外国のお話の中には、ぬいぐるみをずっと抱っこしている子どもたちが出てきたりします。
その持ち主にとってはぬいぐるみは単に玩具ではなく、特別な存在であるようです。
このことは、新井素子さんのぬいぐるみに関するエッセイを読んだときに初めて納得がいきました。
ぬいぐるみ・・新井さんの言うところの「ぬいさん」は、生きているのです。
それは、その筋の人には当然の話なのでした。
その筋とは、あの筋ではなく、ぬいぐるみと会話のできる人たちのことです。
長女の虎子もそういう子どもでした。
初代のぬいさんは、うさぎ。
私が学生時代に友達からもらっていたものです。どういうわけか虎子のお気に入りとなり、物心つくまでずっとその「うさし」は彼女のそばにいました。
眠たくなると、鼻と鼻をこすりあわせてふむふむしています。
後に聞いてみると、それは一日のあれやこれやをうさしさんに報告していたとのことでした。
そばにおいているので、だんだんぬいちゃんの様子がおかしくなってきます。あちこちがぼろぼろになり、果ては分解が始まります。
とうとうどうしょうもなくなったときになんとか虎子を説得し、二代目を探しに行きました。デパートのぬいぐるみ売り場で見つけた二代目はあざらしの「みーちゃん」。
このみーちゃんにも本当にお世話になりました。
相変わらず朝な夕なに語りかけ、かたわらにはべらせていました。この二代目くんも程なく分解しはじめ、私からかなり強引な修理を施されて何度も復活しました。
どうしようもなくなったときに、やってきたのがパスタくんです。
この子は、本当に生きている犬でした。
みーちゃんはどうなったのか・・?
虎子に聞くとみーちゃんはある日パスタが来る少し前にいなくなったのだそうです。実際になくなったわけではありません。
顔がそれまでとはまったく違ったのだと。
私たちが見ていたぼろぼろのアザラシの顔は虎子には例えようもないほど愛らしく生き生きとみえていたようです。
今でも大真面目でそのときの話をする虎子です。
あくまでも実感として話してくれました。
世の中には、なにか不思議なものが見えてしまうという方もいらしゃるようですが、それと同じようなことが、起こっていたのかもしれませんね。
どうしてぬいぐるみにそこまで執着していたのか。
専門家に尋ねれば、なにか名前を付けられそうで怖いです。
虎子は自分なりに何かを克服していたのかもしれません。
その持ち主にとってはぬいぐるみは単に玩具ではなく、特別な存在であるようです。
このことは、新井素子さんのぬいぐるみに関するエッセイを読んだときに初めて納得がいきました。
ぬいぐるみ・・新井さんの言うところの「ぬいさん」は、生きているのです。
それは、その筋の人には当然の話なのでした。
その筋とは、あの筋ではなく、ぬいぐるみと会話のできる人たちのことです。
長女の虎子もそういう子どもでした。
初代のぬいさんは、うさぎ。
私が学生時代に友達からもらっていたものです。どういうわけか虎子のお気に入りとなり、物心つくまでずっとその「うさし」は彼女のそばにいました。
眠たくなると、鼻と鼻をこすりあわせてふむふむしています。
後に聞いてみると、それは一日のあれやこれやをうさしさんに報告していたとのことでした。
そばにおいているので、だんだんぬいちゃんの様子がおかしくなってきます。あちこちがぼろぼろになり、果ては分解が始まります。
とうとうどうしょうもなくなったときになんとか虎子を説得し、二代目を探しに行きました。デパートのぬいぐるみ売り場で見つけた二代目はあざらしの「みーちゃん」。
このみーちゃんにも本当にお世話になりました。
相変わらず朝な夕なに語りかけ、かたわらにはべらせていました。この二代目くんも程なく分解しはじめ、私からかなり強引な修理を施されて何度も復活しました。
どうしようもなくなったときに、やってきたのがパスタくんです。
この子は、本当に生きている犬でした。
みーちゃんはどうなったのか・・?
虎子に聞くとみーちゃんはある日パスタが来る少し前にいなくなったのだそうです。実際になくなったわけではありません。
顔がそれまでとはまったく違ったのだと。
私たちが見ていたぼろぼろのアザラシの顔は虎子には例えようもないほど愛らしく生き生きとみえていたようです。
今でも大真面目でそのときの話をする虎子です。
あくまでも実感として話してくれました。
世の中には、なにか不思議なものが見えてしまうという方もいらしゃるようですが、それと同じようなことが、起こっていたのかもしれませんね。
どうしてぬいぐるみにそこまで執着していたのか。
専門家に尋ねれば、なにか名前を付けられそうで怖いです。
虎子は自分なりに何かを克服していたのかもしれません。
布で作られた女の子のお人形だったのですが、彼女の安眠には不可欠のものでした。
「ねんねんちゃんの足を握って指をしゃぶりながら眠る」というのが彼女の睡眠スタイルだったことを今でも鮮明に覚えています。
おかげでねんねんちゃんの足は彼女の唾液にまみれてものすごい臭いになってしまうのですが、人間て言うのは不思議なもので、自分の臭いだけはあまり気にならないものなんですよね。
それでもガビガビになった足を何度となく洗濯し、新しいものに取り替えながらも小学校の低学年のころまではけして手放しませんでしたねぇ。
懐かしい育児の思い出の一つです。
うちの二人も、思い出すと可愛いかったな-。
目の前の竜虎を目にすると・・うぅ。
でも全力で守りたいかけがえのない宝物?ですね。
年とっていい加減にしろよ、と思われる私たちのほうが、心の拠りどころを必要としているのかもしれません。
子供の頃は大人は本当に大人で、何でも出来て何でも知っているように思っていたものですが、いざ年をとって大人になってみると、何も分かっていない自分に愕然とします。
困っちゃいます、私は。
母さんはそんなことないでしょうけどもね。
ちょっと面白いサイトみつけました。
http://hage.exblog.jp/i8
「人身御供論―通過儀礼としての殺人」(大塚 英志)角川文庫
面白そうじゃない?
なんかね、この件に関しては、理屈で理解するより、感覚的に面白がっていたいのよね。
新井素子さんのぬいさんの解説は説得力あったんだけどなぁ。今、捜索中。もうどこかにいったのかな。
姪っ子は、毛布とか洋服のツルツルしたタグがお気に入りだったけど、聞いてみるといろいろバリエーションがあって面白いね。私?私は自分の腕を偏愛していた・・・ことを思い出しました。