昨日、上野の文化会館にブラームスの交響曲第4番を聞きに行った。
私がはじめてクラシックのコンサートに連れて行ってもらったのは小学校3年生のとき。
確か、年末の第九だった。
私も母も、クラシックの曲が大好きだったので、
当時貧乏だった母は、マメにハガキ応募をして、クラシックのチケットを入手してくれた。
くじ運がいいときは、1カ月に2~3回、聞きに行ったこともある。
舞台が少し明るくなって、団員さんたちが席につき、演奏前の音合わせをする。
あの音が聞こえてきただけで、鳥肌が立った。
ブラームスの交響曲は、小学生の頃から好きだった曲のなかの1つ。
一番好きなのは、3番の第3楽章。
4番は、最初の入り方がすごく好きだ。
聞いているうちに、いろいろなことが頭に浮かんだ。
私は、西洋哲学や思想関連の本を読むと、無性にブラームスが聞きたくなることがある。
読んでいるときのBGMというよりも、読後に聞きたくなる。
そして聞いてみると、
これまでに読んできた本のなかで、理解が追いついていなかったところのイメージが、
音の感覚になって、なぜかピタリとはまってくることがある。
それに本の内容だけでなく、いろいろな人の一言や表情、
「ん?」と引っ掛かって、その後、深層心理のどこかに埋もれつつ燻っていた何かが、
なんとなく自分のなかで整理できてくる。
そして昨日は、はじめて文化会館でブラームスの4番を聞いたときのことを思い出した。
元気だったころの母の顔と声も、久しぶりに浮かんだ。
ちょうどあの頃、母は父との離婚のことで悩んでいた。
どんな気持ちでこの曲を聞いたのだろう。
私は幼いころから、ずっとクラシックの曲が好きだけれども、
純粋に「音」として楽しむことは、どうやらできないらしい。
音のイメージから浮かぶ自分なりのストーリー、
それがたとえ細切れのもので、ほんの一瞬の印象であったとしても、
波のようにやってくる「何か」、そう、心象風景のようなものが好きなのだ。
そして、曲の楽しみ方や好みは、どうやら小さい頃から変わっていないようだ。
いったいいつ頃、この趣味嗜好は決まったのだろう。
生まれたときからそうだったような気もするし、
何かの影響でそうなったような気もする。
ただ、クラシックを聞くと、私は自分の過去も現在、そして未来も、
すべてが融合するような、少しずつ変化をしつつも「あり続ける何か」を感じる。
音の技法、楽器の奏法から、音楽を深める人は音楽家となり、
私のような人間は、その喜びを享受する側にいる。
私から見ると、音を奏でることのできる人がうらやましく、
向こうから見ると、純粋に自分のためだけに音を楽しめる人がうらやましいかもしれない。
そして、その世界が広がればいいと思う。
私がはじめてクラシックのコンサートに連れて行ってもらったのは小学校3年生のとき。
確か、年末の第九だった。
私も母も、クラシックの曲が大好きだったので、
当時貧乏だった母は、マメにハガキ応募をして、クラシックのチケットを入手してくれた。
くじ運がいいときは、1カ月に2~3回、聞きに行ったこともある。
舞台が少し明るくなって、団員さんたちが席につき、演奏前の音合わせをする。
あの音が聞こえてきただけで、鳥肌が立った。
ブラームスの交響曲は、小学生の頃から好きだった曲のなかの1つ。
一番好きなのは、3番の第3楽章。
4番は、最初の入り方がすごく好きだ。
聞いているうちに、いろいろなことが頭に浮かんだ。
私は、西洋哲学や思想関連の本を読むと、無性にブラームスが聞きたくなることがある。
読んでいるときのBGMというよりも、読後に聞きたくなる。
そして聞いてみると、
これまでに読んできた本のなかで、理解が追いついていなかったところのイメージが、
音の感覚になって、なぜかピタリとはまってくることがある。
それに本の内容だけでなく、いろいろな人の一言や表情、
「ん?」と引っ掛かって、その後、深層心理のどこかに埋もれつつ燻っていた何かが、
なんとなく自分のなかで整理できてくる。
そして昨日は、はじめて文化会館でブラームスの4番を聞いたときのことを思い出した。
元気だったころの母の顔と声も、久しぶりに浮かんだ。
ちょうどあの頃、母は父との離婚のことで悩んでいた。
どんな気持ちでこの曲を聞いたのだろう。
私は幼いころから、ずっとクラシックの曲が好きだけれども、
純粋に「音」として楽しむことは、どうやらできないらしい。
音のイメージから浮かぶ自分なりのストーリー、
それがたとえ細切れのもので、ほんの一瞬の印象であったとしても、
波のようにやってくる「何か」、そう、心象風景のようなものが好きなのだ。
そして、曲の楽しみ方や好みは、どうやら小さい頃から変わっていないようだ。
いったいいつ頃、この趣味嗜好は決まったのだろう。
生まれたときからそうだったような気もするし、
何かの影響でそうなったような気もする。
ただ、クラシックを聞くと、私は自分の過去も現在、そして未来も、
すべてが融合するような、少しずつ変化をしつつも「あり続ける何か」を感じる。
音の技法、楽器の奏法から、音楽を深める人は音楽家となり、
私のような人間は、その喜びを享受する側にいる。
私から見ると、音を奏でることのできる人がうらやましく、
向こうから見ると、純粋に自分のためだけに音を楽しめる人がうらやましいかもしれない。
そして、その世界が広がればいいと思う。