豚も杓子も。

私にすれば上出来じゃん!と開き直って、日々新たに生活しています。

鎌倉(2)

2007年11月29日 | Weblog
鎌倉といえば、大仏様。
長谷寺の大きな観音様にお参りした後、遊覧バス「よしつね号」は大仏様のもとへ。


与謝野晶子さんのお墨付きどおり、大仏様はとてもハンサムであらっしゃいました。
でもちょっと、猫背。


一周ぐるりとくまなく拝見。




「・・・・・照れるなあ。」


鎌倉(1)

2007年11月28日 | Weblog
竜宮城?・・・いいえ、ここは小田急線片瀬江ノ島駅です。


ここから、江ノ電の定期遊覧バス、鎌倉観光の「よしつね号」が出発します。


向かいは、江ノ島♪~
少し早く着いたので、せっかくですから上陸を試みました。晴れ渡った空。目を凝らすと、西には雪をかぶった富士山もうっすらと見えました。わかるかなあ?


近づくに連れて大きくなる右手の不思議な建物。なんでしょう?
島の入り口には鳥居。奥に見える神社まで参道が続いているようです。お参りしていきたかったのですが、バスの出発時刻も迫りやむなく引き返しました。不思議な建物は、温泉施設のようでした。健康ランドみたいなものでしょうか?


さて、ここ片瀬江ノ島から出発するのは、どうやら私たち親子二人だけ!
前の日の午後、あと三席というところをぎりぎり滑り込みセーフで予約したので本当は補助席なのですが、鎌倉までの海岸線は最前列でガイドさんと運転手さんを二人り占めさせてもらいました。
右に海岸、左に江ノ電を見ながらの約二十分。贅沢にも貸しきり状態です。稲村ケ崎の戦記や夏の海岸の様子をガイドしてもらいながら、鎌倉駅に向かいます。


この日は連休の中日ということで、早朝からたくさんの車列でした。渋滞との戦いになりそうというガイドさんの言葉を聞きながら、大勢のお客さんの待つ鎌倉に入っていきました。

某所にて

2007年11月26日 | Weblog
女の子の顔に見えません?ちょっとはにかんでいる感じの・・。



カメラを構えていると通報されてもしかたないという極めて微妙な場所ながら、見かけに似合わずハイテクなその装置に昭和33年生まれの女子二人はいたく感動しまして、思わず知らずカメラを取り出していたのでありました。
某所でも紹介されておりましたとおり、この洗面ボールは洗剤・水が自動で出てくるのみならず、送風装置まで内臓してある至れり尽くせりの優れものなのです。
面白~~~い!!

撮影されてる方は「お客さま、閉店間近ですからお急ぎください・・」って言いたかったのかもしれませんね。
某ジャズ喫茶近くの某所にて・・。


しみじみ・・

2007年11月25日 | Weblog
なんというか、目の前に広がる風景に感慨深いものがありました。



テレビの画面でも何度も目にし、なにより歌の中で繰り返し耳にしていた場所を自分の目で実際に生で見る。・・・ことは、そんなに珍しいことではないのかもしれません。
でも、何故かここはしみじみ嬉しかったです。

お決まりの例の歌を、説明がてら歌いながら橋を歩く母をたしなめることもできず、仕方なく傍らを歩く娘にはない感慨でしょう。

しかしながら想像していたのとは大違い。
なんとなく天橋立みたいに松林の遊歩道が海に伸びているものだと思っていましたが、まことに立派で頑丈な車道がしっかりと海の上を走っておりました。
そうだったのか~~。


(業務連絡:無事先ほど帰還いたしました。)

塗り箸

2007年11月22日 | Weblog
デパートの台所用品売り場。二畳ほどの作業場にお箸に囲まれて座っているおじさん。そばを通るお客さんを呼びとめ、お箸をあげましょうとおっしゃいます。
「もう今日でおしまいやから、あげる。正月に取り箸にしたらええから・・」と、5センチほど塗り残しのある太くて長いお箸を下さいました。最後の仕上げにはその5センチほどを切り取るようですが、あえて残して面白さを出すということでした。


おじさんは、若狭塗りの箸職人さん。デパ-トでの出張実演販売でした。周りには色とりどり、形もさまざまなお箸が所狭しと並べられています。
おお!しかも、朝のテレビ小説の写真も一緒です。今回のNHKの朝ドラの主人公のお父さんは、若狭塗箸の職人さんなのでした。
さっそく取り入れるなんて、おっちゃんなかなかタイムリーやないですか~。

(朝ドラ「ちりとてちん」、面白いです。主人公もさることながら、とぼけた味わいの母親役の和久井映美さんが良いです!でも、時々ここぞという時に見せるどきっとするほどピュアな表情、これも素敵。「ひたむきさ」を演じさせたら右に出るものはない女優さんではないかしら・・。同じ年頃の子どもを持つ母親の可笑しさ悲しさ愚かさ、そんなものも見せてくださるのでとっても参考になります。桂吉弥さんもご出演!)

