ようやく日本に慣れてきた。
「日本に」というのは、日本人の話し方に、というか、日本語に、だ。
上海でも、基本的には日本人と一緒にいたけれど、話し方がやはり少し違う。
本土では、外国語を話す人でも、話し方や話す内容が「村」になる。
英語がぺらぺらな人でも、日本語では、周囲に気をつかいすぎてなのか、
その人が何を言いたいのかわからない日本語になる。
だから、中国人との会話モードのままで日本語を聞くと、
「何が言いたいの? よくわかりません」という疑問で頭がいっぱいになる。
日本語というのは、自分の考えを述べる為の言語ではなく、
あくまでも、調整する為に使われる言語なんだと実感した。
自分のなかにある、もやもやとした何か、を日本語にしたとたん、
それは個をはなれ、他と融合する。他と融合したいというとき、言葉になる。
これは、日本語以外の言語を使う人たち、
特にある程度は私も聞き取れる英語と中国語を話す人たちが
「自分」と「他人」を認識する方法と、ちょっと違うのだろうと思う。
敷衍すると、だからこそ日本の「オタク文化」や「AV」が世界で人気を博すのだと思う。
去来する一瞬の欲求ではなく、それがある程度の時間の幅を持ったかたまりとなるとき、
日本語を介すと、自己の欲求は、それを映す他者との融合となる。
そこに「わかりあう」というプロセスが生じる。
ハリウッド映画でホラーと言うと、恐怖というよりもただ単に驚かせるだけであり、
これは、交通事故への恐怖感と同じくらいのものだ。
または精神異常、いわゆるクレイジーなヤツに対する予測不能な恐怖心で、
これも自分の内面と融合する可能性はそもそも低く、
そんな人に会ってしまったらアンラッキーくらいなものだ。
中国での恐怖は、遺伝子レベルに組み込まれた食料不足への恐怖に多くを負っているのかと思うが、
例えば子孫を残さないことによって面子を失い、ついでに土地も守りきれず、
ご先祖様から恨まれ、数で勝負の中国において劣勢のためお金持ちにもなれず、
結果、みんなから家畜同然の扱いを受けるという、
ますますよく理解できないけれど、その社会の中にいたら恐怖だろうなあという印象の恐怖だ。
もしくは、共産党によって植民地化されている少数民族が、
着実に奴隷化されて行くことに対する恐怖だ。
漢族にとって必要なのは少数民族と言われるようになってしまった
モンゴル、ウイグル、チベットの地下に眠る資源であって、人的労働力ですらない。
これは、恐怖であると同時に怒りだろう。
私の恐怖は、失い続けることへの恐怖であり、
これは、他者との一体感を実感できないことに対する恐怖で、
どんな都市部であっても、日本がもっている村意識と密接に繋がっていると思う。
明治維新で、西洋の概念が入ってきたとき、
政府によって日本語も大きな変換を遂げ、新しい単語が創出された。
いま、その多くは中国が日本から輸入し、
共産主義、人民、国民、国家、歴史といった、
中国が日本を責めるときに使う単語の多くが、日本からの輸入であることに
すごく因果というものを感じる。
つまり、日本人が考え出した単語にもかかわらず、
その単語が、お互いを理解し合えないものとして、そこに言語として介在するということだ。
日本語は、というか、日本人である私は、
そもそも自分のものであったはずの何かが、あるとき自分の手を離れ、
それが思ってもいない使用方法によって自分に突きつけられる、という経験に乏しいと思う。
そして、私は、日本語で折り合いをつけようとするから、疲れるんだなあと思った。
「日本に」というのは、日本人の話し方に、というか、日本語に、だ。
上海でも、基本的には日本人と一緒にいたけれど、話し方がやはり少し違う。
本土では、外国語を話す人でも、話し方や話す内容が「村」になる。
英語がぺらぺらな人でも、日本語では、周囲に気をつかいすぎてなのか、
その人が何を言いたいのかわからない日本語になる。
だから、中国人との会話モードのままで日本語を聞くと、
「何が言いたいの? よくわかりません」という疑問で頭がいっぱいになる。
日本語というのは、自分の考えを述べる為の言語ではなく、
あくまでも、調整する為に使われる言語なんだと実感した。
自分のなかにある、もやもやとした何か、を日本語にしたとたん、
それは個をはなれ、他と融合する。他と融合したいというとき、言葉になる。
これは、日本語以外の言語を使う人たち、
特にある程度は私も聞き取れる英語と中国語を話す人たちが
「自分」と「他人」を認識する方法と、ちょっと違うのだろうと思う。
敷衍すると、だからこそ日本の「オタク文化」や「AV」が世界で人気を博すのだと思う。
去来する一瞬の欲求ではなく、それがある程度の時間の幅を持ったかたまりとなるとき、
日本語を介すと、自己の欲求は、それを映す他者との融合となる。
そこに「わかりあう」というプロセスが生じる。
ハリウッド映画でホラーと言うと、恐怖というよりもただ単に驚かせるだけであり、
これは、交通事故への恐怖感と同じくらいのものだ。
または精神異常、いわゆるクレイジーなヤツに対する予測不能な恐怖心で、
これも自分の内面と融合する可能性はそもそも低く、
そんな人に会ってしまったらアンラッキーくらいなものだ。
中国での恐怖は、遺伝子レベルに組み込まれた食料不足への恐怖に多くを負っているのかと思うが、
例えば子孫を残さないことによって面子を失い、ついでに土地も守りきれず、
ご先祖様から恨まれ、数で勝負の中国において劣勢のためお金持ちにもなれず、
結果、みんなから家畜同然の扱いを受けるという、
ますますよく理解できないけれど、その社会の中にいたら恐怖だろうなあという印象の恐怖だ。
もしくは、共産党によって植民地化されている少数民族が、
着実に奴隷化されて行くことに対する恐怖だ。
漢族にとって必要なのは少数民族と言われるようになってしまった
モンゴル、ウイグル、チベットの地下に眠る資源であって、人的労働力ですらない。
これは、恐怖であると同時に怒りだろう。
私の恐怖は、失い続けることへの恐怖であり、
これは、他者との一体感を実感できないことに対する恐怖で、
どんな都市部であっても、日本がもっている村意識と密接に繋がっていると思う。
明治維新で、西洋の概念が入ってきたとき、
政府によって日本語も大きな変換を遂げ、新しい単語が創出された。
いま、その多くは中国が日本から輸入し、
共産主義、人民、国民、国家、歴史といった、
中国が日本を責めるときに使う単語の多くが、日本からの輸入であることに
すごく因果というものを感じる。
つまり、日本人が考え出した単語にもかかわらず、
その単語が、お互いを理解し合えないものとして、そこに言語として介在するということだ。
日本語は、というか、日本人である私は、
そもそも自分のものであったはずの何かが、あるとき自分の手を離れ、
それが思ってもいない使用方法によって自分に突きつけられる、という経験に乏しいと思う。
そして、私は、日本語で折り合いをつけようとするから、疲れるんだなあと思った。