいえ、いまだ外国によって占領されたことにない仏教国が、
どのように周囲の大国と付き合い、国づくりをしていくのかは、たいへん興味深い。
この本は、少し前の情報なので、いまとはかなり違う部分もあるだろうけれど、
やっぱり一度は行ってみたい魅力的な国だ。
トウガラシを野菜としてぼりぼり食べる敬虔な仏教徒なんて、想像するだけでも面白い。
ぜひ、体験せねば。
そして2冊目。
『秘史 密教のすべて』(正木晃編集、新人物往来社刊)
小学生の頃、母に質問した。
仏教なのに、なんで墓があるのか。
輪廻転生するのであれば、どうして○回忌などを行う必要があるのか。
戒名なんて、意味がないんじゃないか。
もし、西方浄土に阿弥陀様がいらして、すべての人を救ってくださるのなら、
なぜ、いま、救ってくれないのか。
そして、最大の謎。なぜお坊さんなのに、奥さんも子どももいて、
お坊さんを世襲していくのか。
当時から、変に理屈っぽかったらしい。
仏教系の幼稚園に通っていたこともあって、
むかしから仏教説話にはよく接したけれど、
接すれば接するほど、現実との矛盾を感じざるを得なかった。
密教は、というか仏教は、戒律と、それを得るための過程の修業が大切。
空海が中国から持って帰ってきた当時の仏教と、チベットの仏教の本を読むようになって、
やっと仏教に対する私の距離感が、落ち着いてきた。
そして、本を読んでも、やはり修業をしていない身としては、
文章だけではわからないことがたくさんあると思う。
密教の本を読んで、一番、私の日常世界に取り込めると思うことは、
とにかく「やってみる」ということ。
やってみなければ、そこになにがあるかはわからない。
たとえ簡単な事務作業でも、
知識として知っていることと、実際に手を動かしてやることは違う。
いま、上海人たちは「知ったかぶり」をする。
海賊版が横行するのも、上辺だけを真似したり、コピーしたりすることを、
「頭がいい」と思っているから。
一歩進んだとしても、「できるヤツを買ってくればいい」と思っている。
そして、「こいつがだめでも、他に作れるヤツがいる。金があれば買える」と。
人が代替可能だと思うこと。
それが共産主義の一番の弊害だと思う。
自分すら代替可能だからこそ、たった1つのものを買いたがって、右往左往している。
いまこそ、中国に仏教は必要だと思うなあ。
いま室温を見たら、25度もある。
昼間30度まで上がれば、しょうがないというもの。
隣の公園で毎晩行われるカラオケの音がうるさいけれど、
とりあえず、窓を開けてみることにした。
よくまあ、毎晩飽きずに星空カラオケ大会が開けるものだ。
まったく、周囲の住民の迷惑なんて考えてない。
きっと周囲の住民も、迷惑だなんて思ってないんだろう。
文化の違いだ。
こんなに騒がしくても、読書ができるようになったのは鍛錬の成果。
まず1冊目。
『ブータン―変貌するヒマラヤの仏教王国』(今枝由郎著、大東出版社刊)
ブータンと言ってまず思い出すのは、シッキム王国のこと。
すごく昔の記憶をたどると、たぶん35年くらい前に、
母が、シッキム王国がインドに併合されてしまった話をしていた。
そして、ブータンは大丈夫だろうかと言っていた。
もちろん私はまだすごく幼くて、その意味がよくわからなかったけれど、
すごくショックを受けた記憶がある。
それから長い間、ブータンはヒマラヤの不思議な国という印象だったのだけれど、
チベット仏教に興味をもったとき、当然のことながらブータンにも興味をもった。
ブータンが、神秘的なうえに、すごくいい国とは限らないと思っている。
というのも、私がチベットのラサを訪れた時、
漢族の移住者は威張りくさり、チベット人は抑圧された者独特の顔付きをしていたから、
いくら仏教思想がすばらしくても、軍事大国の前にそれを守るのは難しいと思う。
とはいえ、いまだ外国によって占領されたことにない仏教国が、
どのように周囲の大国と付き合い、国づくりをしていくのかは、たいへん興味深い。
この本は、少し前の情報なので、いまとはかなり違う部分もあるだろうけれど、
やっぱり一度は行ってみたい魅力的な国だ。
トウガラシを野菜としてぼりぼり食べる敬虔な仏教徒なんて、想像するだけでも面白い。
ぜひ、体験せねば。
そして2冊目。
『秘史 密教のすべて』(正木晃編集、新人物往来社刊)
小学生の頃、母に質問した。
仏教なのに、なんで墓があるのか。
輪廻転生するのであれば、どうして○回忌などを行う必要があるのか。
戒名なんて、意味がないんじゃないか。
もし、西方浄土に阿弥陀様がいらして、すべての人を救ってくださるのなら、
なぜ、いま、救ってくれないのか。
そして、最大の謎。なぜお坊さんなのに、奥さんも子どももいて、
お坊さんを世襲していくのか。
当時から、変に理屈っぽかったらしい。
仏教系の幼稚園に通っていたこともあって、
むかしから仏教説話にはよく接したけれど、
接すれば接するほど、現実との矛盾を感じざるを得なかった。
密教は、というか仏教は、戒律と、それを得るための過程の修業が大切。
空海が中国から持って帰ってきた当時の仏教と、チベットの仏教の本を読むようになって、
やっと仏教に対する私の距離感が、落ち着いてきた。
そして、本を読んでも、やはり修業をしていない身としては、
文章だけではわからないことがたくさんあると思う。
密教の本を読んで、一番、私の日常世界に取り込めると思うことは、
とにかく「やってみる」ということ。
やってみなければ、そこになにがあるかはわからない。
たとえ簡単な事務作業でも、
知識として知っていることと、実際に手を動かしてやることは違う。
いま、上海人たちは「知ったかぶり」をする。
海賊版が横行するのも、上辺だけを真似したり、コピーしたりすることを、
「頭がいい」と思っているから。
一歩進んだとしても、「できるヤツを買ってくればいい」と思っている。
そして、「こいつがだめでも、他に作れるヤツがいる。金があれば買える」と。
人が代替可能だと思うこと。
それが共産主義の一番の弊害だと思う。
自分すら代替可能だからこそ、たった1つのものを買いたがって、右往左往している。
いまこそ、中国に仏教は必要だと思うなあ。