売り場には江戸時代や明治、大正、昭和の時代に作られた年代物のお箸も展示してありました。手にとって感触を確かめ、これはおいくらなの・・と訪ねる奥様も。
「値段を聞いたら、救急車呼ばんとあかんよ~!」とのお答でしたが、果たしておいくらなのでしょう。古いお箸は、いずれも螺鈿と呼ばれる、塗りの中からきらきら光がこぼれるようなサイケな感じの(いまいち表現がレトロね・・)複雑な模様のお箸でした。

なんとなく無料で頂くのも気が引けて、気に入ったものがあれば・・と一通り見せていただきました。普段目にするプラスチック製のものとは違う温かみのある塗りのお箸。さすがにどれも甲乙付けがたくて迷います。これぞ、というお薦めはどれですか?と聞いてみました。
すると示してくださったのが、八角形のお箸。何十回も漆を塗りを重ねたというシンプルながら渋い光沢のお箸でした。螺鈿細工のものが若狭塗りらしいのかなと思っていましたが、せっかくのお薦めの品。一本ずつ吟味して、間違いないと太鼓判を押してもらったその一組を買うことに決めました。

エビで鯛を釣る・・・そんな言葉も今では浮かんできますが、これも何かのご縁でしょう。年明けから使うのを楽しみに、引き出しにしまっておきました。

読み終えた・・

2007年11月20日 | Weblog
久々に、大部の作品を読み終えました。二ヶ月近く出かける時はいつも携えて、時間を見つけて読み進めていました。すべてのページに目を通した今、充実感と寂しさを味わっています。
感銘を受けた作品の内容そのものもさることながら、このところの習慣となっていたことが失われた喪失感・・。プチ空き巣症候群のようなものかもしれません。

加賀乙彦さんの「宣告」。文庫本で三分冊に分かれたこの長い作品は、また非常に濃い物語でもありました。死刑囚の収容されている拘置所がその舞台。陰鬱な設定、描かれている人々の灰色な様子に、最初に手にした一年前は読み通すことが出来なくて、そのままにしていた本でした。何かのはずみに手に取り、友人が作ってくれたカバーをせっかくだからと掛けて本を持ち歩くうちに、すっかりその世界に引き込まれていきました。日常生活とは別の本と私だけの世界が存在しているような、そんな時間を過ごしていました。

物語の初めでは、こんな人が死刑宣告されているなんて、犯した罪は政治的なものなのか・・と思わされるような知的で物腰の落ち着いた主人公。実は、血も凍るような凄惨な殺人事件の首謀者なのですが、その彼が精神的に極限まで追いつめられた中で到達した静かな日常とその最後までの数日が描かれている作品です。上・中・下に分かれた三分冊の二部までが、ほとんどアメリカのドラマ24と同じように、ある一日に費やされます。俯瞰とクローズアップ。その両方によって、死刑宣告を受けて同じ区域の独房にそれぞれ収監されている数人とその置かれた状況が克明に読み手に伝わってきます。
いつ行われるかわからない死刑執行。宣告そのものより、執行がいつ行われるかがわからない状況・・これが、非常につらい精神状態を導くというのです。自分の順番が今日か明日かと待つ彼らのうち、あるものは発狂し、あるものは自殺することによりその耐え難い苦しみから逃避しようとします。しかし、一部、そんな状況の中だからこそ、非常に深遠な境地に達することの出来た人の存在もまたあるのです。主人公が、まさにその一人でありました。信仰がその源にあるとはいえ、彼は悪に身を染めた自分という存在を通して、人間の枠を超えた真実を見出そうとし、ついには悪人である自分の存在さえも存在するに値するという思考の中に自分の存在の合理性を見出そうとしていきます。カトリックに帰依した主人公が到達した世界をそのままに理解することは到底出来ませんが、やがて迎えるであろう死の先、というより生の以前への世界こそみなが帰る場所、すべてが生まれるところという深い洞察は、死を宣告された人にだからこそ到達できる境地なのだろうということはおぼろげに理解できます。それが極刑を宣告されなければ彼には到達不可能だったのだということがひたすら悲しいことですが。人間の悪も善も超えた世界の存在と心を通わせている彼。16年という長い収監生活の中、懲罰に掛けられるほどの規律違反など一度もなく、収容されている様子を、ほとんど検閲といっていいほどの内容の審査を受けつつも本として出版した著者でもある彼。その監督者からも一目置かれているいわば優れた人格者と見なされるにいたった現在を迎えた彼ですが、その状況はなんら彼に下された宣告を覆す力を持ちえません。彼が人生で始めて心から喜びを覚えたとする人との初めての対面の翌日に宣告の執行が告げられます。彼は、しかしながら執行を喜んでいるとも思えます。それは、執行の日が来ることの恐怖にさいなまされることから逃れるというよりは、それが彼にもたらされるべきこととして受け入れられることができるためのようでした。
最後の儀式を滞りなく終え、刑の執行に携わる人へのねぎらいをすら口にし握手を求めて、最後の階段を登っていった彼。その様子は、彼に心通じるものを見出し、自ら志願して立会い人となった若い医官の目で克明に描写されます。彼は最後の夜にその医官に、いつか自分の喜びの拠り所になった人に会って欲しいと告げていました。医官とその人・・一年近く彼と文通していた相手である心理学専攻の女子大生・・とが、彼の死後に会い、それぞれの中で生きている別々の彼の姿が二人の中で交じり合いなお生き続けていくことが温かい希望として残るような、そんな読後感が漂ったのが救いでした。
彼の心境、悪の本質に迫る思考。そういうものと日々数ページずつ過ごしていくことは、本から目を上げて自分の生きている現実に戻った時に、ほっと安心するような心持を与えてくれました。今生きていることに感謝しよう。日々この一瞬を楽しもう。そんな他愛もないことしか浮かんでこないことが少々残念ですが・・。

