一般的な社会人の能力を語るとき、一番重要視されるのは事務処理能力だと思う。
メールに3つの確認事項が書かれているとする。
まず、送信者側は「用件が3つあるんだぞ」とわかりやすいように書く必要がある。
これは、マナーだ。
普通は箇条書きにするなど、見てすぐにそうとわかるようにする。
次に、返信者側は、その箇条書きに、ひとつひとつ回答をしていく。
そうすればモレはない。そのはずだ。
でも、仕事をしていると、そうはうまく運ばない。
わざわざ1、2、3と番号までふったメールを送っているのに、
3行くらいで2だけの回答を書いたメールが平気で戻って来る。
ああ、ひとつのメールに複数の用件が書かれていると不便なんだな、と思って、
1メールに用件1つにする。
タイトルには、確認したい事項を文字で入れる。
回答をお願いしたい期限も一応書いておく。
そうすると、今度は返事が来ない。
正直に言ってイラっとするし、意味がわからない。
督促のメールを送ると、やっつけのような返事が戻って来る。
それで「いやいや、そうじゃなくて、この情報が欲しいのです」と、
再度依頼のメールを出すことになる。
最初は、私のお願いの仕方が悪いのかと思った。
いろいろと工夫した。
でも、必ずある特定の人のときに、スムーズにいかなくなる。
やはり相手に問題があるのではないか、と、ようやく他人に責任転嫁する気になって来た。
事務処理能力が極端に低い人、というのは、
老若男女あまり関係なく、一定の割合で社会にまぶされている。
高学歴だからといって、事務処理能力があるとは限らない。
でも、事務処理能力が低いからと言って、決して仕事ができないわけでもない。
会って話すと急にスムーズに動く場合もある。
要は、その人がキャッチしやすい方法で情報を投げることが大切。
それがアナログであれば、それはもう、しょうがない。
メールですまさず、会うしかない。
同じように、ある人に意見するとき、
私が言っても、まったく聞く耳をもってくれなかったとしても、
他の人が言うと素直に聞いてくれることがある。
それは、ひとつの方法として私も受け入れ、
その他の人、というのに、協力をあおがなければならない。
そのほうがよい結果をうむのであれば、
私がどうしたいか、という気持ちの部分なんて割り切ればいい。
でも、割り切れないから私なんだな。
メールに3つの確認事項が書かれているとする。
まず、送信者側は「用件が3つあるんだぞ」とわかりやすいように書く必要がある。
これは、マナーだ。
普通は箇条書きにするなど、見てすぐにそうとわかるようにする。
次に、返信者側は、その箇条書きに、ひとつひとつ回答をしていく。
そうすればモレはない。そのはずだ。
でも、仕事をしていると、そうはうまく運ばない。
わざわざ1、2、3と番号までふったメールを送っているのに、
3行くらいで2だけの回答を書いたメールが平気で戻って来る。
ああ、ひとつのメールに複数の用件が書かれていると不便なんだな、と思って、
1メールに用件1つにする。
タイトルには、確認したい事項を文字で入れる。
回答をお願いしたい期限も一応書いておく。
そうすると、今度は返事が来ない。
正直に言ってイラっとするし、意味がわからない。
督促のメールを送ると、やっつけのような返事が戻って来る。
それで「いやいや、そうじゃなくて、この情報が欲しいのです」と、
再度依頼のメールを出すことになる。
最初は、私のお願いの仕方が悪いのかと思った。
いろいろと工夫した。
でも、必ずある特定の人のときに、スムーズにいかなくなる。
やはり相手に問題があるのではないか、と、ようやく他人に責任転嫁する気になって来た。
事務処理能力が極端に低い人、というのは、
老若男女あまり関係なく、一定の割合で社会にまぶされている。
高学歴だからといって、事務処理能力があるとは限らない。
でも、事務処理能力が低いからと言って、決して仕事ができないわけでもない。
会って話すと急にスムーズに動く場合もある。
要は、その人がキャッチしやすい方法で情報を投げることが大切。
それがアナログであれば、それはもう、しょうがない。
メールですまさず、会うしかない。
同じように、ある人に意見するとき、
私が言っても、まったく聞く耳をもってくれなかったとしても、
他の人が言うと素直に聞いてくれることがある。
それは、ひとつの方法として私も受け入れ、
その他の人、というのに、協力をあおがなければならない。
そのほうがよい結果をうむのであれば、
私がどうしたいか、という気持ちの部分なんて割り切ればいい。
でも、割り切れないから私なんだな。