作品の中では、映画のオムニバス形式のように、一人一人の死刑囚の罪にいたる過程なども記されていました。「宣告」の主人公の場合・・。これは、裁判で有利な結果を得るためということもあり、彼の性格に異常性を認めることでその犯行に及んだ理由付けが行われていました。その異常性格を作ったものは何か?もともとの資質にそれが求められて裁判は進められ、彼自身もその大きな流れに抗うことなく審理は終了したわけですが、裁判では詳らかにされなかった彼の成育過程の可哀想な状況が、生来の彼の特質以上に彼の性格形成に大きな影響を及ぼしたのではないかと思いました。
その大きな原因は、長兄、そして母親にありました。母親は早くに夫を亡くし、教師として一家を支えてきた職業婦人の先駆けとなったような人です。しかし、この人物は母親としてはどうなのか・・という態度をしばしば見せてきた人でもありました。幼い子を一人で長い道のりかかる幼稚園に通わせる。小学生の彼が盲腸で病院に担ぎ込まれた時に駆けつけても来ず付き添わなかったばかりか、術後数日経ってやっと面会に来る。空襲で命からがら逃げ帰った高校生のわが子の姿に喜びもせず労わりの言葉すらかけない。長兄の家庭内暴力もなすがままにさせるというまことに情が薄いとしか思われない女性なのです。
一人一人に焦点を当てながら、この母親が自分の言葉でここにいたる状況を述懐する場面はありませんでした。同じ母親として、各場面ではいったいどういう心境だったのか・・それを知りたいと今でも思います。
そんな母親ですが、息子が16年間収監されている間は、毎週遠いところを通って面会に訪れ、優秀な弁護士を雇い、徳の高い神父に息子との面会をお願いし、ついには洗礼を受けさせるという献身的な振る舞いをみせます。気持ちの離れていた息子もしだいに母親に心を開き、母も最後の日には拘置所を出る車に無防備に駆け寄り最後の別れを告げるという情愛を示します。
であればこそ、幼少から青年期にわたっての母親と彼との関係を母親側からの目線で語ってもらいたかったと思うのです。作品としては冗長なものになりかねませんが、本当に興味あるところなのです。

ところで、例の空き巣症候群・・。
克服するべき対象の示唆を受けました。
「カラマーゾフの兄弟」。
新訳の広告を見て気になっていました。
とりあえず、二部まで手に入れました。

でも、本のカバーを掛け替えるのは、もうしばらく後にしようと思います。

新酒の集い

2007年11月18日 | Weblog
昨日一目ぼれしたお皿・・というか鉢を、一日考えた末に購入し、今日のボジョレー・ヌーボーを飲む会に備えました。
箱に入っていた説明書きを見ると多治見の製でした。雲錦 木の葉鉢という名前がついていました。くらしのうつわということで気軽に使う種類の家庭用の器ですが、模様に惹かれました。
今日の飲み会は、妹一家と。
大きな声では言えませんが、我が家のクリーンアップ作戦の一環でもあります。
家の中をきれいにしておくには、お客様をたびたびお招きすればいい・・というのは、家を綺麗に保つ達人の極意だとか。みたぽん宿泊に備えて、ちょっとあちこちきれいにした状態を保つべく?一番気兼ねのない一家にまずは協力してもらいました。
おりしも、妹宅には昨夜「比内地鶏きりたんぽ鍋セット」というものが到来したそうで・・。
これは、早速今日のメニューに供出されることになりました。ラッキー!(これも、えびす様のご利益か?)


初使いのお皿には、妹持参の豆サラダを入れました。牛肉のたたきと豚のスペアリブのママレード煮(去年、最後の最後で焦がしたものを甘味料に転用中・・)が一応今夜のメイン。あとはチーズを各種。これで持参の一本とこちらの二本を飲み比べました。


しかし、みなワインの味など語れるメンバーではなく、違うことはわかるねえなどと話しながら気楽な会を楽しみました。
せっかく、紅葉のお皿を購入したことだし、またこれからもこの時期新酒を口実に集いたいものだと思います。来月は、去年購入したおでん鍋でクリーンアップ作戦を展開しようかなと検討中。

ところで、比内地鶏。
何故かわが家には、ご縁があったようです。
先日突然届いた三越からのお手紙。中は、比内地鶏偽装事件のお詫びと新たに何か他の品を注文して欲しいという依頼でした。どうも関係の商品を我が家は贈答品リストから選んで注文していたようなのでした。そういえば、快気祝いか何かで焼き鳥セットを頼みました。しかし、それが比内地鶏だとは、すっかり忘れていたのですね。美味しく頂いたので・・・なんだか申し訳ないです。しかも、時をあけてもう一通同じお手紙。よっぽど焼き鳥に執心していた家だなと、なんとなく苦笑い・・。
直接関係しない他人事だと思っていた偽装事件が、見事に?我が家にも降りかかったのでした。次は、何にしましょう。

えびす講

2007年11月17日 | Weblog
この土日から街は本格的なえびす講。商売繁盛を願うえびす神社のお祭りで賑わいます。屋台の準備も着々と進んでいました。



宵宮の今日、通りかかったのも何かのご縁。お参りをして商売繁盛を願い、特別に今日から用意されているおみくじを引いてみました。おみくじには当たり番号が指定されていて、その番号が出れば、小判をくださるとのこと。


深い箱に入った木札をガラガラかき混ぜて、えいやっと取り出すと24番。
・・・当たりだ!
からんからんと鐘を鳴らしてもらい、小判を頂戴いたしました。
なんだか、とってもうれしいです。
せっかくですから、小判をお目にかけたいと思います。ご利益ありますように!


沙翁

2007年11月16日 | Weblog
シェイクスピアの戯曲を、東北弁で演じる劇団があるそうです。
少し前の日経新聞の最終面の記事で知りました。主宰の方は、大学の先生。ご自身が英国留学の折、シェイクスピアのお芝居を浴びるほどご覧になったことがあったのだそうです。観劇していると、俳優の台詞の中に標準語以外のさまざまな言葉が含まれているのに気が付かれました。帰国してかかわった催しでのお芝居。地方の言葉を使ったある台詞を俳優が上手く言えない時、それを自分たちの言葉に置き換えてみると、俄然舞台が生き生きしてきたといいます。そんな体験から、いつもは標準語でしか演じられることのないシェイクスピアを地元の言葉で演じてみようということになったのだそうです。

例えば、ロミオとジュリエットのバルコニーのシーンは、「おおロミオ、ロミオ、なすてあんたはロミオだべ」。
マクベスの運命を予言する三人の女性は恐山のイタコに置き換えられ、ハムレットのかの有名な台詞「To be or not to be・・」は「すっか、すねがだ、なじょすっぺ」と訳されているのだそう。

東北の独特の言葉で語られる台詞は、想像するだけでも面白そうです。地元の人が身近に感じるだけでなく、異なる地域に住む私たちにもまた違ったシェークスピアの世界を見せてくれそうです。あまりに本格的過ぎると今度はまったくわからないかも?
でも、シェイクスピアの戯曲は大まかな筋をあらかじめ辿って置くことが出来るので、まったく初めて見る舞台よりはなじみやすいだろうと思います。
使う言葉が方言だということとともに、東北の歴史にもこだわりを持っているいという劇団シェイクスピアカンパニー。来年は、東京でも上演される機会があるようです。そのうちどこかで出会えそうな予感もしています。

しかし、これがもしも広島弁だったら・・。
ジュリエットは、相当迫力あるでしょうね。